大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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僧侶的 いま・ここ




12月 06日 さようなら

「先生さようなら、みなさんさようなら」 病気と転校、そして、事故がないかぎり、また教室で会えた。 また明日  バイバイ  それじゃ、またね  さようなら 「さようなら」は、「左様ならば・・・」が語源らしい。 振り返れば、ずいぶんと、「さようなら」をしてきたものだ。 あんなに仲のよかった友とは、何年も会っていない。 お互いに、田舎を離れりゃ、仕方がない。 所帯を構えて、ガキが二人いりゃあ、東京にもこれんわな。 結婚しようと誓った女は、今では、消息すらわからない。 思い出そうにも、顔がぼやけてかすんでしまう。 切に願わくは、非道い男に会っていない事を。 自分が嫌で、厭でたまらなかった。 だから、頭を剃るのに、迷いはなかった。 しかし、本当は、さよならすべきは自分自身だった。 また明日  バイバイ  それじゃ、またね  さようなら コノサカヅキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ この井伏鱒二の名訳を知ったのは、川島雄三の墓碑銘のおかげだった。 また明日  バイバイ  それじゃ、またね  さようなら 学生の頃、遠州流を習っていた。 先日、先生の訃報を聞いた。 「一期一会は、なにも、お茶だけの事じゃないのよね。 綺麗にさようならをするのが、一期一会。ねぇ、あなたはどう思う?」 先生、あれから、およそ20年が経ちましたね。 禅の世界に生きて、私はこんな事を知りました。 別れても別れない、さようならがある事を。 離れても離れられない、温かな世界である事を。 謹んでご冥福をお祈りいたします  法慧合掌
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11月 29日

俺は総桐がいいな、いや、やっぱり、天然木曽ヒノキか。 彫刻は三面にしようかな、うーん、どうせなら、五面にするか。 私は布張りがいいわ。お洒落だし、いろんな柄もあるみたいだし。 そうだ、ヴィトンとか、エルメスのものってないのかしら。 僕は、ecoを考えてさ、段ボール製か竹製のものにするよ。 地球に優しいって、いいよね。財布にも優しければ、なお、いいけど。 棺は、最後のベッド、最後の乗り物だから出来る限り贅を尽くしたものでと思う人もいます。 どうせ、燃やしてしまうものだから高いのはいらない、と言う人もいます。 ある方丈さんは、お通夜のときに、棺の蓋に一句を勢いよく書きつけるそうです。 ある葬儀社は、サービスとして、棺の蓋に仏名や故人名を大きく書くそうです。 こんなお話があります。 ご縁をいただいた老人ホームの、伝説のひとつです。 そのホームに、あるお金持ちのおばあちゃんがいました。 ある時、葬儀社に自分の葬儀の見積もりを依頼しました。 その中で、おばあちゃんが一番驚いたことは・・・棺の値段でした。 「なんで、焼いて無くなる物に、10万円も払わなければならないの?」 葬儀社の社員が、言いました。 「棺は必需品ですからね。でも、自分で作ればお金はかかりませんよ。 たとえばですね、飲んだあとの牛乳のパックなんかで作ったら・・・」 以来、おばあちゃんは、牛乳パックで棺を作るんだという強い願いを持ちました。 そして、一生懸命に牛乳を飲みました。 結果、より健康になり、100歳まで生きたとさ・・・ 裸で生まれてきた私たちです。 何を持って逝くのでしょうか、何を残して逝くのでしょうか。
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11月 13日 映画 『おくりびと』

ラストは、本木雅弘さんが、父親役の峰岸徹さんを納棺する場面でした。 母と自分を捨てて出奔した父親の訃報を頑なに拒む本木さんに、妻や社長や社員が彼の心情に訴えました。「それで、本当に後悔をしないのか」、と。 彼は妻とともに駆けつけ、父親の亡骸と対面します。 そして、棺を運んできた葬儀社の社員が、父親の荷物を足で動かしたのを見て・・・ 大切な人との永訣にあたって、その人のために何かをせずにはおられない心情こそが、私は葬送の出発点ではないかと思います。 さまざまな人生があるように、別れの場をひとくくりにはできません。 それぞれの家庭には、独自の事情があります。 信じられないかもしれませんが・・・ 故人の死を悼むよりも、むしろ、喜びとする遺族がいます。 葬送というよりも、むしろ、遺体処理と呼ぶにふさわしい葬儀があります。 また、比べるわけではありませんが・・・ 子供の葬儀に立ち会う時は、やはり、とても切ないものです。 自死の葬儀を執り行う時は、やはり、自ずと注意深くなるものです。 遺言やエンディングノートを残したり、葬儀社に生前予約したりしたとしても・・・ 自分で自分の葬儀をする事はできません。 思い描いた「自分らしい葬儀」を、自分が見届ける事はできない。 自分の葬儀の「おくりびと」は遺族であり、そして、その死に携わる者です。 土地柄や宗派によっても、葬儀にはさまざまな形態がありますが・・・ 故人宛の手紙を書く事をすすめる葬儀社もあります。 お供えの涅槃団子を作るセットを遺族に渡す葬儀社もあります。 ラストサパー、故人との最後の食事の時間を大切にする葬儀社もあります。 私もおくりびとの一人として、 最近、遺族に『悲しみを杖として』と題した拙文をお渡ししております。 昨今は、時間をかけない別れが流行しつつあるようですが・・・ 普段から、大切な人のために何かをせずにはおられない心情を養いたいものです。 また、そんな大切な人と多く巡り会う人生でありたいものです。
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11月 07日 衣の色

笑い話ではないのですが・・・ 友人のお寺に呼ばれて、法話をした布教師さん。 お檀家さんが100人程度集まって、1時間半ほど彼のお話を聞いたそうです。 話し終えて、控室に戻った布教師さん。 そこに、お寺の総代さんが挨拶にきました。 「今日は、ありがとうございました。 いやぁ~今日の法話は素晴らしかった。わかりやすかったです。とてもいいお話でした」 誉められて、悪い気がしない布教師さん。 喜色満面で、思わず問うてしまいました。 「そうでしたか。どこが、よかったですか?」 しばしの沈黙の後、総代さんがポツリと一言。 「・・・お衣の色が・・・」 先月末、高円寺に行きました。 笑福亭鶴瓶さんの唄つるべ~トーク&ライブを観ました。 ゲストは、シンガーソングライターの石野田奈津代さん。 唄つるべとは、鶴瓶さんがトークして、ゲストはその頃合いをみて歌うというスタイルです。 トークに応じて歌があり、歌に応じてトークがあり、台本なしの一発勝負。 それぞれに思いをさらけだし、お客さんが笑いや涙で応える。 伝えたい想いと響く力が結集した場。 おそらく、あの場にいた方は、とても温かな素敵な時間を過ごしたでしょう。 恥ずかしながら、私も御縁をいただいてお話する機会があります。 不肖ながらも、お声をかけていただいた御縁を尊んで、どこにでも行ってます。 話している途中、急に、何も言葉が出てこなくなった事がありました。 また、お叱りの手紙をいただいた事もあります。 慙愧の涙を流した事もあります。 発声やスピード、間の取り方やアイコンタクト、話術と表現、そして、「上手に話したい」という気持ち。 それらは大切な事だけど、しかし、そこにはまず、「伝えたい想い」がなければ響かない。 その「伝えたい想い」を、もっと純化していかねばならないなと感じる11月です。 温かな時を作る事ができるだろうか? 何か一言でも、届く言葉を投げかけているだろうか? 「衣の色」になっていないだろうか?
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11月 01日 映画 『禅 ZEN』

来年1月に、映画『禅 ZEN』が、角川映画配給で公開されるとのこと。 原作は、駒澤大学大谷哲夫先生の「永平の風 道元の生涯」。 高橋伴明監督で、中村勘太郎さんが道元を演じる。 あなたは、大本山永平寺や大本山總持寺を知っていますか? あなたは、道元禅師や瑩山禅師と聞いて、誰だかわかりますか? ある異業種交流会でのこと。 名刺をお渡ししながら「曹洞宗の僧侶です」と挨拶をすると、「田舎の実家も曹洞宗です」と、応えてくれる人もいました。その一方で、「ごめんなさい、存じ上げません」との声も。 こんな場合の奥の手。 「福井の永平寺と鶴見の總持寺が本山です」と付け加えると、「ああ、テレビで見たことがある」と言ってくれるものですが・・・しかし、その会は、とても正直な方が多かった。 「いやぁ、見たことありません」 「あまり関係のない事ですから・・・」 結局、今の生活には関係ないか・・・ 親の法事と取引先の葬儀で焼香すれば、それでよし。 政教分離という便利な言葉が一人歩きし、「宗教は騙されるもの」と洗脳されて敬遠。 坐禅や精進料理に惹かれもするが、痛いのや面倒なのは御免。 中学校の歴史のテストでしんしん、にちにち、りんえい、そうどう・・・と、宗派と祖師の頭文字をあわせて覚えたことも、遠い昔の夜の事。忘れても、無理はない。 最近では、臨済宗と曹洞宗をあわせて、禅宗と表記してある教科書もある。 ある教団は、電車の中刷り広告を席巻し、民法のラジオの番組で提供を連呼する。 ある教団は、駅で待ち構え、「困った事はありませんか?」と優しく声をかけてくれる。 山門の中にいる人だけを相手にするのか? 「永平寺や總持寺で、○年修行しました」とえばったところで、山門の向こうには届かない。 さて、映画『禅 ZEN』 山門の外の人は、中に入ってきて来るだろうか? ちなみに、曹洞宗を、「そうどうしゅう」とは読みません。 正しくは何と読むか、おわかりですか?
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10月 25日 私たちの根っこ

禅とは、一体、どういうものでしょうか? 私は、禅とは、一言で申せば、根っこではないかと思います。 根っこが、自分にある事を信じ、根っこのありかに気づき、そして、その根っこと、しっかりつながった歩みをするのが禅だと思うのです。 あいだみつをさんの詩集『にんげんだもの』に、こんな言葉があります。 花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根は見えねんだな 私たちは、咲いた花の大きさや色や形のみを評価します。 しかし、目に見えないけれど、その花を根幹で支えている大切なもの、それが根っこです。 私が私である根拠。私を私としてなさしめているものは、何か? 根本の根本にあるもの。 そんな私たちの根っこ、それは、強く、大きく、そして、絶対のものでなければならないはずです。 なぜなら、せっかく、人として生まれてきて、人生を安っぽいものに騙されたり、侵されたりしてはもったいない。 何があっても動じないもの、そして、何物にも奪われないもの、決して、無くならないもの。 それこそが、私たちの根っこであるはずです。 では、その大切な根っこは、どこにあるのでしょうか? 曹洞宗の禅僧に、内山興正老師という方がおられます。 明治45年に生まれ、平成10年に遷化、つまり、亡くなられました。 坐禅一筋に生きられ、また、多くの御著書があります。 その内山老師が、こんな詩を遺されております。 貧しくても貧しからず 病んでも病まず 老いても老いず 死んでも死なず すべて二つに分かれる以前の実物 ここには 無限の奥がある いかがでしょう?二つに分かれる以前の実物。 この二つとは、生と死、良い悪い、勝った負けた、損した得した、好きだ嫌いだという相対の世界、つまり、比べる、比較する、対立の世界です。 普段、私たちは、自分の頭の中で作り出した、この対立の世界に悩み苦しんでいるのではないでしょうか? そして、私たちは、自分の頭で考えた対立の世界こそが全てであると、思っているのではないでしょうか? 二つに分かれる以前、つまり、一つ。 その一つの世界にこそ、私たちの根っこがある。 そして、その根っこには、無限の奥がある。 今日、これから坐禅をしていただきますが、まず、大切な事は、姿勢を正す事です。 後ろ頭で天を衝くような気持で、腰骨を立てる。 姿勢が整えば、呼吸が整い、おのずと、心も整ってくる。 坐禅をすると、煩悩や妄想が取り払われて、無になるとか、また、無にならなければと誤解している方がいるかもしれません。 しかし、実際に坐れば、かえって、いろいろな考えや思いが浮かんでくる事に驚くでしょう。 また、足腰のしびれや痛みになやまされるかもしれません。 私が坐禅を始めた頃、今と同じように太っていて、また、体がとてもかたかったものですから、片足のみを組む半跏趺坐さえも、ままになりませんでした。 一炷40分の間に、何度も足を組み換えて、その痛さに泣き出しそうになっておりました。 頭の中を駆け巡る様々な思いや、足腰の痛み。 時には、突然、畳の目ひとつひとつに、お観音様のお姿が浮かび上がるかもしれない。 時には、線香の焼け落ちる灰の音が、「ドスン」と、腹に響くような大きな音に聞こえるかもしれません。 しかし、ここで、最も大事な事は、その浮かんできた事を追いかけない。 何が起きても、相手にせず、邪魔にせず。 また、何も起きなくても、相手にせず、邪魔にせず。 そうすれば、坐禅をする中で、自分の頭で作り出した対立の世界が、決して、全てではないのだ、と必ず気づくはずです。 その気づきが、私たちの根っこへの扉となるでしょう。 坐禅をはじめるにあたって、道元禅師のご著書に、とても勇気づけられる言葉があります。 「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」 佛祖とは、お釈迦様、そして、その教えを命がけとなって信じ守り伝えてきた禅僧の事であります。 おうしゃくと読みましたが、おうせき、つまり、昔の事です。 当来は、来るべき未来のことです。 一本の道。 今、私は、お釈迦さまと同じ一本の道を歩んでいるのだ。 かつては、お釈迦さまもこの私と同じように、自分の根っこを見失った日送りをしていた。 それ故に、苦しみに引きずられたり、悲しみに迷わされたりもしていた。 ああもう駄目だと泣いた事も、どうすればよいかと悩んだこともあったでしょう。 しかし、お釈迦様は自分に根っこがある事を信じ、根っこに気づき、そして、根っことしっかりつながった歩みを進められた。 そう、私も、まず、根っこが自分にあると信じる事からはじめてみよう。 そこに自ずと、お釈迦様と同じものの見方ができてくる。 その歩みのなかで、安心、即ち、こころのやすらぎを得、そして、必ず、生きる勇気を持ち続ける事ができるのだ。 「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」 お釈迦様と同じ歩みをする、この根っこにしっかりつながった歩みをする。 道元禅師は、この道を信じて歩けと、私たちを励ましてくれております。 それでは、共に、悠々と堂々と坐りましょう。
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10月 13日 みかんの花

そのお寺は、瀬戸内海の小さな島にあるという。 「義父の17回忌を最後に、菩提寺から離れて、近くの霊園にお墓を移そうと考えていました。 そのお墓には、主人の父と母、祖父や祖母、代々のご先祖様が納めてあります。 でも、私も主人も東京で育ちましたし、その村には、もう父の親戚もいないんです。 息子ふたりも、東京と川崎で家庭をもっているし。 なにしろ、遠くて。 東京から広島まで新幹線、そこから尾道まで行って、船に乗って・・・ とても、日帰りは無理。 そのお寺の和尚さんは、とても気さくな優しいおじいちゃん。 「ここまでのお参りも大変ですね。お近くに移されてもいいですよ」って、言ってくれて。 正月に、主人や息子たちとも話し合ったんです。 そして、今回の法事を機にお墓を移す事をお願いするつもりでした。 でも・・・。 5月、お寺に向かう船で、初めて気づいたんです。 みかんの花の香りに。 その島に近付くにつれて、とてもいい香りがして、白い花が輝いて見えました。 そして、たくさんの蝶が舞っていて、とても奇麗だった。 ああ、こんなに素晴らしいところはないな、って。 同船していた主人や息子の家族に伝えました。 みんな、感動してしまったの。 お墓を移す話は、しませんでした。 私ね、今、あのお墓に入りたいなって、思っているの。 だから、離婚とかにならないようにしないと、ってね。 だって、離婚しちゃったらあのお墓に入れなくなるでしょう・・・ 私たちが、あのお寺のお墓に入る事になれば、子供たちも大変かもしれない。 なかなかお参りには来れないだろうし・・・経済的にも時間的にもね。 でも、法事じゃなくても、時間が空いた時とか、人生に躓いた時や疲れた時に、 私たちに会いに来てくれたら、あの島に来てくれたら・・・ きっと、また、力をもらえたり、もう一度、頑張れる勇気を得ると思うの。 そうね、5月がいいわね。 みかんの花が咲く頃が・・・」 門前に住んだからとて、信心深くなるものではない。 お寺に生まれついたからとて、仏縁が育つものでもない。 葬儀や供養の業界で働いても、目に見えるものしか信じない者もいる。 いつも、近くや便利な所ばかりに答えがあるのではない。
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10月 03日

仁に過ぎれば弱くなる 義に過ぎれば固くなる 礼に過ぎれば諂いとなる 智に過ぎれば嘘をつく 信に過ぎれば損をする 気ながく心穏やかにしてよろず倹約を用い金を備うべし 倹約の仕方は不自由を忍ぶにあり この世に客に来たと思えば何の苦もなし 朝夕の食事はうまからずとも誉めて食うべし 元来、客の身なれば好き嫌いは申されまい 今日の行くを送り 子孫兄弟によく挨拶して 娑婆の御暇申したがよし             『伊達政宗五常訓』 私がこの世にきた客ならば、主人は誰だろう? 神さんか、仏さんか?それとも・・・ 「お客さまは神様です」 と客が威張る。 「我こそはお客さま」と権利をふりかざし、過剰なサービスを要求する。 けれど一旦責任がからめば、その他大勢に早変わり。 昨今、客よりも主人になりたがる人が多い。 お客である楽しさを忘れては、もったいないなぁ。 旅に出ても、写真を撮る事ばかりに気が向いてしまう。 コンサートやナイターに行けば、帰りの混雑が気にかかる。 飲みに行っても、財布の中身に気をもんでしまう。 生まれてきても、あれこれと気に病んで・・・ 三流の客では、主は務まりやしない。 客とは、独りを慎み、独りを楽しむ人。
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9月 26日

塊になると、己のみ高しとしてしまう。だから、受け入れてもらえない。 塊になると、人の言うことに耳を貸さなくなる。だから、成長できない。 そりゃさ、何年かは先輩だわさ。 そりゃさ、あんたも築いてきたわさ。 でもね、やっぱり、損をしとると思うんよ。 誰に対しても、頭を下げれる人が偉か…

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9月 21日 「無常のはたらき」

新大阪から東京に向かう、新幹線。 名古屋で、杖をつく老僧が、私の隣の席にお座りになられました。 齢80、臨済宗の御老僧でした。 友人の葬儀に行き、これから、自坊に帰られるとの事。 そのしわがれ声にぬくもりを感じ、東京までの2時間、ビールを飲みながらお話を頂きました。 1、吾我名利の念、自分の物差しを捨てる。 2、現実をなさしめるものは何かの視点。 現れたものだけを見て、現実という。しかし、「何故、現れたのか」の視点を。 3、生きている間に、人間の目覚めを訴えるのが仏教。 人間にならずして、多くの人が、死んで仏となる。 4、社会の価値に幻惑された人生。道徳や倫理に犯された人生。 世の中の価値だけを集める人生。表を飾る。 人間をほったらかしにして、世の中の価値だけで競争する。 教育や社会はできるか、否かだけを問う。 それは、能力の問題であって、人間性の問題ではない。 5、真理に適わなければ、どんなにそれを好んでいても、潔く捨てていく。 どんなに辛くとも、それを受け止めていく。 「人生を自分の計らいではなく、いのちそのものにまかせきる事を生活の上で持てば、そう心配することはない」とさらりと語った言葉に、有無を言わせない強靭な力を感じました。 長年、練られ練られて、坐ってこられた信心の結晶だ、と。 「こんな日本だからこそ、無常のはたらきを説かなければ・・・」と、肩をたたかれました。
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