大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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2月 21日 看脚下

ああなりたい自分、こうなりたい自分を思い描いて、そこに歩みを進めている私たちです。 でも、ともすれば、そちらの方に重心がかかっていませんか。 もし、そうだとするのならば、ああなりたい自分が遠ざかってしまうと思うのです。 なぜか。 「いま・ここ」を蔑ろにしては、未来は、それに応じたものになってしまう。 だからこそ、看脚下<かんきゃっか>。 そう、重心を「いま・ここ」に置く。
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1月 27日 suddenly

悲しみは、どうやら、突然やってくる。 そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。 「お参りさせてください」と言って、本堂で手を合わす女性。 半時あまり過ぎた頃、「ありがとうございます」と声をかけてこられた。 お茶を進めたら、笑顔で頷いた。 「先日、病院で検査して、癌だと告げられました。 治療を進められたけれども・・・おかげさまで、決めることができました。 ここで、母のことや自分の人生を振り返って、甥には迷惑かけられない、と決めました。 私、もう70年も生きてきた、もう十分だって思えた。だから、治療はしない。」 悲しみは、どうやら、突然やってくる。 そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。 でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。 行きつけのショトバーで「同い年だね」と、私に語しかけてきた男がいた。 バツイチ無職、女のところに転がり込んで威張り散らす彼。 9歳の子供の親権は、当然、別れた妻が持っているという。 聞けば、せっかく勤めた会社も、「給料が安い」「馬鹿にされた」と理由をつけ辞めてしまう。 酒を飲めば暴れる、甲斐性なし。 それでも、どういうわけか、女にはもてて食うに困らない。 女は別れたくても、別れられない。 だから、本人は追い詰められない。 でも、今日は違った。 ショットバーではなく、お寺を訪ねてきた彼が、絞り出すように言った。 「息子が・・・」 悲しみは、どうやら、突然やってくる。 そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。 でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。 そういえば・・・ 絶望を胸にした時、痛切に思った事がある。 「なぜ、こんなに悲しいのに、こんなに苦しいのに、こんなに辛いのに・・・また、朝がくるのか」 「自分がこんなに悲しくても、朝が来る」 訪れた朝が、憎く恨んだ。 訪れた朝に、怯え震えた。 悲しみは、どうやら、突然やってくる。 そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。 でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。 いつも、あなたを思い出す。 いつも、懐かしく思う。 あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな   和泉式部
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1月 02日 真実担道の人

路遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を見る。 佛道は順逆の中に長遠の志を堅持するを、真実担道の人というなり。 『大智禅師仮名法語』 年の初めに、幸せを祈り、手をあわす。 でも、祈りの前に、感謝の念がなければ、その祈りは届かない。 感謝の念、それは、すべてを肯定することからはじまる。 全てを肯定する。 共に、真実を担う人でありたいと願います。
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11月 28日 没可把

没可把<もっかは> 何かをつかまえようとすればするほど、逃げていく。 ああでないか、こうでないかと考えれば考えるほど、遠ざかっていく。 かといって、不貞寝していては、話にならない。 明治十一年、大本山永平寺二祖 孤雲懐弉禅師六百回大遠忌での逸話。 修行僧や随喜の御寺院が問答をかけてくるのに、受ける小参師は、45歳頃の森田悟由禅師。 はじめの僧の、「如何なるか、是れ仏」との問いに、悟由禅師は「没可把」と答えた。 次の僧の、「如何なるか、祖師西来意」の問いにも、悟由禅師は「没可把」と答えた。 次々の問答、全て、悟由禅師は「没可把」と答えた。 そして、最後の問答の時、ある僧が有無を言わず、禅師につかみかかった。 悟由禅師は静かに微笑んで、「没可把」と答えたのみ。 その僧は力にまかせて、悟由禅師を引きづり倒そうとしたけれども・・・ 泰然として動かぬ悟由禅師に、恐れをなして逃げたという。 没可把   つかむなよ 没可把   つかまないこともつかむなよ 没可把
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10月 26日 八風吹けども

八風吹けども・・・ 追い風にのり、順風満帆な日もある 非難批判の風がふきつけ、足元がすくわれる時もある 突然呼ばれた会議室、告げられた言葉 誤解、裏切り、かばわぬ上司 覗いたメール、ふたりだけの言葉 不倫、言い訳、甲斐性なし 再検査、告げられた病 不安、受容までの道のり、憐みの涙 八風吹けども・・・動ぜず 動ぜぬものは、何だろう? ジムで鍛え、サプリを飲み続けた頑強な身体も老いていく 全ては心次第だと悟った心も、強風に引きづられ振り回される この身と心は、そんなにあてにならない そう、動ぜぬものとは・・・真実なるものがあると信じ、気づく歩み 会議室での数分間は、お釈迦様からの風 覗いたメールで別れたのは、道元さまからの風 告げられた病で人生をまとめられたのは、瑩山さまからの風 妬み嫉みで貶めようという世界が現れたとしても 自分がどんなに嫌いになったとしても 「もうだめだ」と呟く事態に陥ったとしても そう、南無帰依佛と誓ったからには‥‥菩提の行願
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10月 08日 よくある話

かつて、私はとても裕福な家に育ちました。 今思えば、とても幸せなことでした。 年頃に、両親が選んだお相手も、申し分のない方でした。 しかし私には、好きな人がおりました。 そう、私の家で働いていていた彼です。 彼との間に、子どもを身籠ってしまいました。 若気の至りというのでしょう。 許されぬ恋に燃え、駆け落ちをした私たちは、遠い町で暮らしを始めました。 出産が間近になった頃、ふと思い出しました。 子どもは実家で産まなければならないという、私の国の習慣を。 「実家で子どもを産みたい」と告げる私に、夫は怖れました。 でも私は、実家へと戻る旅を始めました。 夫もしぶしぶ後を追ってきましたが、旅の途中で陣痛があり、そこで子どもを産みました。 そして、私たちは実家に帰らずに、自分たちの家に引き返す事を決めました。 数年後、また私は子どもを授かりました。 そして、家族で実家に向かうことにしました。 旅の途中、激しい嵐の日、また陣痛がはじまったのです。 私が横たわっている間に夫は、雨をしのぐ覆いにする枝を集めるために森へ行きました。 けれども、夫はそこで、毒蛇にかまれ死にました。 子どもは無事生まれました。 途方にくれた私は、赤ちゃんを抱き、もうひとりの子の手を引いて、実家を目指すことにしました。 強い雨の続くある日、洪水で水かさの増した河を渡らなければなりませんでした。 でも、私には一度にふたりの子どもを運ぶことはできませんでした。 私は上の子を河岸に残すと、まず、赤ちゃんを抱いて対岸に渡りました。 川を渡り切り、大切な赤ちゃんを地面に置いた時、大きな鷹が赤ちゃんに襲いかかってきたのです。 私は、大声を出して追い払いました。 その様子を見た対岸で待っていた上の子は、私が呼んでいると思ったのでしょう。 なんと、河に飛び込んだのです。 驚いた私も、その子を救おうと飛び込みました。 しかし、上の子は急流に流されて溺れてしまったのです。 そして、私が岸に上がった時、鷹が赤ちゃんを連れ去る姿を見ました。 私は、ただ歩きました。 夫を、かわいい子供を、赤ちゃんを思って、歩きました。 父を、母を思って歩きました。 故郷の町はずれで、ある男に、私の実家について尋ねました。 彼は言いました。 「その家については、聞かないでくれ。」 問い詰めた私に、男が答えました。 昨晩のひどい嵐が私の実家を壊し、その家の者たちが全て亡くなったと言うのです。 「全てを失くした」と思った時、私は気を失いました。 それ以後のことは、全く覚えておりません。 泣きながら地面をのたうち回り、人を見れば悪態をつき、絡み、暴れ・・・ ある日、町の人々が、暴れる私を押さえつけるようにお釈迦さまのところへ連れて行きました。 お釈迦さまは、私の目をしっかりと見つめ、こうおっしゃいました。 「涙・・・大海の水ほどの悲しみの涙」 首をかしげる私に、お釈迦様は示されました。 「この世は、無常であります。みんな移り変わっていく。 私たちが生きるということは、大海の水ほどの悲しみの涙を流すことでもあります。 あなたの悲しみは、あなただけのものではない。 人として生まれてきた以上、避けてとおることはできないものなのです。 だからこそ私たちは、決して無くならないもの、誰からも奪われないもの・・・ 真実なるものを求めなければならない」 私は頭を剃り、お釈迦さまの弟子となりました。 今思えば・・・そう、その時には思えなかったけれど・・・ 今、思えば・・・窮することは、決して悪いことでなかった。 「よくある話」だと、笑われるかもしれませんが、本当にあったのです。 私たちは、苦しく辛い状況を、早く解決したいと願うものですが・・・ 苦しい気持ちこそが懺悔であり、解決であると思い定めることも必要ではないかと思います。 それは、決して独りよがりの判断ではなく、また、安易な道でもありません。 というのも、その状況が真実なるものに導いてくれることもあるからです。 だから、あなたの胸の痛みを大切にしてください。 そして、これ以上、御自身を責めないでください。
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9月 19日 彼岸到

彼岸には、 布施   <分け合う事> 持戒   <慎む事> 忍辱   <忍ぶ事> 精進   <努力する事> 禅定   <心を静める事> 智慧   <学ぶ事> を実践していくことによって、迷いのこの岸から悟りの彼の岸に渡るという意味があります。 けれども禅では、もっと深く彼岸を受けとめます。 それは、迷いと思っているこの岸こそが、悟りの彼の岸でもあるのだよ、という事であります。 つまり、遠くの彼の岸を見て、足元を忘れちゃいけないよ、というのです。 この岸、つまり、「今・ここ」を大切にする歩みを深めることで、この岸も彼の岸もないというへだてのない世界、つまり、ひとつながりの世界に気付く、それが禅であります。 たとえば、私たちには夢や目標があります。その夢や目標に向かって計画を立てて実行していく。夢が叶えば、当然嬉しい。 けれども、挫折や失敗することもあります。そんな時、私たちは言い訳をしたり、人のせいにしたりする癖が出てしまいがちです。 でも実は、夢に向かって歩いているその歩みこそが、夢の達成であり、夢が叶ったその瞬間と同じくらい大切なはずなのです。そう言える視点、ものの見方が禅なのであります。 遠くの結果を見つめるのではなく、今・ここの足元を大切にする歩み。 そこに必ず、穏やかな心持ちと生きる勇気が現れてきます。 彼の岸と此の岸は離れていない。ひとつながりであります。 ここをしっかりと受け止めて、互いに歩みを深めてまいりましょう。
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9月 15日 万福

今日、高校からの友人が結婚をする。 結婚式から出席してくれと、招待状が届いた。 品川の高輪教会。 「スーツ持ってないけど?」と聞けば、「知っとるわ。それで、ええよ」と笑った。 高校を卒業して、およそ20年。 変わったものと、変えられなかったものがある。 変えれなかったせいで、あがきもがいた。 変えれなかったおかげで、今朝を迎えることができた。 そう、いつまでも生きれるわけじゃない。 だからこそ、よろずのこと全て福なり、と心得たい。 img0024.jpg 「結婚、おめでとう」 「幸せに」
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8月 28日 常不軽菩薩

比丘はただ万事は要らず 常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける     良寛 法要が得意でなくてもいい。 法話が上手でなくてもいい。 衣やお袈裟の色を心配しなくてもいい。 でも、常不軽菩薩に憧れる心を忘れてはだめだよ、と良寛さんは示された。 常不軽菩薩は誰に対しても、手をあわせ礼拝した。 「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。 所以は如何、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。 ・・・私は、あなたを敬います。 たとえ、周囲の人々が、あなたを非難し、あなたを蔑もうとも。 たとえ、苦しむ者をみて笑ったり、平気で物を盗んだり、自分のことしか好きになれないあなたであっても。 たとえ、信じたものに裏切られ、人生に失望し、自分自身を信じられなくなったとしても。 なぜならば、あなたは今、成仏道の過程を歩まれているのですから・・・」 そう、拝むとは、ふたつのものが一つになる事。 常不軽菩薩は、会う人に手をあわせ、礼拝をした。 でも、時節至らぬ者は・・・礼拝する彼に、罵詈雑言をあびせ、石を投げつけ、杖で打ったという。 指さして笑われる彼は、それでも、礼拝を繰り返した。 比丘はただ万事は要らず 常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける     良寛
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7月 28日 調える

中田英寿さんと坐禅をしました。 彼は47都道府県をめぐり、自分の立脚点、つまり、日本人としての在り方、この国の成り立ちの根源を探る旅をしておられます。 nakata.netにあるReVALUE NIPPON 日本の文化をめぐる旅 神奈川県の寺社仏閣をご覧ください。 ・・・旅を終えた時、彼が何を発信するのか楽しみです。 <記事の補足> 心を調えると聞くと、頭でいろいろと考えてしまうけれども・・・ 坐禅は、身体でもって心を調えるのです。 頭の中で、あれこれ考えて心を調えるのではありません。 身体を真っ直ぐにすれば、自ずから深い呼吸ができてきます。それに応じて、心が調うのです。 心が調うというのは、整理整頓の整と書いて整うではありません。 調和の調、と書いて調うのです。 不安や恐怖、疑問や煩悶に対して、一つ一つ回答を与えていくのでははなく、問いをそのままを全部受け入れる。 そして、その問いを持ち続ける勇気を養う。 それが、調うであります。
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