大童法慧 | 法話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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12月 31日 識羞

大学生の頃、私は、生花の卸市場でアルバイトをしていました。 日・水・金曜日と週に3日、22時から翌朝の6時まで働いていました。 トラックの荷降ろしの手伝い、せりのための種類や等級別に仕分ける事が仕事でした。3000から5000のダンボールを、汗だくになりながら、2人のバイト仲間でさばいてました。 当時は、バブルの最盛期でした。 皆さんの中に、一本、壱万円のバラを覚えている方はあるでしょうか? クリスマスの時期に、話題性もあり、洒落っ気もあり、また、マスコミにも取り上げられ、多くの人が求めたそうです。 そのバラの原価は10円以下でした。 それも、才覚といえば才覚になるのでしょうけれども・・・ 毎朝、自転車に乗り、出勤する50すぎのおっさん。 必ず、自販機の小銭口に指を突っ込み、とり忘れを狙う。 そこに、どれだけの夢があるのだろうか? 電車の中で爪を切っている、OLもどき。今じゃ、化粧は当たり前。 高校の制服を着たままのガキが、車内で抱き合い、愛を語らう姿。 が、混んだ車内に妊婦が乗った時、赤い髪をしたギターケースを持った男が席を譲った。 この彼の歌ならば、聴けるだろう。 保険を払えず、病院に行けぬ人。 寒空の下、自転車にリヤカーをつけて、空き缶を奪い合う方々。 格差社会、金はあるところに集まるみたい。 携帯の支払いに5万を払う生活を送りながら、わが子の給食費を払わぬ親。 コンビニの前に座りこんで、買った弁当を食べる小学生。 運動会では、校門の前でピザの宅配を待つ。 権利と主張の声ばかり・・・負けてはならぬ、負けてはならぬ・・・ 先日、お通夜の後、小学生の子がかけよってきた。 「おばあちゃんの事、お願いします。お世話になります」と礼をされた。 私は、・・・黙って、彼を拝んだ。 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治の頃、佛教の復興に尽力された大恩人のひとりに、山岡鉄舟大居士がいます。鉄舟居士の逸話のひとつ。 ある日、知人がやってきて、鉄舟に言いました。 「鉄舟さん、そんなに神仏を信じたって、しようがないじゃないですか。私は、毎朝、神社の鳥居で立ち小便をしてきますが、全く、罰などあたりませんよ」 鉄舟は、静かにこう答えたそうです。 「すでに罰は当たっているよ。立ち小便と言うのは、犬や猫がする事。 武士が鳥居に立ち小便をするとは、既に、あんたは犬や猫になりさがっている。それが、何よりの罰だ。」 賽銭箱に小銭を投げ入れて、大きな幸せを願う元旦がやってくる。 家内安全、家庭円満、交通安全、無病息災、安産祈願、合格祈願、良縁祈願、大願成就・・・本当の幸せはどこにあるのか? 仏神は貴し、仏神をたのまず 武蔵 独行道
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12月 16日 帰らぬ人

亡くなったと知らせを受けても、まだ、信じられませんでした。 駆けつけ、横たわる姿をみても、まだ、信じられませんでした。 遠くの親族や多くの友人が来ても、まだ、信じられませんでした。 涙はでるけれど、死んだとは思えなくて・・・ 悲しくて切ないけれど、また、起きてきそうで・・・ ゆっくりと目を開けて、私の名前を呼んでくれそうで・・・ もっと、そばにいて、もっと、話をしとけばよかったと、思いました。 お通夜が終わり、葬儀を終えました。 お棺に、いっぱいのお花と好きだったお酒と煙草、そして、愛用していた杖と帽子、お気に入りの写真と本、そして、私の子供の書いた手紙をいれました。 それでも、なんだか、父が死んだとは思えませんでした。 火葬場で、炉に入り、蓋がゆっくりと閉まった時、なぜだか、「帰らぬ人」という言葉が浮かびました。 その時、はじめて、身が震えるほど泣いてしまいました。 ああ、父が死んだんたと、私のお父さんが死んだんだと・・・ 本当に、馬鹿な娘でした。 本当に、わがままな娘でした。・・・ごめんなさい。 お骨になった父の姿を見た時、はじめて、寂しさを感じました。 どんなに泣いても、どんなにお金を積んでも、誰に頼んでも、何をしても・・・ 父は帰ってきません。 お骨を骨壷に収めた後、お話をしてくれましたね。 移り変わっていく事、無常の意味、そして、いま・ここ、と。 すごく、心に響きました。すこし、楽になりました。 また、電話させていただいてもよろしいですか? また、はなしを聞いてください。
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12月 10日 省察

若し、智慧あれば則ち貪著<とんぢゃく>なし。 常に、自ら省察して失すること有らしめざれ。 『遺教経』 【意訳】 もし、智慧があれば、おのずから貪り執著することがない。 だからこそ、常に自らを省察して、智慧を失わないようにしなさい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 苦しみの日々 哀しみの日々       茨木のり子 苦しみの日々 哀しみの日々 それはひとを少しは深くするだろう わずか五ミリぐらいではあろうけれど さなかには心臓も凍結 息をするのさえ難しいほどだが なんとか通り抜けたとき 初めて気付く あれはみずからを養うに足る時間であったと 少しずつ 少しずつ深くなってゆけば やがては解るようになるだろう 人の痛みも 石榴のような傷口も わかったとてどうなるものでもないけれど (わからないよりはいいだろう) 苦しみに負けて 哀しみにひしがれて とげとげのサボテンと化してしまうのは ごめんである 受けとめるしかない 折々の小さな刺や 病でさえも はしゃぎや 浮かれのなかには 自己省察の要素は皆無なのだから 詩集 『依りかからず』より ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「俺は、もう、ダメだ」や「私は、これで、おしまいよ」は、省察ではないと、思うのです。 ダメやおしまいから、苦しくてももう一度、辛くても今一度、起き上がる事こそが、本当の省察ではないかと、信じております。
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12月 04日

年の瀬が近づき、来春の中学受験がとても不安だとの事。 どこで知ったのか、こんなヤクザなお兄さんの綴るブログを読んだり、まして、臆する事なくメールを送ったりできる君なら、大丈夫だよ。 お医者さんになりたいという夢。とても素敵だね。 その願いを大事に大事に温めながら、いま・ここを大切にね。 そういえば、思い出したよ。 お兄さんも小学校の時、受験したんだ。広島のクリスチャン系の学校をね。 結果?・・・もちろん、落ちたよ。 受かっていれば、今頃、お坊さんにはなっていなかったかなあ。 お兄さんが、お坊さんを志したのは、二十歳を過ぎてからなんだ。 それまで、宗教なんて大嫌いでさ。神さんも仏さんもいないと信じてた。 周りの人々を傷つけながら、自分の力だけを信じてた。勝手だよね。 でもね、結局、縁があったのかなあ。 何が幸いして、何が災いとなるかは、その時だけの視点では計り知れないものだけれど、ガキの頃の学校の質って大切な事のひとつだと思うよ。 大丈夫だよ。 お兄さんはわかってるよ、君はずいぶん努力してきたもんね。 お父さんやお母さんの思いを背負っている事も自覚している立派な子だ。 大丈夫だ。 試験にあがったり、緊張したりしないように、おまじないをかけてあげる。 ご縁があったのだから、お兄さんが、念じてあげる。 だからさ、今は、こんなブログなんか読まずに・・・さあ、勉強しよう。 合格の吉報を待ってるよ。 世界には、お前の他に歩き得ない唯一の道がある。 それは、どこに、通じているのか? 尋ねるな。その道を歩け。 ニーチェ 『反時代的考察』
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11月 23日 円相

私の名刺には、円相を描いております。 ブログやMIXIのプロフィール欄にも、円相を載せております。 残念ながら、美形ではありませんから・・・ 名刺を渡すと、「この丸は、何ですか?」と、よく問われます。 円相は円窓とも書き、心をうつす窓という意味もあるそうです。 しかし、古来より、禅の坊主の描く円相は、本来の面目の事です。 この真実なるものを、言葉でもなく、絵や画でもなく、ただ、一円相をもって示したのです。 臨済宗の大本山妙心寺の御開山である無相大師・関山慧玄禅師は、語録や著書を残さず、頂像もなく、遺命して自らの像を作る事を禁じました。 遺された弟子たちは、円相を描き、それを師として礼拝したとの事。 仙義梵禅師の円相を描いた画賛には「これ食ふて茶のめ」とあります。 真実なるものとして描いた円相を饅頭か餅に見立て、そんなものは茶菓子にして食べてしまえ、との言葉。 ありがたがっているだけでは、だめなんですね。 「この丸は、何ですか?」と聞かれたら・・・ 「あなたには、どんなふうに映りますか?」と、尋ねております。
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11月 11日 遺偈 竺雲恵心禅師

メールで質問をいただきました。 尚、以下は、ご諒解をいただき、転載及び加筆いたしました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 禅宗については門外漢ですが、ご教示いただけないでしょうか。 東福寺二百十三世・竺雲恵心の遺偈に、以下の言葉があるそうですが、 何を意味しているのでしょうか? 天然而死 天然而活 更問如何 喝 大衆珍重 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 遺偈とは禅宗の僧侶が、末期に臨んで門弟や後世のために遺す偈の事です。 口伝で毎歳の正月に作るように、伝えられております。 東福寺二百十三世・竺雲恵心禅師は、安国寺恵瓊の師僧ですね。 【原文】 天然而死 天然而活 更問如何 喝 大衆珍重 【意訳】 あるがままに死んでいくもの あるがままに活きているもの この「あるがまま」が、しっかりと、おわかりですか? 喝 皆さん、しっかりと励みなさいよ。 天然を、私は、ひとまず、あるがままと訳しました。 あるがままとは、野放図なやりたい放題の自由や鍛えられていない無邪気さの事ではありません。 私たちは、この体を、自分の物のような気で生きております。 もし、体が自分の物ならば、自分の思い通りにできるはずです。 目覚まし時計をかけて朝おきたり、カロリーを計算してダイエットをしたりはできるけれども・・・ 思い通りになるのなら、風邪をひいたり、癌になったりはしないでしょう。 冷静に考えてみれば、この体ひとつ、自分の思いどおりにできない事に気付く事でしょう。 つまり、自分の体さえも、本当は、自分の物ではないという事。 禅宗では、父母未生以前、本来の面目を述べよ、と言います。 お前さんのご両親が生まれる前、お前さんはどこにいたのか、という問いです。 お父さんとお母さんが出合って、赤白の二滴から、私が生まれた・・・ オトンもオカンも生まれてないのに、自分なんかがおるわけがない・・・ でも、これじゃあ、お話になりませんね。 これでよければ、これまでの人でございます。 父母未生以前とは、 俺とお前、勝ったと負けた、良いと悪い、そんふうに、物を二つに分けて見る前のところは、何か?という事です。 もっとはっきり言えば、この世界の根源とは何なのか?という事です。 いかがですか? この世の根源は、無だ、 空だ、 と早合点される方も多いですが・・・ 昔の暴走族でも、旗に、色即是空・空即是色って書いてありましたが・・・ もし、弟子がそんな虚無観や安悟りの見解を師に呈したならば、 師は弟子を打ち据えてでも、その誤った見解を奪い取ったものです。 黒闇の鬼窟や野狐禅を絶対に許しませんでした。 竺雲恵心禅師の答えは、天然でした。 下克上の時代、大きな無常観を抱いて、刻苦精励し、何年も何十年も入室参禅を繰り返しての答えが、天然でした。 天然を、私は、あるがままと言い換えましたが、本当は、言い換えてはならない言葉であります。 竺雲恵心禅師の天然は、たとえ釈迦や達磨の前でも、天然であります。 遺偈を穏やかに意訳しましたが、実は、目ん玉をひん剥いて、弟子の胸倉を掴んで、さぁ、解ったか‼と、問い詰めているのであります。 さぁ、お前は天然が解ったか‼ さぁ、天然について、何か言うてみよ‼ 安逸な暮らしの中で、数冊の本を読み、それで人生を纏め上げれると思うようでは、竺雲恵心禅師は決して許してくれないでしょう。 じゃあ、この天然を解るためにはどうすればいいのか? 禅の坊主としては、よき師について坐禅を、と言うより答える術がありません。 あまりにも不親切な答えと思われるかもしれませんが、お解かりの暁には、これほど親切なことはないと信じております。 では、お大切に。 法慧 合掌
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10月 13日 悲嘆

なぜ、こうも悲しいのだろうか? なぜに、こんなにも辛いのだろうか? なぜ、ここに、あの人がいないのだろうか? この声は、あの人に、届いているのだろうか? この思いは、あの人に、伝わっているのだろうか? 何をもってしても、埋め合わす事のできない空虚な気持ち。 何をもってしても、変えることの出来ないあの人への想い。 日ぐすり、時ぐすり、そして、佛法のくすり。 悲嘆の回復には、長い時間を要するかもしれないけれど・・・ あなたと、ご縁があったのだから、お付き合いいたしますよ。
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10月 06日 生きて今あるは

生きて 今あるは この事に あわんがためなり これは、私のお師匠様の言葉の一つです。 この事とは、何でしょうか? 惚れに惚れて一緒になった人の事でしょうか? 大切な大切な血を分けたわが子の事でしょうか? 節約に辛抱を重ねてやっと建てた家の事でしょうか? 百年の恋も、一夜の浮気に破れ、誓い合った仲も罵り合う事に・・・ 大きな期待をかけ、手塩にかけて育てた子も、今じゃ音沙汰なし・・・ 30年のローンを組んで、片道2時間、夫婦も親子も会話なくなって・・・ では、この事とは何でしょう? 各人において、大切なもの、かけがえのないものがおありでしょうが・・・ やはり、折角、この世に生まれたならば、・・・ それが無くなるものではなく、失うものでもなく、真実なるものに、永遠なるものにお会いしてみたいな、と思うのです。 禅門では、「この事」を本来の面目と言います。 あるいは、本来の自己ともいい、あるいは、本来のいのちともいいます。 実は、本来の面目という言葉に出逢うにも、本当は、たいへんな事なんですけれども・・・やはり、佛縁が深くなくては、あえないものです。 しかし、その言葉ひとつで、安心<あんじん>できるかというと・・・ 残念ながら、そうではありません。 言葉だけでは、所詮は、絵に描いた餅にすぎません。 この事は、言葉や文字で現し難く、やはり、刻苦精励して冷暖自知するより他がありせん。 この事を知らんがために、多くの修行者が命懸けで師を求めました。 ある老師は、その問いに、黙したまま、一本の指を立てました。 ある老師は、庭にある柏の樹とお答えになりました。 薄い粥をすすり、襤褸を着て、托鉢や作務で己を空しくしながら、与えられた公案をひたすらに参究する。 師に悪態をつかれ、どつきまわされても、三拝九拝しながら、その教えを乞うていく。 師が「カラスは白い」と言えば、弟子は、「はい」と応じる事。 頭の良い方は、黒いじゃないかって、反論したくなるでしょうけれど、 師が白いと言えば、白い世界なのであります。 じゃあ、人権はないのか?自分はないのか?って思うのは、やはり、頭の良い方ですね。そこに、私とか損得勘定はないんですね。 ただ、師を信じる。師を信じるとは自分を信じる事でもあります。 師とは、全てを奪ってくれる人の事だと思います。 だからこそ、「正師を得ざれば学ばざるにしかず 『学道用心集』」です。 すぐに、騙されたとか、裏切られたとか言うのは、真剣に求めていないからではないでしょうか? もっとも、これをカルト宗教のような洗脳と紙一重と思う方もいらっしゃるかもしれませんが・・・ その当時の写真を見て、今、丸々と太った自分に反省しております。 酒がいかんかったかな。何でも残さずに食べるし。 今月から、私は、褚遂良の『雁塔聖教序』を臨書しております。 これが、実に難しい。 いわば、見て書くだけの事なんだけれども、それが、できない。 強い線を出す事だけを考えなさい、と教えられても、やはり、できない。 字など名前が読めりゃいいともいいますが、道を究めんとすれば、一の字さえも、なかなか書けないのです。 「とにかく、呼吸。それにはやはり、書いて身につけるしかない。たくさん書かなきゃ、だめだよ」と、毎回、叱られております。 趣味で筆を持つのなら、楽しめばいいんでしょうけれども・・・ 人生の一大事を、楽して掴もうというのは虫のいい話だと思います。 先日、知人の頼みで、出家したいと言う方とお会いしました。 数年後に、定年を控えている方で、話を聞いて欲しいとの事。 お会いして、すぐに、まだその時節ではないな、と感じました。 基本的な問いにも答えられず、かといって、無常観や大きな疑念があるでなく・・・ただ、雰囲気に憧れていたんですね、禅の世界の。 定年後、小遣い稼ぎのために、葬式法事をするお坊さんになるのなら、話は別ですが・・・坐禅会や仏教の勉強会から始めては、とアドバイスしました。 帰り際、彼はこう言いました。 「人生や生き方について、考えた時間を持ったり、誰かと話をしたりしたのは初めての事でした」と。 彼は60歳近くになってはじめて、この事がある、と知ったはずです。 この事あり、と知る。 この事あり、を信じる。 この事あり、と単提する。 この事あり、を体現していく。 人それぞれに立場があり、勿論、皆が修行者ではありませんが・・・ それぞれの方の環境や境涯おいて、「この事」を互いに支えあいながら、深めていく僧伽<サンガ>を作りたい・・・大きなおなかを抱えながら、こんなことを切に願っております。 磨いたら 磨いただけは 光るなり 性根玉でも 何の玉でも 山本玄峰老師
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