大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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僧侶的 いま・ここ




2月 17日 地蔵真言

お地蔵様とのご縁のおかげで、私は出家する事ができました。 以来、『地蔵菩薩本願経』を毎月24日に読誦するようになり、 ご縁のある人には地蔵真言を勧めております。 地蔵真言 唵訶訶迦昆三摩曳娑婆訶 おんかーかーかび さんまーえいそわか ※【連絡】 18日から22日まで、所要のため電話に出られません。 お急ぎの方は、メールにてお知らせください。 すぐにお返事できない場合もありますので、ご了承ください。
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2月 12日 チェンダの供養

沙門は・・・ 病を得たとしても、薬の力を借りず、医者の力も借りず、ただ正念をもって耐える。 2月15日は、涅槃会。お釈迦様のご命日。 彼は、布教のために歩き続けていた。 すでに80歳となっていた。 バーヴァーという村で、鍛冶職人チェンダの接待を受けた。 「チェンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧に上げてください。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を見出しません」 岩波文庫『ブッダ最後の旅』 結果、彼は腹痛と激しい下痢に襲われる事になる。 下血を繰り返し、衰弱しながらも、おそらく彼は、生まれ故郷を目指し歩き続け、 しかし・・・クシナガラの沙羅双樹のもとで、力尽きた。 以前、兄弟子が半身不随になりました。 熱と咳で、「風邪かな?」と思い、布団で寝ていたそうです。 しかし、トイレに立とうとした瞬間、立てない、動けない自分に気がついたそうです。 救急車で運ばれ、精密検査の結果、脳にわずか数ミリほどの影がありました。 原因はわかっても回復の手立てはなく、ただただ安静にという事でした。 35歳で在家から出家し、すでに50歳を前にしての出来事でした。 お寺を持つ道を選ばず、修行道場に身を置く彼は、何を想ったでしょう。 来し方、行く末を考えて、夜、泣き声を噛み殺した日もあるでしょう。 ある日、若かった私の不躾な問いかけに、彼は穏やかに応えてくれました。 「法慧さんも、苦しい時に念じてみるといい。チェンダ供養、チェンダ供養ってね。 毒きのこであると知りながら供養を受け、苦しさにのたうちまわる釈尊の姿を思い浮かべると・・・私の苦しみなど問題ではないよ。」 そして、半年後・・・お医者さんに「奇跡だ」と言わしめる事が起きました。 彼は自分の力で起き上がり、数歩、歩いたのです。 懸命なリハビリと厳しい自律の結果、彼はおよそ1年で退院しました。 今、彼は還俗をし、信じる所の道を歩んいます。 けれども、深いご縁のある大切な兄弟子であります。 チェンダ供養 チェンダ供養
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2月 06日 遺偈

遺偈とは、禅僧が末期に臨んで門弟や後世のためにのこす偈の事です。 毎年正月、己が境涯をもって、書き改めるものだと、師より習いました。 本年1月5日、曹洞宗大本山永平寺貫主・宮崎奕保禅師が106歳でご遷化されました。 遺偈に曰く、 慕古真心 不離叢林 ( 古の真心を慕い 叢林を離れず ) 末後端的 坐断而今 ( 末後の端的   而今を坐断す ) 下記は、宮崎奕保禅師の密葬を報じた中日新聞の記事の抜粋です。 密葬の様子とともに、このように禅師の遺偈と解説が掲載してありました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「慕古真心 不離叢林 末後端的 坐断而今」としたためられ、同寺によると「修行道場に生きてきて、先人の気持ちを思い、道場から離れたくないが、座ることが今、終わろうとしている」との心境が表されているという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・この解説を読んで、「何じゃ、これっ?」と思ったのは、私だけでないでしょう。 これじゃあ、まるで、ただの泣き言ではないか。 この遺偈を、こんなふうに受けとめるとは・・・ 「同寺によると」とは、大本山永平寺の事でしょう。 しかし本当に、大本山永平寺が、こんな解説をしたのでしょうか。 私は、こう思います。 祖師の心を慕い忘れず、どこにあっても、叢林を離れず。 この最期の時に当って、今一度、改めて一句を示そう。 この真実なるもの、而今を坐断す。 『五燈会元続略』には、「両頭共坐断 八面起清風」<両頭を共に坐断すれば、八面に清風起こす>という禅語があります。 両頭とは、生と死、善と悪、得と失、愛と憎、勝と負、苦と楽といった、二元での物の見方の事です。 私たちは、そんな両頭にこだわり、とらわれ、両頭の狭間で一喜一憂し、右往左往して暮らしているのではないでしょうか? 坐断とは、坐禅によって、両頭から生ずる迷い・苦しみを断ち切り、真実なるいのちに気付く事です。 二元の物の見方を坐断した世界が、而今の世界です。 しかし、禅師様は、その真実なる世界をも坐断す、とおっしゃられた。 その世界も腰をおろせば、偽者だぞ、と。 而今を坐断せよ 禅師様は、そう説き示されたのだ。
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1月 31日 アンテナ

先日、川崎いのちの電話の特別公開講座で、脚本家の山田太一氏が講演がありました。 最後に、氏はこのように結びました。 「人間は、集団の中にいるだけで、たくさんのことを学んでいるんじゃないかな。 言葉なんて交わさなくても、他人と一緒いるだけで、何か栄養みたいなものを、人間はいろいろ吸収しているのではないか、と思うのです。 電車でヘッドホーンをしている人がいるでしょう。 あれはもしかしたら、ものすごくもったいない事なのかもしれません。 渋谷の有名な、あれはなんでしたっけ。スクランブル交差点? あの交差点を5回も歩いたら、あんがいそうとう学ぶ事があるのかもしれない。 もし人間というのが、ただ他人と空間をともにするだけで学ぶものがあるならば。 外に出て、人ごみの真っ只中を歩くのも面白いかもしれません」 聞いていて、ふと、この歌を思い出しました。 遍く照らす月の光は、心のアンテナを澄まさないと届かない。 月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ       法然上人
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1月 24日 着信アリ

親交のある葬儀社さんに誘われた、酒席での事。 「いやぁ、この前の葬式には、まいっちゃったよ」と、切り出してきた専務さん。 「何か、あったんですか?」と聞き返すと・・・ 「実はさ、お通夜の最中にお坊さんの袖の中から携帯が鳴ってさ。 その着信音が、黒電話の音ね。また音量が大きくて、会場に響いちゃって。 しかも間の悪い事に、木魚を叩くお経の時なんだよね。 だから、木魚を止めて電話を切るって事もできなくてね。 まぁ、そのお坊さんはお経を優先したって事になるんだろうけど・・・ うちの社員があわてて駆けつけたけど、うまく携帯を取りだせないんだよね。 結局、30秒ぐらい鳴って・・・で、その5分後にもう一回、鳴っちゃって。 で、葬家は怒っちゃってね。 なんで、あんな坊さんを紹介したんだって、さ。 法慧さんなら、こんな時どうする? 人間だから、失敗はあるじゃない。もしも、万が一、そうなったらさ?」 問われた私は答えました。 「実は・・・告白すると、僕も一度あるんですよ。 お通夜ではなく、施主さんのお宅での法事のときでしたけど。 仏壇を前に座り、いざ、はじめようとした瞬間でしたね。 頭陀袋の中から、着信音が鳴り響いて。 ちなみに、その時の着信音は『男はつらいよ』 非礼を詫びて、仕切りなおして法事を終えました。 終わっての法話に、僧侶もつらいよって話しを交えながらしたら喜ばれました。 でもホント、はじまる前で良かったと思いましたね。 そのおかげで、必ず、マナーモードにする習慣が身につきました。 まあ、とにかく謝罪するしかないでしょうね。本当に失礼いたしましたって」 「えっ、何あったの、そういうことが」 「はい、お恥ずかしいお話しですが・・・」 「でも詫びたらさ、許してくれたでしょ。 そういう事だと思うんだよな、失敗したら詫びるのが基本だよね。 その坊さんもね、通夜のお経が終わった時にでも、失礼いたしましたと頭をさげれば、それで済んだと思うのよ。 それをしなかったんだよ、あの坊主は。 できないのかな?いい年してさ。 っていうか、あんたは、いちお、お坊さんなんだろって言いたくもなるさ。 結局、葬家の怒りは収まらなくてね。 葬儀の時は、違うお坊さんを手配してくれ、と。 リリーフだね、火消し役。でも、ふつうは有り得ないよ。 ・・・まぁ、今回改めて、派遣は危険だって痛感したね」 お芝居や講演会、そして映画館。 始まる前に携帯電話の確認がうながされる。 通夜や葬儀の時も、携帯電話は電源を切るかマナーモードにしてください、と司会者がお願いをしている。 そして、本人はしたつもりでも・・・結構、鳴る。 年間に何件かの葬儀や法事があるが、改めて、思い直したい。 その葬儀や法事は、「一度きり」のものだ、と。 その葬儀は、葬家にとっては、大切な人との最後のお別れの場である。 その法事は、施主家にとっては、再び時や想いを共有できる場である。 失敗、失態、失言・・・恥ずかしい事の多い人生のなかで、学ぶ姿勢のみが救いとなる。
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1月 15日 日々是好日

ある時、雲門大師が、お弟子たちに向かって言いました。 「これまでのことは尋ねまい。 しかし、これからの生活の中で、何が一番大切な事なのか、一句をもって来い」 お弟子たちの顔を見渡しましたが、誰一人として、応える者はありませんでした。・・・そこで、雲門大師、たった一言、言い放ちました。 「日々是好日」 日々是好日という言葉は、聞きなれた禅語のひとつでしょう。 毎日毎日が好き日であるとか、人生は心がけひとつでなんとかなるとか、毎日を感謝して生きましょうとか、等に理解されているようです。 この好日の「好」とは、好きや嫌い、好いや悪いを超越した「好」だから・・・ 「ものの優劣に囚われたりしません」「是か非かを問いません」「損得勘定で動きません」「分別をしません」と、覚悟しなければならないと教える先生もいます。 また、好を「よし」と読ませて・・・ 「試験は落ちたけれど、よし、不合格なにするものぞ!」 「彼女と別れたけれど、よし、もっといい女と巡り合うぞ!」と、上手い事を言う人もおります。 では、あなたは・・・ 今日、検診で癌を告知されても、好き日であると、受け止められますか? 今日、金策尽きて、不渡りをだしても、人生は心がけひとつと、前を向けますか? 今日、最愛の我が子が、事故に巻き込まれたとしても、感謝していただけますか? ・・・それでも、日々是好日。 泣いても、嘆いても、呻いても、もがいても、苦しんでも、日々是好日。 この世は、無常であります。私たちの命も、また、無常であります。 私たちは、この遷り変る命を生きている。 だからこそ・・・日々是好日。突き詰めれば、好日とは、いま・ここの事。 毎日は新しい。 そう、毎日は新しいのだ。 いや、時々刻々と、私たちは新しいいのちを生きている。
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1月 01日 前へ

前へ前へ つまずいても 前へ前へ 転んでも 前へ前へ 倒れても 前へ前へ 腰骨を立て あごを引き 目を閉じる事なく 前へ前へ 嗤われても 罵倒されても 前へ前へ ・・・それでも 前へ前へ 焦点を地平線にあてて 前へ前へ 本年もよろしくお願い致します   法慧
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12月 24日 初詣

今年の正月、やっとの思いで、主人と初詣にでかけました。 この3年間、お正月が来ても、とてもそんな気持なかったんです。 主人も同じだったと思います。 でも思い切って、誘ってみました。暖かく、穏やかな日でした。 娘が生きていた6年間、毎年、一緒にでかけた神社です。 はっきりと思いだすんですよね、娘の事を。 ああ、ここでお御籤を買ったなとか・・・ここで、お昼を食べたなとか・・・ここで、写真を撮ったなとかって・・・ 毎年、家族で一枚の絵馬を求め、願い事を書いてました。 みんな元気で暮らせますようにとか、パパが煙草をやめられますよにとか、マンションを買う夢もあったし・・・ 「絵馬を書かない?」と、主人に言いました。 彼は、黙って頷いて・・・先に書きはじめました。 渡された絵馬には「貴代美が幸せになりますように パパ」と、書いてありました。 貴代美とは・・・娘の名前です。 それを見た時、涙があふれました。でも、その時です。 「やり直せる」って、この人と一緒なら、「きっと、やり直せる」って、身震いをしてしまうほど強く感じました。 亡き吾子の 幸せ願う 初詣 ・・・間もなく、新しい年がやってくる、さぁ。
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12月 16日 省みる

今月はじめ、東京都私学財団主催による、渡辺徹氏の講演会がありました。 演題は、「生きた目線」 役者になる経緯や文学座での体験談。 ドラマ太陽にほえろの新人刑事として大抜擢された事や、石原裕次郎氏との出会いの事。 新人刑事役として、撮影現場では走ってばかり。 与えられた台詞は、わずかだった。 満を持して言う台詞に、OKがでない。何度も、取り直しを命じられた。 文学座で学習したものを、改めて読み直したり、その役になりきろうとして努めたりしたけれども・・・全く、だめだった。 落ち込む日々の中、公園のベンチに座っていた時の事。 砂場で数人の幼児が遊んでいた。 親たちは、そんな子供に目もくれず、おしゃべりに夢中。 どうやら、子供たちはお城をつくろうとしていたらしいが、うまくいかない。 何度も繰り返すが、失敗ばかり。 その姿を見続けているうち手伝ってあげようという気になり、ベンチを立ち上がって・・・ その時、「ああ、これだ」と、気付く経験をした。 この子達の行為は、充分に、俺を説得したではないか。 演じるとか、なりきるとか、そんな頭であれこれと作り上げたものは、必要ないんだ。 純真な思いがあれば伝わるし、それだけで、見るものを感動する事ができる。 次の撮影。 彼の台詞は、一発でOKだった。 話を聞きながら、ふと、わが身を省みて、思った事。 布教の勉強をしているけれど、それは、あれこれと頭で考えて・・・ 間がどうだ、構成がどうだ、時間配分がどうだ、発声がどうだ、等の指摘もあるが・・・ 問われている本質は、伝えたい法や思いがあるか否か、だ。 法話は、ちょっいい話でも、面白小話でも、独自の見解でもない。 布教を志すお坊さんを「ベロ師」「舌屋」「口坐禅」と、揶揄するお坊さんもいる。 無舌居士・三遊亭円朝師匠は、山岡鉄舟大居士に「舌で話すな」と、諭され禅を学んだ。 時に、虚空にむかって、話りかけているような届かない空しさを感じる事もある。 語りかけなくとも、伝わるものがなければ・・・ 語りかけなくとも、伝わるものを持たなければ・・・ ・・・そう、語りかけても、何も伝わらないのだ。
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