大童法慧 | 絵本で学ぶメメント・モリ ~禅のものの見方を交えて~ 冒頭部抄
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
17157
post-template-default,single,single-post,postid-17157,single-format-standard,ajax_fade,page_not_loaded,,vertical_menu_enabled,side_area_uncovered_from_content,qode-child-theme-ver-1.0.0,qode-theme-ver-7.2,wpb-js-composer js-comp-ver-5.0.1,vc_responsive
 


6月 30日 絵本で学ぶメメント・モリ ~禅のものの見方を交えて~ 冒頭部抄

いかがでしたでしょうか。
軽く悟りを開かれた方はいらっしゃいますか。坐禅をして、スカッとしたな、心のわだかまりが解き放たれたな、と思った方はいますか。

 

 

おそらくほとんどの方は、様々な事が浮かんで来て、あれこれと考える時間になったのではないのでしょうか。
思い浮かんできたことを、相手にしない、邪魔にもしないはずの坐禅の時間が、思い浮かんできたことや抱えている問題にがっぷり四つに組んで、頭の中で、心の中で解決しようと試みたのではないだろうか。

 

 

でも、それでいいのです。
なぜならば、そのような時間が、今のあなたには必要だったからです。そんな時間を過ごすことで、その時間分だけの思いを手放すことができたと思ってください。

 

 

坐禅会に参加する人たちのなかには、過度に期待してしまう人もいます。
坐禅や修行をすることで、心に落ち着きを得たいとか、素晴らしいものを手にしたいとか、何か特別なものになれるのではないかとか、と。

 

 

そんなふうな人たちの多くは、心の落ち着きを得る前に坐禅から遠ざかっていきます。
坐禅会に数回来たら、自分には合わないと思ってしまう。決断の早い方ならば、1回の体験で、もう坐禅をしても仕方がないと思ってしまう。

 

 

じゃあ、なぜ、そうなるのだろうか。
それは、、、自分の都合で、結果を求め逸るからです。

 

こんなところにも、顔をだしてしまうのですね。
自分の都合のいいように考える癖が。

 

 

現代の日本人は、知識、知性が全てです。
知識を蓄え、知性を磨けば苦しみがなくなる、もしくは、問題が解決するというような風潮です。
たしかに、そんな一面もあるのでしょう。

 

 

でも、知識や知性だけでは届かない世界もある。
例えば、それは、メメント・モリを語るのであるのならば、自分の都合ではなく、命への信頼、大いなるものへの気づきがなければならないのではないだろうか。

 

以下略

 

 


コメントはありません

コメントを残す