大童法慧 | 法話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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法話




2月 27日 二つの坊主頭

坐禅会に参加されているご夫妻のお話をいたします。 お二人共に若く、二十代半ば。 ご主人は公務員であり、奥様は税理士です。 昨年の秋頃の事。 「頭が痛い」と、度々、奥様がご主人に訴えたそうです。 当座は市販の鎮痛剤を服用していたそうですが、いっこうによくならない。 それでは、ということで、ご夫婦で病院に出かけたそうであります。 そして、診察の結果、脳に腫瘍がみつかりました。 医師の話によれば・・・脳の内部ではないので、腫瘍を摘出をすれば、大丈夫だとの事。 普段から、食事や健康に気を使い、身を節して暮らす若い夫婦にとって、予期せぬ出来事でありました。また、手術するにあたり、髪の毛を落とし坊主頭にならなければならない事は、奥様にとって大きな衝撃であったようです。 聡明な奥様の事だから、命よりも髪の毛が大事だと言う事はないにしても、手術の同意書に判を押すのをためらったそうです。 しかし、数日後、奥様のご様子が一変しました。 ふさぎ込んでいた奥様が、大きな声をたてて笑ったとの事。 なんと、それは・・・ ご主人が、坊主頭になってお見舞いに来たのでした。 多くの言葉をもってしても届かない思いを、なんとかして伝えたい、と願っての坊主頭。 この日以来、奥様は落ち着きを取り戻しました。 そして、手術も成功いたしました。 二月初旬、坐禅会に、ペアルックの帽子でご夫妻がお見えになられました。 聖僧様の前で坐る二つの坊主頭に、私は手を合わせ拝みました。
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2月 14日 正念相続

3年前の夏、托鉢をしながら、四国88ヶ所のお寺を歩きました。 お遍路さんといえば白装束ですが、私は墨染めの衣に手甲脚絆に網代笠。 頭陀袋と御朱印軸を肩から下げて、錫杖と鉄鉢を持っての旅でした。 おかげさまで、多くの方とご縁を頂き、2ヶ月あまりで、願いを遂げる事ができました。また、高野山の奥の院にまで、行くことが叶いました。 先月の事、夜更けに、私の携帯電話がなりました。 四国でお世話になった御老僧がお亡くなりになられた事を告げる知らせでありました。 足摺岬をぐるっと廻ったあたりで、疲労困憊と発熱でへたり、道端に座りこんでおりました。そこに、「泊まっていかんかね」と、優しくお声をかけてくださったのが、御老僧でした。 その事を思い起こすと、今も、涙が溢れてまいります。 お言葉に甘え、数日間、お泊めいただき、多くの事を教わりました。 体調を整え、出発の朝、お茶を飲みながら、こんな話をしてくださいました。 「同じ格好をしたお遍路さんであっても・・・ これを契機に、信仰を深める人もいれば、逆に、見て歩くだけの判子鳥<はんこどり>になる人もいる。 残念な事だけど、途中で、自分の目的を見失って、判子をいくつ集めただの、何回、四国を回っただのと競争して、自慢をしよる。 あれじゃあ、スタンプラリーやね。 あんたが最初に描いた願いを持ち続ける工夫、一念を相続する工夫を忘れちゃあいけんよ。」 しわがれ声で、朴訥と話す御老僧のお言葉が身に染み、心が震える思いをしたのを覚えております。 参拝したお寺の御朱印だけがその証であり、目に見える結果であるため、ともすれば、「あと、いくつ」と数えてしまう自分を深く反省いたしました。 一念を相続する工夫を正念相続とも言います。 正しい願いを持っていても、それを持ち続ける強い覚悟と深い工夫がなければ、試練に押しつぶされたり、辛酸をなめて見失ったりする事になるでしょう。 しかし、挫折や失敗を味わう事になったとしても、それでもなお、そこから、正念相続していく事こそが、私たちの人生をより深く、より豊かに、そして、より高めていく事になると思います。 「工夫を忘れたらいけんよ」・・・御老僧の言葉が響きます。
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1月 31日 君に

君も見えていただろう、君の家族の姿を。 あの日から、一睡も出来ずに、ひたすら考え悩み続ける家族の姿を。 「何故、君がこんな事になったのだろう?」 「どうして、君がこんな事をしたのだろう?」 気丈に振舞っていたお父さん。 目を真っ赤に泣きはらしたお姉さん。 必死に歯を食いしばっていたお兄さん。 そして・・・棺の蓋を閉める事を拒むお母さん。 君の位牌を持つお父さん。 君の写真を抱くお母さん。 君への花束を抱えるお姉さん。 火葬の炉の蓋がゆっくりと閉まった時・・・ 耐えていたお父さんは 君の名前を大きく叫び、その場に倒れこんだ。 お姉さんは、絶叫と嗚咽を繰り返しながら、肩を落とした。 お兄さんは、声を詰まらせ、落ちてくる涙を拭こうともしなかった。 お母さんは、その閉まる蓋の中に・・・飛び込もうとした。 家族のそんな姿を、君は想像できていただろうか? 深く深く家族から愛されていることに気付いていなかったか? しばらくの間、君の大切な家族から笑顔が消える事になるだろう。 そして、君の大事な家族に、答えのない大きな苦悩が襲う事だろう。 君には自死を選ばねばならなかった理由が、あるのだろう。 いや、そうするより、他に、手立てがなかったのかもしれない。 しかし・・・そうだとしても・・・、君は、まだ、二十歳だ。 「先立つ不幸をお許しください」という台詞は、 愛する者のために、守る者のために、命を賭す者の言葉だ。 決して、自分のためだけに、命を断つ者の言葉ではない。 咽びながら君のお骨を抱えるお父さん。 泣きながら君の位牌を抱くお母さん。 力を込めて君の写真を持つお兄さん。 涙をとめる事のできないお姉さん。 君は、本当に、愛されていたんだよ。 君は、今でも、愛されているんだよ。 だから、今度は・・・君が家族を愛する番だ。 大きな荷物は、ここに置いて、さぁ、もう一度。 さぁ、もう一度、父の子となり、母の子となり、姉の弟となり、兄の弟となり・・・君が君となり・・・そして・・・ 大丈夫、安心しなよ。 みんな、多かれ少なかれ、抱えているんだ。 大丈夫、君の家族なら、大丈夫だよ。
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1月 26日 茶禅一味

「失礼ですが、禅宗のお坊さんですか?」 先日、名古屋へ向かう新幹線の中、隣あわせた典雅なご婦人から声をかけられました。 「私は、お茶を教えておりますが、茶禅一味の意味がわかりません。 本を読んだり、多くの先生にもお尋ねしたりもしました。 そして、いくつかの坐禅会にも参加してみたり、そこで出会った和尚様にも伺ったりもしましたが・・・未だ、得心がいきません。 長い間、茶禅一味の事が気になっていて・・・よろしければ、教えていただけませんでしょうか?」 そのご婦人のお顔や話しぶり、振る舞いやお姿から、ああ、この人なら大丈夫だと、感じながら、お話いたしました。 「先生は、お茶で一番大切だと思う事は何ですか?」 「もてなしの心ではないか、と思います。主人が客をもてなす心が、作法につながっていったのではないか、と。」 「でも、お茶は主人ばかりの作法ではないでしょう。客にも作法がありますよね。では、主人にも客にも大切な事は何でしょうか?」 「う~ん、やはり、作法でしょうか・・・」 「では、坐禅を体験されて、何か思う事はありましたか?」 「いえ、ただ、体が痛いばかりで・・・それと、あの棒が怖くて・・・」 「坐禅を指導された方は、何が一番大切だと言われましたか?」 「・・・」 大学四年間、私は、佛縁をつけてくださった慈恩師の尼僧様に勧められて、遠州流のお茶を学びました。 その先生が、「お茶は、●●ですよ」と教えてくださいました。 ●●が乱れれば、お点前も粗雑なものになってしまいますよね。 坐禅も、全く同じです。坐禅は、●●です。 坐禅は、身を整え、呼吸を整え、心を整えるものです。 今、書道を学んでおりますが、その先生も、「書は●●だ」とおっしゃいます。 剣禅一如という言葉もありますが、剣道も●●ですね。 「では、私たちが、今、こうして話しているのはなぜですか?」 「生きているからです。」 「その通り、だからこそ、●●が大切なのです。 禅も●●、茶も●●。 そして、その●●を深めていく事によって、現れてくる世界がある。 出来合いの思想や因習や常識に誤魔化されない自由な眼が、備わってくる。 このことが、茶禅一味と、私は思っております。いかがでしょうか?」 ・・・素直に受け止めていただけたようで、喜んでいただけました。 ちなみに、●●は、漢字ニ文字が入ります。 わかってもコメント欄には、書かないでくださいね。
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12月 31日 識羞

大学生の頃、私は、生花の卸市場でアルバイトをしていました。 日・水・金曜日と週に3日、22時から翌朝の6時まで働いていました。 トラックの荷降ろしの手伝い、せりのための種類や等級別に仕分ける事が仕事でした。3000から5000のダンボールを、汗だくになりながら、2人のバイト仲間でさばいてました。 当時は、バブルの最盛期でした。 皆さんの中に、一本、壱万円のバラを覚えている方はあるでしょうか? クリスマスの時期に、話題性もあり、洒落っ気もあり、また、マスコミにも取り上げられ、多くの人が求めたそうです。 そのバラの原価は10円以下でした。 それも、才覚といえば才覚になるのでしょうけれども・・・ 毎朝、自転車に乗り、出勤する50すぎのおっさん。 必ず、自販機の小銭口に指を突っ込み、とり忘れを狙う。 そこに、どれだけの夢があるのだろうか? 電車の中で爪を切っている、OLもどき。今じゃ、化粧は当たり前。 高校の制服を着たままのガキが、車内で抱き合い、愛を語らう姿。 が、混んだ車内に妊婦が乗った時、赤い髪をしたギターケースを持った男が席を譲った。 この彼の歌ならば、聴けるだろう。 保険を払えず、病院に行けぬ人。 寒空の下、自転車にリヤカーをつけて、空き缶を奪い合う方々。 格差社会、金はあるところに集まるみたい。 携帯の支払いに5万を払う生活を送りながら、わが子の給食費を払わぬ親。 コンビニの前に座りこんで、買った弁当を食べる小学生。 運動会では、校門の前でピザの宅配を待つ。 権利と主張の声ばかり・・・負けてはならぬ、負けてはならぬ・・・ 先日、お通夜の後、小学生の子がかけよってきた。 「おばあちゃんの事、お願いします。お世話になります」と礼をされた。 私は、・・・黙って、彼を拝んだ。 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治の頃、佛教の復興に尽力された大恩人のひとりに、山岡鉄舟大居士がいます。鉄舟居士の逸話のひとつ。 ある日、知人がやってきて、鉄舟に言いました。 「鉄舟さん、そんなに神仏を信じたって、しようがないじゃないですか。私は、毎朝、神社の鳥居で立ち小便をしてきますが、全く、罰などあたりませんよ」 鉄舟は、静かにこう答えたそうです。 「すでに罰は当たっているよ。立ち小便と言うのは、犬や猫がする事。 武士が鳥居に立ち小便をするとは、既に、あんたは犬や猫になりさがっている。それが、何よりの罰だ。」 賽銭箱に小銭を投げ入れて、大きな幸せを願う元旦がやってくる。 家内安全、家庭円満、交通安全、無病息災、安産祈願、合格祈願、良縁祈願、大願成就・・・本当の幸せはどこにあるのか? 仏神は貴し、仏神をたのまず 武蔵 独行道
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12月 16日 帰らぬ人

亡くなったと知らせを受けても、まだ、信じられませんでした。 駆けつけ、横たわる姿をみても、まだ、信じられませんでした。 遠くの親族や多くの友人が来ても、まだ、信じられませんでした。 涙はでるけれど、死んだとは思えなくて・・・ 悲しくて切ないけれど、また、起きてきそうで・・・ ゆっくりと目を開けて、私の名前を呼んでくれそうで・・・ もっと、そばにいて、もっと、話をしとけばよかったと、思いました。 お通夜が終わり、葬儀を終えました。 お棺に、いっぱいのお花と好きだったお酒と煙草、そして、愛用していた杖と帽子、お気に入りの写真と本、そして、私の子供の書いた手紙をいれました。 それでも、なんだか、父が死んだとは思えませんでした。 火葬場で、炉に入り、蓋がゆっくりと閉まった時、なぜだか、「帰らぬ人」という言葉が浮かびました。 その時、はじめて、身が震えるほど泣いてしまいました。 ああ、父が死んだんたと、私のお父さんが死んだんだと・・・ 本当に、馬鹿な娘でした。 本当に、わがままな娘でした。・・・ごめんなさい。 お骨になった父の姿を見た時、はじめて、寂しさを感じました。 どんなに泣いても、どんなにお金を積んでも、誰に頼んでも、何をしても・・・ 父は帰ってきません。 お骨を骨壷に収めた後、お話をしてくれましたね。 移り変わっていく事、無常の意味、そして、いま・ここ、と。 すごく、心に響きました。すこし、楽になりました。 また、電話させていただいてもよろしいですか? また、はなしを聞いてください。
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12月 10日 省察

若し、智慧あれば則ち貪著<とんぢゃく>なし。 常に、自ら省察して失すること有らしめざれ。 『遺教経』 【意訳】 もし、智慧があれば、おのずから貪り執著することがない。 だからこそ、常に自らを省察して、智慧を失わないようにしなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 苦しみの日々 哀しみの日々       茨木のり子 苦しみの日々 哀しみの日々 それはひとを少しは深くするだろう わずか五ミリぐらいではあろうけれど さなかには心臓も凍結 息をするのさえ難しいほどだが なんとか通り抜けたとき 初めて気付く あれはみずからを養うに足る時間であったと 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば やがては解るようになるだろう 人の痛みも 石榴のような傷口も わかったとてどうなるものでもないけれど (わからないよりはいいだろう) 苦しみに負けて 哀しみにひしがれて とげとげのサボテンと化してしまうのは ごめんである 受けとめるしかない 折々の小さな刺や 病でさえも はしゃぎや 浮かれのなかには 自己省察の要素は皆無なのだから 詩集 『依りかからず』より ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「俺は、もう、ダメだ」や「私は、これで、おしまいよ」は、省察ではないと、思うのです。 ダメやおしまいから、苦しくてももう一度、辛くても今一度、起き上がる事こそが、本当の省察ではないかと、信じております。
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12月 04日

年の瀬が近づき、来春の中学受験がとても不安だとの事。 どこで知ったのか、こんなヤクザなお兄さんの綴るブログを読んだり、まして、臆する事なくメールを送ったりできる君なら、大丈夫だよ。 お医者さんになりたいという夢。とても素敵だね。 その願いを大事に大事に温めながら、いま・ここを大切にね。 そういえば、思い出したよ。 お兄さんも小学校の時、受験したんだ。広島のクリスチャン系の学校をね。 結果?・・・もちろん、落ちたよ。 受かっていれば、今頃、お坊さんにはなっていなかったかなあ。 お兄さんが、お坊さんを志したのは、二十歳を過ぎてからなんだ。 それまで、宗教なんて大嫌いでさ。神さんも仏さんもいないと信じてた。 周りの人々を傷つけながら、自分の力だけを信じてた。勝手だよね。 でもね、結局、縁があったのかなあ。 何が幸いして、何が災いとなるかは、その時だけの視点では計り知れないものだけれど、ガキの頃の学校の質って大切な事のひとつだと思うよ。 大丈夫だよ。 お兄さんはわかってるよ、君はずいぶん努力してきたもんね。 お父さんやお母さんの思いを背負っている事も自覚している立派な子だ。 大丈夫だ。 試験にあがったり、緊張したりしないように、おまじないをかけてあげる。 ご縁があったのだから、お兄さんが、念じてあげる。 だからさ、今は、こんなブログなんか読まずに・・・さあ、勉強しよう。 合格の吉報を待ってるよ。 世界には、お前の他に歩き得ない唯一の道がある。 それは、どこに、通じているのか? 尋ねるな。その道を歩け。 ニーチェ 『反時代的考察』
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