大童法慧 | 「他者の苦悩に共感する」とは
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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2月 17日 「他者の苦悩に共感する」とは

「他者の苦難に共感する」とはどういうことかという問いに対し、私は『妙法蓮華経』「如来寿量品」良医病子の喩にある言葉、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」に答えがあると思います。

これは、あなたのその悲しみが、あなたをして必ず真実なるものに導くという意味です。ただしそのためには、その悲しみを抱き続けなければならないとします。これは一見、突き放したような物の言い方のように感じるやもしれませんが、自己と他者の課題を分けながら、横の関係の視点を持ち続ける大切さを現している言葉だと理解するからです。
かの大震災以来、優しいイメージを持つ「絆」という言葉を旗印に、他者に寄り添う、他者の苦難に共感するということが容易く発信されていることにいささかの違和感があります。方向性としてはいい、言葉としては受けいれやすい、でも、苦難の原点は思い通りにならないことにあります。

昨年の10月に、私はとてもつらい御葬儀をいたしました。故人様は、36歳の奥様でした。ご主人と受験を控えた中学校3年生と中学校2年生の年子の兄弟を遺しての旅立ちでした。伺えば、奥様は昨年の正月頃から胃が痛いと訴えていたそうです。けれども、病院には行かずに、市販の胃薬を飲んでいた。4月中旬、家族で東京ドームに行った日、「お腹がすいたから、お弁当を食べよう」と弁当を広げた時、奥様が呟いたそうです。「お腹がすいているのだけれども、なんだか食べる事ができない」
その時はじめて、これはおかしいと家族の誰もが思った。翌日病院で検査の結果は、癌が進行し、もってあと半年との宣告であったそうです。出棺の際の御主人のお言葉に、私も思わず涙いたしました。御主人はお位牌を力いっぱいに握りしめながら、絞り出すような声でこう仰いました。
「なぜ妻がこんな目にあわなければならないのですか。一生懸命生きてきて、優しい妻だった。それが、なぜこんな目に遭わなければならないのか解らない。誰か教えてください」
この問いへ、他者が答えるのは難しいことです。自分自身を納得させることはできても、今、この御主人に納得していただけるような答えは、だれも持たないでしょう。この苦難に共感するとは、簡単に言えるものではありません。
しかし、精進落としの席で「いまは悔しいけれど、時間が忘れさせてくれるよ」の言葉を耳にした時、今、私が僧侶として伝えなければならないことはこれだと確信しました。
時薬、日薬という言葉があるように時間が悲しみを癒すとも言われますが、その一方で、時間がたってから一気に悲しみに沈んでしまう方がいるなかで、悲しみを乗り越えるとか、悲しみから立ち直るという言葉は、本当はそぐわないと思います。
すなわち、寄り添うとはただその場にいることではなく、他者の悲しみや苦しみという言葉を借りた自らの煩悩に向き合う努力を意味し、共感とはただ頷くことではなく、他者と自らの埋まらない違いに戸惑いながらも、共に明るい方向へと進む意思だということ。
ですから、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」悲しみは抱き続ける智慧と勇気を持つことが大切であり、自分自身の学習と訓練、智慧と勇気を深め、「だけど、生きる」「だけれども、生きる」の視点を共有すること、それが他者の苦難を共感することにつながるのではないかと考えます。


MEMO
1、  「他者の苦難に共感する」とはどういうことか   1600字


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