大童法慧 | 僧侶的 いま・ここ
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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12月 15日 人形供養会

12月23日に人形供養会が行われます。 このブログが機縁となり、私が導師を勤めさせていただきます。 ご供養のあと、「供養」とは何か、についてお話させていただきたいと考えております。 年の瀬を迎え、お忙しいことと思いますが、どうぞお越しください。 =================…

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12月 09日 言の葉  〔1〕

我に似たれば 非をも是と為し 我に異なれば 是をも非と為し 是非は始めより己にあり 道は其れ是くの如くにならず 良寛 ・・・他人のせいにしていないか。 ・・・己を高しとしていないだろうか。     MEMO 夫れ人の世に在るは、 草木の参差たるが如し、 共に一…

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12月 07日 愛語

由乃さんからコメントを頂きました。 教えてください 言葉を選ばないがゆえに人を傷つけて(あるいは、あえて傷つける言葉を選び)、その傷つけられた人が「あなたの言葉で傷ついた」と伝えてきたら、それに対して「受け取る側の問題、あなたの意識の“低さ”が問題なのだ」と言い放つことは、はたして仏様のおっしゃるところの「自由」なのでしょうか。 >受け取る側の問題、あなたの意識の“低さ”が問題なのだ この言葉そのものに、良し悪しはありません。あなたとAさんの関係がどのようなものであるか、それが、問題となるでしょう。 と、お答えしましたが補足いたします。 何かの指針となれば、と願っております。 以下は、『修証義』というお経にあります。 【原文】 愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語<ごんご>を施すなり、 慈念衆生猶如赤子 <じねんしゅじょうゆうにょしゃくし>の懐<おも>いを貯えて言語するは愛語なり、 徳あるは讃<ほ>むべし、徳なきは憐れむべし、 怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、 面 <むか>いて愛語を聞くは面 <おもて>を喜ばしめ、心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、 愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。 【意訳】 愛語というのは、どんな人に対してもまず慈しみのこころを起こし、思いやりの言葉をかけてあげることです。 生きとし生ける者を慈しむという事は、例えば、赤ちゃんを思う母親のように、いっときも念頭から離さずに言葉をかけるのが愛語なのです。 善き行いの人を見ればほめたたえ、さらに精進できるようにしてあげなさい。悪しき行いの人には、非難したり咎めたりせずに憐れみの心で言葉をかけなさい。 自分を恨み憎んでいるような相手であっても、その憎しみを消し去り、あるいは権力者同士を仲直りさせるにも慈愛の言葉を根本とするのです。 面と向かって愛語を聞けば思わず顔がほころび、心を楽しくしてくれるものです。また、人づてに愛語を伝え聞くときには、その言葉は心に響き、感動して忘れられないものです。 愛語には天子の御心をも動かす力があることをよくよく肝に銘じ学ばなくてはなりません。 言の葉が言葉になり、相手に届く世界がある。 その言葉が愛語となり、相手に響く世界がある。 そして、愛語が廻天の力を持ち、自他のない不二の世界が現れる。 この不二の世界こそ、仏様の言うところの「自由」の世界です。 相手の事を我が事とし、本当に親身になり、ひとつとなって言う言葉のところに、真実があると思うのです。 馬鹿野郎という言葉そのものに、善悪や好し悪しはありません。 この言葉が、時として最高の褒め言葉にもなり、時として最大の侮辱の言葉にもなるという事。 その判断は、もう、お分かりですね。 仏様のいうところの「自由」の世界。 それは、そんなに遠くにはないはずだと思うのです。
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12月 06日 臘八接心・成道会

臘八接心<ろうはつせっしん、と読みます。> 成道会<じょうどうえ、と読みます。> 臘月とは、師走のこと。 臘八とは12月8日のこと。 禅の修行道場では、12月1日から8日朝までを一日とみなし、不眠不休の坐禅を行ないます。これを臘八接心といいます。 これは、お釈迦様が長い苦行の末、菩提樹下で数日間、昼夜を問わず坐禅され、12月8日朝の暁けの明星をご覧になって成道されたことにならって行なうものです。 12月8日には、「出山の釈迦」を本堂にお奉りし、お釈迦様の成道を記念した成道会という報恩の法要をお勤めします。 クリスマスもいいけれど、 お近くのお寺の成道会にお参りになってはいかがでしょうか。
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12月 03日 なぜ、殺す

栃木で行方不明になった女児が、茨城で死体で発見されたという。 広島では、ダンボールに入れられ、奈良では昨年、その顔をメールで親に送りつけた。 なぜ、殺すのだ。 何故、殺さなければならないのだ。 亡くなった子供たちは、深い絶望と恐怖を押し付けられた。 残された親や親族は、抱えきれな…

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12月 01日 みかえり阿弥陀如来

みかえり阿弥陀如来様をご存知ですか? 京都の東山、禅林寺様。通称、永観堂。浄土宗西山禅林寺派。 私も寡聞にして知りませんでした。 京都の夜を散策していたところ、もみじをライトアップしてたいへん綺麗だと聞き、先日、初めて立ち寄りました。 そのお寺のご本尊様が、みかえり阿弥陀如来様。…

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11月 29日 入檀式

ご縁あって、本年、新しくお檀家になられた方々にお集まりいただき、入檀式を執り行いました。 入檀式とは、お檀家になるにあたって、お寺の宗旨や歴史を理解していただくお式の事。 現状、あまりこのような事をしているお寺はあまり無いようですし、私のお寺でも今年より始めることにしました。 少しでも、お寺とのご縁が深くなればと思いから試みましたが、幸いな事に、案内した全てのお檀家さんに来寺いただきました。 差定 一、授戒 二、輪袈裟授与 三、本尊上供 四、全員焼香 五、諸堂案内 六、茶話会 授戒は戒名の授与はせずに、総授戒の形で。 諸堂案内といっても小さなお寺ですから・・・仏様の説明など。 葬儀を通じてお檀家になる方が多いですが、葬儀や法事のつながりだけでなく、同じ道を歩む者として、共に成長していけたらと願っております。 同じ道、それは、成佛道。
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11月 23日 宗教以前か?

会津藩には幼年者教育のために、「什の掟」というものがありました。 一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ 二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ 三、虚言を言うことはなりませぬ 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ 五、弱いものをいじめてはなりませぬ 六、戸外で物を食べてはなりませぬ 七、戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ ならぬことはならぬものです 藩校に上がる前の6歳から9歳位の子供らが集まり、毎日、この掟を確認し、自分の行為を点検していたそうです。 当時は封建社会であり、現代とはその思想に、隔世の感があります。 しかし、その精神のあり方は、現代こそ、見直す必要があると思うのです。その精神の在り方を・・・。 昨今の報道を見聞きするにつけ、私は、ある言葉が頭から離れません。 その言葉とは、私利私欲。 現れた形は異なるけれども、全部、私利私欲じゃないかって。 自由と権利ばかりを主張し、人生の勝ち負けをお金の多寡だけで決め、 恥を知る心も忘れ、ただ、私利私欲を満たす事のみ。 仏教は道徳ではありません 仏教は倫理ではありません。 仏教は生活哲学ではありません。 しかし、今日は敢えて、「什の掟」を取り上げました。 「什の掟」は儒教の教え、孔子先生の教えです。 幼い頃に片言の英語を学んで国際感覚を養うよりも、まず、人間としての身だしなみを教える事が大切なのではないでしょうか?
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11月 19日 祥月命日

祥月とは、亡くなった月の事。 命日とは、亡くなった日の事。 祥月命日は、年に一度の大切な日。 亡くなった日を、西洋では、死亡日や追憶の日と言う。 しかし、仏教では、命日。 その人の命の日として受け止める。 その日まで頑張って生きてきたのだ、と受け止める。 友亡きを 友として飲む 酒やよし
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11月 15日 時の共時性について

皆さん、こんにちは。私は法慧と申します。 今日は11月15日、ずいぶんと、寒くなりましたね。 本山も、紅葉や銀杏が色づきまいして、とても綺麗なんですよ。 ところで、あと、2日すれば、11月17日。 皆さん、この日は何の日だかご存知でしょうか? 実は・・・私の誕生日なんです。 私はいくつに見えますか? そう、見ての通り、18歳です。気持ちは、18歳です。 頭の中も、ものの考え方も、おそらく、18歳の時から変わってないような気もしてます。 先日、5日ばかり、本山に休みを申請しまして、東北地方に行ってきました。仙台と山形。山形は、友人の結婚式でした。 結婚式は、新郎新婦ともに、27歳。 私は、2日後に30歳ですから、順番で言えば、私の方が先のはずなんですけども、ご縁がないのか、面食いが仇なのか・・・。 皆さんは、仏前結婚式をご存知でしょうか? 私も、今回はじめて、見てまいりました。 新郎はお坊さんの格好、新婦は白無垢の角隠し。 まぁ、いくら白いのを着たって、過去まで白くなるはずもありませんし、角を隠すということは、裏返して言えば、角がありますよって事ですよね。 その新郎新婦、ご詠歌で入場し、お決まりの三々九度。そして、二人でお数珠の交換をして、ご本尊様に、このように、誓いの言葉を述べました。 「幾千年の時の流れの中で、同じ時代に生まれ、ふたり巡り合い、ひかれ、愛し合えた事の喜びを忘れることなく、これからの、日々を過ごしてまいります。」 どうでしょうか?皆さん。 はるか昔から、果て無き未来の時の流れの中で、出会えた喜びを忘れない、と、この二人は、誓ったのです。 しかし、考えて見ますと、この喜びは、なにも、愛し合う二人のみに与えられたものでは、ないはずです。 この喜びは、ここにもあります。 つまり、今日、皆さんと私が、今、こうしてお会いしている事も、実は、幾千年の時の流れの、この今に、お会いしているのですから。 こう思いますと、この今というものは、たいへんな事ですよね。 例えば、皆さんも、このホームで一緒に暮らされていますが、この今に集まるのは、よほどのご縁がなければならなかったはずです。 この今に、こうして集えるご縁。 このご縁に手を合わすことができれば、自分の周りにいる人々を、取り巻く環境を大切にしないではおられないはずです。 人間は、人を愛する事ができると同時に、人を憎む事もできます。 好きだ嫌いだ、惚れたはれた、恋だ愛だと。 その場だけの感情だけに振り回されて、一番大切な出会いの意味、ご縁の深さを忘れてはもったいないと思うのです。 あの新郎新婦、結婚したとはいえ、これから、罵り合ったり、喧嘩もするでしょう。顔も見たくないと、言い出すかもしれません。 しかし、そんな時にこそ、出発点である、出会いの意味を思い起こせれば、例え、違う道を歩む結果となったとしても、お互いを尊重する事ができるでしょう。 道元禅師は、 「徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし」と申されておられます。 人と喧嘩したり、人を嫌ったりするのは、簡単です。 大切な事は、相手を憎むのでなく、憐れむこと。つまり、あなたが、仏様の心になって、慈しむのです。 出会いの意味に気付き、それを忘れなければ、毎日が喜びとなって現れてくるでしょう。いま・ここを大切にできる人となるでしょう。 平成11年11月 老人ホームにて
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