大童法慧 | houe_admin
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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Author: houe_admin


 

1月 01日 前へ

前へ前へ つまずいても 前へ前へ 転んでも 前へ前へ 倒れても 前へ前へ 腰骨を立て あごを引き 目を閉じる事なく 前へ前へ 嗤われても 罵倒されても 前へ前へ ・・・それでも 前へ前へ 焦点を地平線にあてて 前へ前へ 本年もよろしくお願い致します   法慧
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12月 24日 初詣

今年の正月、やっとの思いで、主人と初詣にでかけました。 この3年間、お正月が来ても、とてもそんな気持なかったんです。 主人も同じだったと思います。 でも思い切って、誘ってみました。暖かく、穏やかな日でした。 娘が生きていた6年間、毎年、一緒にでかけた神社です。 はっきりと思いだすんですよね、娘の事を。 ああ、ここでお御籤を買ったなとか・・・ここで、お昼を食べたなとか・・・ここで、写真を撮ったなとかって・・・ 毎年、家族で一枚の絵馬を求め、願い事を書いてました。 みんな元気で暮らせますようにとか、パパが煙草をやめられますよにとか、マンションを買う夢もあったし・・・ 「絵馬を書かない?」と、主人に言いました。 彼は、黙って頷いて・・・先に書きはじめました。 渡された絵馬には「貴代美が幸せになりますように パパ」と、書いてありました。 貴代美とは・・・娘の名前です。 それを見た時、涙があふれました。でも、その時です。 「やり直せる」って、この人と一緒なら、「きっと、やり直せる」って、身震いをしてしまうほど強く感じました。 亡き吾子の 幸せ願う 初詣 ・・・間もなく、新しい年がやってくる、さぁ。
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12月 16日 省みる

今月はじめ、東京都私学財団主催による、渡辺徹氏の講演会がありました。 演題は、「生きた目線」 役者になる経緯や文学座での体験談。 ドラマ太陽にほえろの新人刑事として大抜擢された事や、石原裕次郎氏との出会いの事。 新人刑事役として、撮影現場では走ってばかり。 与えられた台詞は、わずかだった。 満を持して言う台詞に、OKがでない。何度も、取り直しを命じられた。 文学座で学習したものを、改めて読み直したり、その役になりきろうとして努めたりしたけれども・・・全く、だめだった。 落ち込む日々の中、公園のベンチに座っていた時の事。 砂場で数人の幼児が遊んでいた。 親たちは、そんな子供に目もくれず、おしゃべりに夢中。 どうやら、子供たちはお城をつくろうとしていたらしいが、うまくいかない。 何度も繰り返すが、失敗ばかり。 その姿を見続けているうち手伝ってあげようという気になり、ベンチを立ち上がって・・・ その時、「ああ、これだ」と、気付く経験をした。 この子達の行為は、充分に、俺を説得したではないか。 演じるとか、なりきるとか、そんな頭であれこれと作り上げたものは、必要ないんだ。 純真な思いがあれば伝わるし、それだけで、見るものを感動する事ができる。 次の撮影。 彼の台詞は、一発でOKだった。 話を聞きながら、ふと、わが身を省みて、思った事。 布教の勉強をしているけれど、それは、あれこれと頭で考えて・・・ 間がどうだ、構成がどうだ、時間配分がどうだ、発声がどうだ、等の指摘もあるが・・・ 問われている本質は、伝えたい法や思いがあるか否か、だ。 法話は、ちょっいい話でも、面白小話でも、独自の見解でもない。 布教を志すお坊さんを「ベロ師」「舌屋」「口坐禅」と、揶揄するお坊さんもいる。 無舌居士・三遊亭円朝師匠は、山岡鉄舟大居士に「舌で話すな」と、諭され禅を学んだ。 時に、虚空にむかって、話りかけているような届かない空しさを感じる事もある。 語りかけなくとも、伝わるものがなければ・・・ 語りかけなくとも、伝わるものを持たなければ・・・ ・・・そう、語りかけても、何も伝わらないのだ。
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12月 11日 心の人

吉川英治を読んでいたら、こんな内容の話が書かれていた。 彼が受けた就職試験の面接の最後に、支配人みたいな人から聞かれたそうだ。 「あなたには宗教がありますか? わたしの店では、実は、宗教のないような人は入れないのです」 これで、面接もおしまいになりかけ、あわてて彼は言い添えた。 「宗教はありませんけれども、ぼくは母がいつでも自分の胸の中にあって、 ぼくはお母さんを思い出すときは、決して悪いことはいたしません。 ぼくはお母さんを思い出せば、勉強せずにはおられません。 それじゃいけないですか?」 後日、採用の通知がきて驚いた、と。 母を思えば、決して悪いことはできない。母を思えば、勉強せずにおられない。 あなたの心の人は誰ですか? 生きる力を与えてくれる人に、恥じない生き方を。 ・・・父母を思えば、人を欺く事はできない。 ・・・師を思えば、貧なる事にも耐えられる。
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12月 04日

試みに、筆を持って、横線を書いてごらん。そう、漢数字の「一」を。 どうかな?その「一」は? 上手に書けたかな?それとも、思うようにいかなかったかな? もし、今、あなたが書いたその「一」に、あなたの全てが現れていると指摘されたら、どう思うかな? 「勝手に決めんなよ。そんなんで、何がわかるんだよ!」って、思うかな? 確かに、そうだよね。そんな「一」の字ひとつで、俺がわかってたまるかって、ね。 でもね・・・ 高校生の頃、小林秀雄が好きでよく読んでた。『西行』とか『無常といふ事』とか。 評論はともかく、小林から二つの事を学んだ。 そのひとつは、作家の本を全集で読む事。 大学の頃、坂口安吾や中島敦、そして、吉田松陰なんかに取り組んだ。 リルケの原文は、数ヶ月で挫折しちゃったけどね・・・。 もうひとつは、審美眼を養う事。つまり、本物を見るって事。 縁あって、遠州流の茶道を学び、美術館や博物館に通ったよ。 でもなかなか難しいし、実際、そんなに解るもんではないね。好き嫌いもあるしさ。 でも、本物に触れる事は大切だと思う。芸術でも人間でも・・・ タイトルは失念したけど、小林と亀井勝一郎がバスに乗って、伊豆を散策している時の話。 確か、亀井勝一郎だったと思うんだけど、まぁ、いいや。 そのバスに、地元の女子高生が乗ってきた。 彼女の顔を見た瞬間、小林は亀井に、これから彼女が歩む人生が見えるって、伝えるんだ。 すると、亀井が「俺も見える」と応えた。 顔を見た瞬間、その人が解る、もしくは、解ったような気になる。 手相というのもあるし、人相というのもある。 もっと簡単にたとえれば、電話でもそうだろう。 相手が目に見えなくとも、なんとなく、わかる。 どんな思いで話をしているかって。 だいたい、人は声を聞けば、ね。 そういうことって、考えてみれば普通にやっていることだろう。 ほら、第一印象や先入観とか、この言葉は特別なものではないよね。 第一印象が良かったとか、先入観を持って彼を見たとかってね。 そう、それと、同じ事なんだ。小林や亀井が見たものは。 ただ、その瞬間に、得る物・気付く物を正しく受け止め判断する力があるんだ。 それはおそらく、人生の波にもまれ、苦しみ、あがいた結果、身についたものだろう。 そして、それと同時に、彼らが本物を知っていたからだろう。 最初にいったね。本物の芸術と本物の人間に会う事の大切だって。 お拝をして教えを請える人に会えれば、そんな師と呼べる人に会えれば、幸せだよ。 だからこそ、常に審美眼を磨き、感度を良くしていなければならない。 坐禅の修行に独参<どくさん>というのがあるんだけど。 坐禅中に、師が鈴を鳴らす。これは見解<けんげ>をもってこいという合図だ。 すると、修行者は一目散に走って、喚鐘場に並ぶ。 そして、師の合図のチリンチリンが聞こえるや、喚鐘をふたつ打つ。カーン・カーンってね。 本当はそのカーンの鐘の音ひとつで、勝負あり、なんだって。 そう、「カーン」に全部が現れている、足音に全部現れている、呼吸ひとつに、お拝の姿に・・・だから、もう一度坐りなおしてこい、とチリンチリンって、鈴が鳴る。 さて、最初の「一」の話だけど、やっぱり解るんだよね。見る人が見れば、解る。 「書は心だ。上手い下手ではないんです」という意見もある。 けれど・・・考えてごらん。 いくら真心があっても、それを上手に表現できなければ、もったいないよね。 若い頃は年上のお姉さんに惹かれてしまう事が多い。 僕も経験があるけれど、近所にとても優しく綺麗な人がいてね。 ませたガキだったんだね、お姉さんに憧れてた。 朝、「おはよう」と挨拶をするだけで、その日の訪れを感謝したくなるくらいの人だった。 会えない朝は、学校を休もうと思うくらい、落ち込んだ。 そんなある日、僕は彼女の落とした手帳を拾うことになる。 その手帳に書かれた字を見たとき、僕は・・・ 字の話から進めてきたけど、じゃあ、お前の字はどないやねん、と言われると・・・ いざ、練習。
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11月 28日 菩提寺について [2]

作務衣に剃りあげた頭、頭陀袋を持つ私の姿を見て、「お坊さん?」と、乗り込んだタクシーの運転手が、勝手にしゃべり始めた。 昭和40年頃も、東京に出て働くのは当然の事だった、と。 その後は色んな職を転々として、今じゃあ、この年になってもタクシーに乗って稼いでるよ、と。 「曲がりなりにも家庭をもって、息子二人も独立して、今はかみさんと二人暮らし。 家を建てる甲斐性はなかったけど、それなりに楽しかったさ。 たまに見る孫の顔は、嬉しいね。なかなか、会いにこないけどさ。 競馬と酒ぐらいかな、あとは、何年かに一度、旅行する事かなぁ。 あのさ、お墓の事なんだけどさ・・・2年前、故郷のお寺に墓地を買ったんだ。 先祖代々は兄貴が守ってるから、自分たち夫婦のをね。 永代供養ってやつでさ。 息子たちに面倒をかけるのは嫌だし、自分たちの事は自分たちでしようと思ってさ。 かみさんも同郷で、やっぱり、故郷が恋しくてね。 そこのお寺ね、80歳を超えた優しい和尚さんでさ。 かくしゃくとしていて、村の人たちも尊敬してるんだよ。 ただ、跡取りの息子さんが事故で死んじゃって、その娘さんが大学を出たら跡を継ぐって話だったんだよなあ。 でもね・・その娘さんも事故でさ。 和尚さんは、ショックで入院したらしいんだよね。 もう年だしね、跡取りいなくなっちまって。 こんな場合、どうなるんだろう? どこかから、新しい和尚さんが来てくれるのかな? 本山から派遣してくれるのかな? 兄貴から聞いたけど、檀家みんなが気にしているって。 そりゃそうだよなあ。 でもさ、田舎の小さな村だからさ、誰も来てくれないんじゃないかって。 住職さんも息子さんも学校の先生をしながら、お寺をしていたからね。 だから、誰も来てくれないんじゃないかってね。 でもこのまま、お坊さんが来なかったら、お寺やお墓はどうなるんだろう? あのさ、どうなるの?」 心情的には何とか力になってあげたい。 けれどおそらく、現実的な処理が行われる。あるいは、政治的に解決される。 「どうなるのかな。でも、いい方向に転がっていくといいね」 牧師さんは、協会からの派遣で赴任するらしい。 だから、何年かに一度、布教の為に引越しをしなければならない。
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11月 20日 僧形

先日、日本クリスチャンアカデミー関東活動センターで、「対話プログラム」の催しがありました。 テーマは、『死と葬儀 ~宗教はどう係る~』 講師は、雑誌「SOGI」の編集長の碑文谷創先生でした。私も応答者として参加いたしました。 碑文谷先生の講演<レジュメ有> 1、脆い死の時代 医療化した死の時代 非神話化した死の時代 2、看取りと葬送の問題点 3、宗教者の係わりと必要とされるサポート 時代背景や文化の規制を受けながらではありますが、葬儀の本質とは、いかに、死を受け入れるかであり、その葬送の形も変化する事を教えられました。 応答者ということでしたので、講演に対して、2・3の質問をすればいいのだろうと思っていたのですが、20分程度で、普段の活動を通じての問題提起をしてくださいと、司会の方に求められました。 そこで、出家の経緯や参禅の事、役僧の体験や葬儀・法事の思う事、僧侶や寺院の在り方について考えるところを述べました。 その後、全体の質疑応答のなかで、こんな問いをいただきました。 「供養という形において、<なんとなく落ち着かない気持ち>を利用して、お金儲けをしている宗教者が多いと思うけれども、その点をどのよう考えているのか」 この問いに対して碑文谷先生は、「寄り添う者」をキーワードにして、こんな体験を語られました。 ある日、僧侶との話し合いの中で、「斎場に行っても、遺族が挨拶にこないで、葬儀社が代わりにくることがある」と発言した者がいた。そこで即座に、指摘した。 「それは違う。あなたがた僧侶がまず遺族のところに出向き、話を聴くのが本来だ」 宗教者は遺族の悲しみの同伴者になることを考えるべきだ、と。 次に、マイクを渡され、私はこんなふうに答えました。 「とてもありがたい、厳しいご指摘です。 私自身は、その<なんとなく落ち着かない気持ち>を利用して金儲けはしないぞ、と覚悟をしております。 役僧を辞め、さぁどうしようと困った時、自分の中で芽生えた答えのひとつが、僧形として生きるでした。 つまり、お坊さんとして生きる事です。 じゃあ、そのお坊さんと在俗の方々との違いは何か? それは、ものの見方だと思います。 参禅のお師匠様から叩き込まれたものの見方を、ご縁あるところで説き示す事だ、と。」 38歳、やっと、その歩みをはじめたばかり・・・
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11月 11日 修業と修行

業を修めると書いて、修業。 学芸を習い修めるのが、修業。 一事を究めようと、一事に秀でようと、修練を重ねる。 和菓子職人になるための修業、小説家になるための文章修業。 習得がすめば、その修業は卒業できる。 行を修めると書いて、修行。 仏道や武道を修めるのが、修行。 一つ一つの行いを丁寧に修めていくのが、修行。 お寺で坐禅修行、技を極めたものが道場を巡って武者修行。 心掛け次第で、どこまでも深めていける。 鈴木正三が、弟子の恵中に示した。「修行とは、我を尽くす事なり」 「我を尽くす」とは? 自分の為に、懸命に励む事のように思うけど・・・ 頑張っている俺には、褒められたい俺がいる。 努力している私には、認めて欲しい私がいる。 頑張りや努力のそばに、他人と比べる自分が顔を出す。 隣りを横目で覗く事でしか、自分を確認できない。 止むにやまれぬ思いから、禅門に飛び込んだあの日、お師匠様からこんな教えをいただいた。 「いま・ここ・一所懸命」 「他人と自分を比較する事をやめなさい」と。 慙愧に耐えないけれども・・・ 我を尽くすとは、自分という塊に拘泥しない事。 我を尽くす時、実は、我ならざるものはない。 いま・ここに、全てがあった。
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11月 04日 他己

夕方、かったるそうにレジを打つ30前の店員。 小銭を取り出すのに手間取っている老婆に、小さく吐き捨てた。 「うぜぇ、早くしろよ」 1時間なんぼの仕事にさえ、プライドが持てないのか? こんな店員を雇い、使いまわして捨てるのも、これもまた、雇われの店長。 「母子家庭になったおかげで、市営住宅にも入れたし、手当ても結構、貰えるの」と、カウンターで、寿司をほおばりながら語る女。 「5年前に離婚届けをだしてさ、でも、実は、・・・ずっと、旦那と暮らしてるのよ、凄いでしょ。だって、こんな時代、真面目にやったら、貯金もできないわよ。 子供?いるわ。小学生と中学生の二人の息子」 利権目当ての偽装離婚。 その親の背中は、どんなふうに、子供に映るのだろうか? くすねた金じゃあ、うまい酒は飲めやしない。 大きなバイクを買っても、任意保険に入らない理由は、「金がないから」 高級車を転がしても、娘の保育料を払わぬ親。 ブランド物のバッグを持つために、「援助」を求める女。 そりゃあ、いい物はいい。でも、本当はどうなのか? 消費による自己実現。晦まされた人の価値。 自由とはお金の事かい? 道元禅師は、他にも己という字をつけ、他己<たこ>と現した。 自分と他人ではなく、自己と他己。 自分と他人の二つではなく、己ひとつ。 ふたつの対立の世界ではなく、へだてのないひとつの世界。 己ひとつの世界だよ、と。 自分の物は俺の物、他人の物も俺の物とするのは、蛸野郎の論理。 他己、それは、他もまた己にほかならぬ事。 自己とは、自分に現れた己であり、他己とは、他に現れた己の事。 つまり、すべてが己。 己ひとつが解れば、老婆が己の姿と重なるだろう。 己ひとつが解れば、世間を騙す事は、己自身を騙す事に気付くだろう。 己ひとつが解れば、この命もその金も、預かり物だと知るだろう。 己ひとつの世界だからこそ・・・愛おしいのだ。
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