大童法慧 | 禅語・仏教語・言の葉
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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12月 31日 老い

「私はもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。 譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ」   『ブッダ最後の旅』 白い頭 遠くなった耳 若くない身体 私を育ててくれた元気な頃の親の今の姿 改めて思う 自らの命を削って 我が子を育てたのだ、と 生意気な学生の頃 親を鬱陶しいと想った自分がいた 自らの人生の折り返し地点を過ぎた今 悔悟と時間の優しさを痛切に感じる 懐かしく暖かな日々 穏やかで緩やかな時 宝物のような故郷
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9月 06日 木版

私が修行した道場では、夜の坐禅の終わりに、木版が鳴りました。 古参の僧が木版を打ちながら、「生死事大 無常迅速 各宣醒覚 慎莫放逸」と、禅堂に坐る者たちに低い声で朗々と告げます。 静寂の中、木版を叩く音が身体に染み込み、その声が身体に響き渡ります。 生死は事大にして、無常は迅速なり 各々宜しく醒覚すべし 慎んで放逸すること莫れ 一日が過ぎるのは早いから気をつけなさい、という警告ではありません。 時間が私たちの上を走り去っているのではないのです。 そう、私たち自身が過ぎ去っている。 だからこそ、この人生を放逸に過ごしてはならないのです。 あんなに暑かった夏も終わりました。 私たちの夏も過ぎ去りました。 人生を愛おしむ互いでありたいと願います。
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6月 18日 諸悪莫作

諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。 諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現ず。 『正法眼蔵』「諸悪莫作」 「悪い事をするなよ」と教えられ、学ぶなかから、やがて、「悪い事を行わない」という心が育つ。 その心とそれを支える出来事や周囲の心があいまって、「悪いことをしようとしても、悪いことをすることができない」という自分が現れる。 私たちの心は育ち、深めることができる。 だから、学ぶこと、即ち、学ぶために師を持つことがとても大切なのです。
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3月 07日 組織

思い通りにいかないと、イラつく自分がいます。 評価が足りないと、愚痴を言う自分がいます。 上手く渡る人を見て、嫉妬する自分がいます。 上司が「アホだ」と罵り、部下が「動かない」と嘆いても・・・ 心は、決して晴れはしない。 男の修行  山本五十六 苦しいこともあるだろう 云い度いこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣き度いこともあるだろう これらをじつとこらえてゆくのが 男の修行である 他の過ちを見るなかれ 他のなさざるを責むるなかれ おのが、何を、如何に作せしかを、みずからに問うべし 『法句経』
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2月 21日 看脚下

ああなりたい自分、こうなりたい自分を思い描いて、そこに歩みを進めている私たちです。 でも、ともすれば、そちらの方に重心がかかっていませんか。 もし、そうだとするのならば、ああなりたい自分が遠ざかってしまうと思うのです。 なぜか。 「いま・ここ」を蔑ろにしては、未来は、それに応じたものになってしまう。 だからこそ、看脚下<かんきゃっか>。 そう、重心を「いま・ここ」に置く。
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1月 02日 真実担道の人

路遠くして馬の力を知り、事久しくして人の心を見る。 佛道は順逆の中に長遠の志を堅持するを、真実担道の人というなり。 『大智禅師仮名法語』 年の初めに、幸せを祈り、手をあわす。 でも、祈りの前に、感謝の念がなければ、その祈りは届かない。 感謝の念、それは、すべてを肯定することからはじまる。 全てを肯定する。 共に、真実を担う人でありたいと願います。
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11月 28日 没可把

没可把<もっかは> 何かをつかまえようとすればするほど、逃げていく。 ああでないか、こうでないかと考えれば考えるほど、遠ざかっていく。 かといって、不貞寝していては、話にならない。 明治十一年、大本山永平寺二祖 孤雲懐弉禅師六百回大遠忌での逸話。 修行僧や随喜の御寺院が問答をかけてくるのに、受ける小参師は、45歳頃の森田悟由禅師。 はじめの僧の、「如何なるか、是れ仏」との問いに、悟由禅師は「没可把」と答えた。 次の僧の、「如何なるか、祖師西来意」の問いにも、悟由禅師は「没可把」と答えた。 次々の問答、全て、悟由禅師は「没可把」と答えた。 そして、最後の問答の時、ある僧が有無を言わず、禅師につかみかかった。 悟由禅師は静かに微笑んで、「没可把」と答えたのみ。 その僧は力にまかせて、悟由禅師を引きづり倒そうとしたけれども・・・ 泰然として動かぬ悟由禅師に、恐れをなして逃げたという。 没可把   つかむなよ 没可把   つかまないこともつかむなよ 没可把
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9月 15日 万福

今日、高校からの友人が結婚をする。 結婚式から出席してくれと、招待状が届いた。 品川の高輪教会。 「スーツ持ってないけど?」と聞けば、「知っとるわ。それで、ええよ」と笑った。 高校を卒業して、およそ20年。 変わったものと、変えられなかったものがある。 変えれなかったせいで、あがきもがいた。 変えれなかったおかげで、今朝を迎えることができた。 そう、いつまでも生きれるわけじゃない。 だからこそ、よろずのこと全て福なり、と心得たい。 img0024.jpg 「結婚、おめでとう」 「幸せに」
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8月 28日 常不軽菩薩

比丘はただ万事は要らず 常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける     良寛 法要が得意でなくてもいい。 法話が上手でなくてもいい。 衣やお袈裟の色を心配しなくてもいい。 でも、常不軽菩薩に憧れる心を忘れてはだめだよ、と良寛さんは示された。 常不軽菩薩は誰に対しても、手をあわせ礼拝した。 「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。 所以は如何、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし。 ・・・私は、あなたを敬います。 たとえ、周囲の人々が、あなたを非難し、あなたを蔑もうとも。 たとえ、苦しむ者をみて笑ったり、平気で物を盗んだり、自分のことしか好きになれないあなたであっても。 たとえ、信じたものに裏切られ、人生に失望し、自分自身を信じられなくなったとしても。 なぜならば、あなたは今、成仏道の過程を歩まれているのですから・・・」 そう、拝むとは、ふたつのものが一つになる事。 常不軽菩薩は、会う人に手をあわせ、礼拝をした。 でも、時節至らぬ者は・・・礼拝する彼に、罵詈雑言をあびせ、石を投げつけ、杖で打ったという。 指さして笑われる彼は、それでも、礼拝を繰り返した。 比丘はただ万事は要らず 常不軽菩薩の行ぞ殊勝なりける     良寛
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7月 04日 満目青山

拙著『運を活きる』にサインをと、声をかけてくれる方に、「満目青山」と書かせていただいております。 私の網代笠の裏側には、「満目青山」と記してあります。 湛玄老師に書いていただいたものです。 目に青山が満つとは、どういうことなのでしょうか。 ・・・そう、私たちは、瞳ひとつに、全世界を納めることができるのです。 全世界と全く離れていない私たちなのです。 私たちの耳や鼻は、全世界を聴くことができる。 私たちの口は、全世界を飲み込み、吐き出すこともできる。 そして、私たちの心は、全世界を巡ることもできるのです。 つまり、ひとつながりの世界。 衆生縁を結ぶ願いのもと、応量器を掲げ歩いた日々 照りつける太陽 乾いた道 滴る汗 空いたマーガリンの箱に玄米ごはんと沢庵をつめたお弁当 網代笠を置き、草鞋を脱ぎ・・・海に飛び込んだあの日。 ・・・そんな日々のことを懐かしく思いながら、焦がれながら、「満目青山」と書いております。
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