大童法慧 | 法話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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11月 11日 修業と修行

業を修めると書いて、修業。 学芸を習い修めるのが、修業。 一事を究めようと、一事に秀でようと、修練を重ねる。 和菓子職人になるための修業、小説家になるための文章修業。 習得がすめば、その修業は卒業できる。 行を修めると書いて、修行。 仏道や武道を修めるのが、修行。 一つ一つの行いを丁寧に修めていくのが、修行。 お寺で坐禅修行、技を極めたものが道場を巡って武者修行。 心掛け次第で、どこまでも深めていける。 鈴木正三が、弟子の恵中に示した。「修行とは、我を尽くす事なり」 「我を尽くす」とは? 自分の為に、懸命に励む事のように思うけど・・・ 頑張っている俺には、褒められたい俺がいる。 努力している私には、認めて欲しい私がいる。 頑張りや努力のそばに、他人と比べる自分が顔を出す。 隣りを横目で覗く事でしか、自分を確認できない。 止むにやまれぬ思いから、禅門に飛び込んだあの日、お師匠様からこんな教えをいただいた。 「いま・ここ・一所懸命」 「他人と自分を比較する事をやめなさい」と。 慙愧に耐えないけれども・・・ 我を尽くすとは、自分という塊に拘泥しない事。 我を尽くす時、実は、我ならざるものはない。 いま・ここに、全てがあった。
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11月 04日 他己

夕方、かったるそうにレジを打つ30前の店員。 小銭を取り出すのに手間取っている老婆に、小さく吐き捨てた。 「うぜぇ、早くしろよ」 1時間なんぼの仕事にさえ、プライドが持てないのか? こんな店員を雇い、使いまわして捨てるのも、これもまた、雇われの店長。 「母子家庭になったおかげで、市営住宅にも入れたし、手当ても結構、貰えるの」と、カウンターで、寿司をほおばりながら語る女。 「5年前に離婚届けをだしてさ、でも、実は、・・・ずっと、旦那と暮らしてるのよ、凄いでしょ。だって、こんな時代、真面目にやったら、貯金もできないわよ。 子供?いるわ。小学生と中学生の二人の息子」 利権目当ての偽装離婚。 その親の背中は、どんなふうに、子供に映るのだろうか? くすねた金じゃあ、うまい酒は飲めやしない。 大きなバイクを買っても、任意保険に入らない理由は、「金がないから」 高級車を転がしても、娘の保育料を払わぬ親。 ブランド物のバッグを持つために、「援助」を求める女。 そりゃあ、いい物はいい。でも、本当はどうなのか? 消費による自己実現。晦まされた人の価値。 自由とはお金の事かい? 道元禅師は、他にも己という字をつけ、他己<たこ>と現した。 自分と他人ではなく、自己と他己。 自分と他人の二つではなく、己ひとつ。 ふたつの対立の世界ではなく、へだてのないひとつの世界。 己ひとつの世界だよ、と。 自分の物は俺の物、他人の物も俺の物とするのは、蛸野郎の論理。 他己、それは、他もまた己にほかならぬ事。 自己とは、自分に現れた己であり、他己とは、他に現れた己の事。 つまり、すべてが己。 己ひとつが解れば、老婆が己の姿と重なるだろう。 己ひとつが解れば、世間を騙す事は、己自身を騙す事に気付くだろう。 己ひとつが解れば、この命もその金も、預かり物だと知るだろう。 己ひとつの世界だからこそ・・・愛おしいのだ。
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10月 07日 誓願を生きる

先日、5歳になる姪にこんな事を質問されました。 「世界で一番、偉い人ってだれかな?」と。 どうでしょうか? 皆さんは、この世で、一番偉い人って誰だと思いますか? 政治家や弁護士、そして、お医者さん。そんな風に、ステータスとされる職業に就いている方を思い浮かべるかもしれません。 けれど、その職業や地位が偉いのか?その人が偉いのか? また、そんな地位や肩書きよりも、もっと端的に、預金通帳の残高が多い人、或いは、財をなした人が偉いのだと、答える方もいるでしょう。 お金のあるなしだけで、人生の勝ち負けが決まってしまう、そんな時代でもあります。 お金は大切だけれども、お金が偉いのか、その人が偉いのか・・ 私は、姪に逆に問いかけました。 「えりちゃんなら、誰だと思う?」 パパやママと答えるかなと思いましたが・・・ もし、法慧ちゃんと答えるなら、おもちゃでも買ってあげようと思っていましたが、その答えは「アンパンマン」でした。 予想外の答えに驚き、熱があるのかと彼女の額に手をやりながら、 「なんで、アンパンマンなの?」と尋ねてみました。 「だってね、アンパンマンって、すごくやさしいでしょ。 悪い事するバイキンマンをやっつけて、とっても強いし。 それに、おなかのすいた人には、自分の顔を食べさせちゃうんだよ。 だから、とっても偉いなって思うの」 と、そう語る彼女は真剣で、熱もありませんでした。 私は、アンパンマンを子供の漫画としか思っていませんでしたが、彼女なりに5年間生きてきて、この世で一番偉いのはアンパンマン、と答えるのには、何か根拠があるのだろうと調べてみることにしました。 アンパンマンの作者、やなせたかしさんは、皆さんご存じの歌『手のひらを太陽に』の作詞者でもあります。 やなせさんは、ご自身の生い立ちや戦争の体験をもとに、アンパンマンに、本当の正義とは何か、という思いをぶつけていたのだと知りました。 我が身を捨てる、我が身を献じる心なくして正義は行われないという思いから、アンパンで出来た顔が、欠けたり濡れたりするとその力を失うという弱点がありながらも、溺れそうな人を見れば、ためらわずに水に飛び込み、ひもじい思いをしている人をみれば、アンパンマンが自らの顔をちぎり食べさせる事によって、人を救うという姿を描いています。 アンパンマンは、再生可能な顔を持つから、そんな事ができるのだ、と見る人もいるでしょう。現実にはありえないよ、と言う人もいるでしょう。 しかし、その道を歩むと決めた者にとっては、いくら挫折したとしても、たとえ、志半ばで倒れたとしても、やはり、それを貫かないではいられないと思うのです。 やなせさんは、この作品を通して、何のために生まれて、何のために生きるのかを問い続けています。あなたは、何のために生まれて、何のために生きるのか? 彼女がアンパンマンを偉いと感じたのも、やなせさんの願いに響いたからでしょう。 お釈迦さまは、このようにおっしゃっています。 「人は、地位や生まれ、姿によって、偉いのではない。 その人の行いによって、賤しい人ともなれば、偉い人ともなる。」 その人の行いによって、決まる。 では、その行いとは、なんでしょうか? やなせさんの言葉を借りれば、何のために生まれて、何のために生きるのかの答えこそが、行いであります。 そして、行いとは夢であり、誓いであり、願いである。 すなわち、人生とは、夢を生きることであり、誓願を生きることだと言えます。 地位や名誉や、お金があるかないか、は結果です。 結果のみを見ることより、むしろ、今どのような夢や誓願を抱いて生きているのかを、問わなければならない。 今年の夏、ある経営コンサルタントの方とお会いするご縁がありました。 名刺を交換した直後、いきなり、彼がこんな事をいいました。 「この鞄の中に3億円があります。 これをあなたに差し上げると申し出たら、どのようにお使いになりますか?」 私は、「坐禅堂を建てます」と、即答いたしました。 私は、二十歳の頃、大切な方との別れがありました。 それが契機になり、禅の世界にひかれていきました。 はじめて訪れたお寺に、坐禅堂がありました。 そのお寺の方丈様は、共に、坐る事を許してくださいました。 結果、そのご縁で頭を剃る事にもなりました。 あの頃の私と同じ人のためにも、坐禅堂を作り、共に坐る場を作りたいと願っております。 結局、3億円はいただきませんでしたが、彼は笑いながらいいました。 「この質問を経営者の方々にしますが、多くの方が貯金をする、と答えます。 貯金をして、しばらく使い道を考えます、と。 慎重になるのは結構ですが、でもそれはちょっと違うな、と思うのです。 今、本当に夢を生きていれば、正しい願いを生きていれば、答えられるはずです」 夢や誓願を生きるとき、仏教徒として忘れてはならない誓いがあります。 一切の悪いことは誓っていたしません。 一切の良いことを誓っていたします。 すべての人のため、社会に尽くすことを誓います。 この誓願の原点は、すなわち、南無帰依仏であります。 仏に帰依すると信じたときに、我が仏である、と気づいた時、自ずとこの誓願が体に表れてくる。 人のため、世のために、この身を尽くさないでおられない。 それは、叱られたくないから、捕まりたくないから悪いことをしない、というものではありません。また、褒められたから、他人に良く思われたいからいいことをする、のでもありません。 泥棒は、盗めば泥棒です。 警察に捕まらなくとも、検察に起訴されなくても、裁判で実刑を受けなくても、盗めばそれは泥棒です。そんな世間の取り決めややりとりではない。 でも、難しくはない。 アンパンマンにも出来るし、5歳の女の子にも、その尊さは理解する事ができる。 だからこそ、共に、南無帰依佛と手をあわせ、この誓願を持って、本当の偉い人となる歩みをいたしましょう。 一切の悪いことは誓っていたしません。 一切の良いことを誓っていたします。 すべての人のため、社会に尽くすことを誓います。 ご清聴ありがとうございました。
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9月 30日 合掌

福田さんが総理大臣となりました。 残念ながら、安倍さんは、美しい国を作らずに終わってしまいました。 美しい国というのは、人のために手間をおしまない事であり、惻隠の情や温かな情愛を感じる感受性を育てる事であり、ひいては人間としての尊厳を守るという事じゃないかと思うのです。 子が親を、親が子を殺す家庭が増えてきました。 また、その場に居合わせたがために、命まで奪われてしまう事件が起きています。 物があふれ、一見、平和で豊かな国となりながらも・・・ 大切な何かが失われたからだ、と多くの方々が指摘します。 しかし、それが何かなのか? その何かとは、その何かのひとつとは、私は合掌であると思うのです。 静かに手を合わせ、感謝し祈りを捧げる時間を取り戻せる場所がお寺。 人間としての尊厳、また、いのちの大切さに気付くためにも、お寺にお参りをする。 ご本尊様に静かに手を合わせる。ご先祖様に感謝の気持ちを捧げる。 そんな時間を持つ事によって、本当の豊かさに気付く事ができる。 そんな時間を持つことによって、合掌を生活に取り入れる事ができる。 見直そう 合掌の心     伝えよう 合掌の姿 あなたのその手は、銃を持ち自らを打ち抜くために、あるのではない。 あなたのその手は、ナイフを持ち人を傷つけるために、あるのではない。 斧を持ち父を、紐を持ち母を、ビール瓶を持ち弟子を・・・殺めるためにあるのではない。 金をくすねるために、女を犯すために、物を奪うために、あるのではない。 その手は・・・合掌するためにある。
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9月 16日 ハチドリ

この物語は、南アメリカの先住民に伝わるお話です。 森が燃えていました 森の生きものたちは われ先にと 逃げていきました でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます 動物たちがそれを見て 「そんなことをして いったい何になるんだ」といって笑います クリキンディは こう答えました 「私は私にできることをしているだけ」 『ハチドリのひとしずく いま、私にできること』 今日の一滴って、何だろう? 着飾って、勝負下着で彼とのデート。 子供を連れて、勝沼にぶどう狩りへ。 入院してる旦那のお見舞い。 溜まった洗濯物を片付ける事、散らかった部屋に掃除機をかける事。 受験にむけてのお勉強、留学のための手続き。 いま・ここ、そして、この私。 全てはいま・ここにある、と覚悟ができた時、今まで嫌で嫌でたまらなかった自分や、自分を取り囲む環境も、あなたの味方に変わる。 さて、あなたの一滴って、何だろう? その一滴が、真っ直ぐに、いのちの大河に続きますように。
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9月 09日 ママはどこ?

彼女は血圧の薬を常用していた。 しかし、その事以外は普通の暮らしぶり。 朝5時半に起きて朝食を作り、夫と小学1年生の娘を送りだす。 最近は、近くの工務店で経理の勤めを始めた。 家族や友人そして勤め先の人までが、 彼女の屈託のない笑顔に、勇気づけられ、また、慰められていた。 多くの人が、彼女の底抜けに明るい人柄を慕っていたという。 それは9月の夕方であった。 帰宅した娘が目にしたのは、台所に倒れて大きく鼾をかく母の姿だった。 懸命な祈りも届かず、36の最期であった。 「若いのに、なんで?」と、叫ぶ友がいた。 「小さな子がいるのに、可愛そう」と、囁く声がこだまする。 大切な人を亡くした親子を慰める言葉は、誰も持っていない。 泣き腫らした目をしながら、父のそばに、ちょこんと座る娘。 幼い心に母の死を理解しようとするのか、黙り込んでいた。 妻の位牌を持つ夫の片手は、一瞬たりとも娘の肩から離れることはなかった。 儚い命である事に、改めて気付かされながらも・・・ 不条理な現実は、やはり、受け入れ難い。 移り変わるこの世の理も、この場には救いにもならない。 「○○ちゃん、さよならも言わないで、ママは逝ってしまったけれど・・・ママを悪く思わないでね。 こんなふうにお別れをするなんて、ママも思ってもみなかったんだよ。 ○○ちゃんの成長を見届けられないのは、 ママにとって、とても悲しく、とても辛い事でしょう。 もっと、○○ちゃんと、色んな事をお話したかったでしょう。 もっと、○○ちゃんと遊んだり、旅行したりもしたかったでしょう。 もっと、もっと、あなたのそばにいたかった。 ○○ちゃんも、ママの事が大好きでしょう。 ママも○○ちゃんの事が、ほんとうに大好きだったと思うよ。 「ママは、どこに行くの?」って、パパに聞いたんだってね。 パパからね、わかりやすく教えてくださいと、言われたよ。 あのね、ママは、決して、遠い処に行ってしまうのではないんだよ。 あなたの思いの届かぬ処へ、消えて無くなったんじゃあないんだよ。 じゃあ、どこだろう? ○○ちゃん、あなたの中にママはいないだろうか? 朝、ママと一緒に目覚め、学校に行く。 学校では、お勉強したり運動したり、お友達と遊んだり・・・ そして、晩ご飯。独りで食べなきゃならないときもあるだろうけど、そんな時でも、ママはあなたの中に、あなたといっしょにいるんだ、と。 そして、辛い事や苦しい事、悲しい出来事にであった時、 「こんな時、ママならどんなふうに考え行動するするだろうか?」って、問いかけてごらん。 きっと、答えてくれると思うよ。 今はまだ難しいかもしれないけれど・・・ ○○ちゃん、ママもあなたもひとつのいのちを生きている。 ママは○○ちゃんと早くさよならを言わなくちゃいけなくなってしまって、可哀相と言われることもあると思う。 でも、これからの○○ちゃんの頑張り次第で、ママの人生は変わるんだよ。 あなたがずるい子になれば、ママは泣いてしまうだろう。 ママはとっても可哀相だ。 でも、優しい子になれば、ママはきっと大喜びするよ。 あなたのママの人生を、可哀相で終わらしたらいけないよね。 ○○ちゃん、ママはあなたの事を本当に愛しているよ。 ○○ちゃん、ママはあなたの事を本当に愛しているからね。」
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8月 29日 置き場所

以前、葬儀相談員の市川さんが発行する「相談員がつぶやく「お葬式」のハナシ NO.065 」のなかで、以下の回答をしたことがあります。 ここのところ、同様の質問をいただく事が多いので、その時のものを加筆訂正し、掲載します。 [問] 我が家では、仏壇の上に祖母の遺影を飾っていました。 ところが、「その飾り方はよくない」と知人に指摘されました。 そんな時、不幸が立て続きにおきたので、両親が遺影をしまいました。 遺影を飾ってはいけない場所などあるのでしょうか? [答] お仏壇の上に遺影を飾る事と、不幸が立て続けにおきた事との因果関係は、全くありません。 何々をしてはならない教えが、仏の教だと受け止めている人も多いですが、実は、そうではありません。 人間が、本当の、自由な、何ものにも騙されない人間になる教えこそが、仏の教です。 戒律もありますが、人間を縛ったり窮屈な思いをさせる為のものではないのです。 お祖母様を偲ぶお心で、その場所に遺影を飾ったのに、知り合いから指摘を受けたとの事。 この指摘した方も、おそらく、何故よくないのかは説明できないでしょう。 こんな、心無い一言に惑わされたり、引きずられたりしない事こそが、仏の教えです。 遺影の置く位置は、仏の教えにはありません。 しかしこう申しあげても、実際に、気になさる方は気にされます。 この相談者のご両親は、遺影を外し、どこかにしまったとの事。 これもまた、仕方のない事だと思います。 この状態で「因果関係は何もないよ」と申し上げたところで、おそらく、聞く耳をもたれないでしょう。 それにこだわって、喧嘩をするのもまた、よくない事ですね。 ひとまず、ご両親の意思を尊重しましょう。 そして、時期を見て住職さんに尋ねたり、これを機に仏教にふれる機会を持たれてはと思います。 大好きだったお祖母様の写真は、フォトスタンドなどに入れて、机に置くこともできますよね。 似たような話に、水子やご先祖様のたたりだとかありますね。 それで、高額の絵や数珠などを買わされる。 子がその母を恨んだり、先祖がその子孫を憎んだりすると思いますか? むしろ、その逆でしょう。 人は弱い者でもあります。 思い叶わぬ事があると、何かのせいにしてしまいがちです。 そんな時こそ、真実を冷徹な目をもって、ものを見る事が大切じゃないでしょうか。 そして、その冷徹な目こそが仏教だと思うのです。 ひきずられない事、振り回されない事。
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7月 12日 影法師

先日、久しぶりに、故郷を歩く機会がありました。 繁華街の凋落ぶりに、「これが、あの徳山か」と嘆息いたしました。 輝いて映った物が消えた姿に、改めて、常ならざるものなしと感じました。 20年ぶりの友人との再会。 「よお」の一声で、20年の時が、一気に走り去りました。 昔話のなかで、高校2年の頃、「人生は歩く影法師、その姿を見失うな」と、言葉を頂いた事を思い出しました。 あの頃、自分の影法師は、どんな姿をしてただろう? あの時、抱いた夢や希望の影法師は、どこに行ったのだろう? そして、今、私の影法師は、どんな姿なのだろう? 恵心僧都<えしんそうず>・源信の名は、中学の教科書にも登場します。 『往生要集』と言えば、思い出されるでしょうか? 源信は神童の誉れ高く、わずか15才ながら、村上天皇の前で『称讃浄土経』を講じるという名誉を得ました。 講義後、天皇は御感のあまり、お誉めの言葉と褒美の品、そして、僧都の位を源信に授けました。 源信はご下賜の品々を、故郷に独り住む母に送りました。 ところが、母は、それら全てを源信に送り返し、このような手紙を添えました。 「あなたが、立派な学僧になられた事を嬉しく思います。 うちには女の子はたくさんおりますが、男の子はあなた一人です。 その大事なあなたを、元服もさせずに比叡山に登らせたのは、偉い坊さんだと、世間にもてはやされるためではありません。 ひたすらに、真実の道を求めて、それを私に教えて欲しかったのに他ありません。華やかな場所に出入するような人になって欲しかったのでは、決してないのです。 もう私は老い先長くはありません。 お前が本当の聖人になるまで、私は死んでも死に切れません。 後の世を 渡す橋とぞ 思いしに 世渡る僧に なるぞかなしき   」 観無常 無名利・・・無常を観ずれば、名利なし 地位や名誉、人から褒められたい、よく見られたいと思う心の影法師。 ・・・学歴も資格もないよりも、あれば、便利なこの世の中。 地位や名誉で、人が変わる姿も、目にしてきた。 お前自身が偉いのか?それとも、その地位が偉いのか? 金襴のお袈裟をつけて、黙ってりゃ、偉いお坊さん。 褒められば、悪い気はしない。そして、威張り腐って、自ら腐る。 金・金・金と金を追いかける心の影法師。 ・・・金が全てじゃないって、きれいに言えない年齢になってきた。 金があるか、ないかだけで、人生が変わる事も知っている。。 子供がいれば、なおさらの事。学校に通わせるのも、ただじゃない。 金だけが己の力だと錯覚し、金を求めて、人に逃げられる。 世渡る僧・・・世渡る経営者、世渡る主婦、世渡る政治家、世渡るホスト、世渡るサラリーマン、そして、世渡る私。 個人では、モラルやルール。企業では、コンプライアンス。 そんな最低限の事でさえ・・・ あんな大人になんかなりたくねぇや、と思ったガキの頃の影法師に指をさされ、笑われてはいないだろうか? さぁ、もう一度。 いまから・・・ここから・・・
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7月 03日 お釈迦様の木

豊かな森の中に、一本の大きな木がありました。 その木には、仲良しの3羽の小鳥が、住んでいました。 小鳥の名前は、ぱっぱ、ぴっぴ、ぺっぺといいます。 いつも仲良く、一緒にご飯を食べます。 お昼寝も、歌やおしゃべり、お出かけも、一緒です。 ある日、ぱっぱが、こんな事を言いました。 「東の方に、大きな街があって、とても、楽しく暮らせるんだってさ」 すると、ぴっぴが、続けます。 「南の方に、大きな山があって、食べるものがいっぱいあるんだってさ」 ぱっぱとぴっぴは、「うーん、街に行こうかな?それとも、山に行こうかな?どうしようかな?」と、考え込んでしまいました。 すると、ぺっぺが言いました。 「僕は、ここがいいな。 とても楽しく暮らせる街かもしれないし、いっぱい食べ物がある山かもしれないけれど・・・僕は、やっぱり、ここがいいや」 小鳥たちは、みんな意見が分かれたね。 さて、どうしよう? ・・・そうだね、街に行ってもいいでしょう、山にいってもいいでしょう、ここにいてもいいでしょう。 しかし、ただひとつ、何をするにしても、忘れてはいけない事があります。 それは、小鳥たちが住んでいる豊かな森は、実は、みんなの心の中にあるという事です。 そして、その森の中に、一本の大きな木がある。 そう、その木こそが、お釈迦様の木なんです。 小鳥たちに誘われて、街にいっても、山にいっても、・・・みんなの心には、豊かな森とお釈迦様の木がある事を忘れないで下さい。 はい、では、隣の人と手をつないでください。 そして、心を手に集中してごらん。 なんだか、あったかいよね。 その、あたたかさこそが、森の姿なんだよ。 僕たちは、心の中に、豊かな森がある事を忘れてしまいがちだけれども・・・本当は、この森は、みんなとひとつに繋がっているんだ。 じゃあ、手を放してください。 最後に、和尚さんから、お願いがあります。 それは、お釈迦様の木に、栄養を与えて、育てていく事を忘れないでください。 どんな、栄養かというと・・・ ご飯をいっぱい食べてください。食べるときには、いただきます、食べたら、ごちそうさま、ね。 そして、いっぱい遊んで、笑って、お父さんやお母さんや先生の言う事を聞いて、元気に保育園に通って、お歌をうたったり、かけっこしたり、今日のように般若心経を読んだり、坐禅をしたり・・・そう、普段、みんながしてる事、それが、お釈迦様の木の栄養になるのです。 その栄養がお釈迦さまの木の根に届いて、もっと、もっと、大きな立派な木となって、必ず、みんな事を守ってくれるようになります。 どうか、みんなの心の中の豊かな森が、もっと豊かになって、そして、お釈迦様の木が、もっと大きく太く、立派になるように、そう、和尚さんは、願っております。 では、最後に、みんなで合掌をしましょう。 ありがとうございました。
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