大童法慧 | ありがとう
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
15331
post-template-default,single,single-post,postid-15331,single-format-standard,ajax_fade,page_not_loaded,,vertical_menu_enabled,side_area_uncovered_from_content,qode-child-theme-ver-1.0.0,qode-theme-ver-7.2,wpb-js-composer js-comp-ver-5.0.1,vc_responsive
 


11月 25日 ありがとう

お釈迦さまがあるとき、弟子の阿難に尋ねました。
「あなたは、人間に生まれたことをどのように思っていますか?」
すかさず、阿難は応えました。「はい。とても喜んでおります」
あなたは、人間に生まれたことを喜んでいますか。
実は、ここが私たちの出発点なんです。人間に生まれたことを喜ぶ視点。
人間に生まれたことをいじけたり、恨んだりしていても、私たちの人生ははじまらない。
お釈迦さまが、また、重ねて尋ねます。「では、あなたは人間に生まれたことをどのくらい喜んでおりますか?」
すると、阿難は答えに窮してしまいます。
たしかに、人間に生まれたのは喜んではいるけれども、どのくらい喜んでいるのかと言われたら、、、考えてしまいます。
私たちの人生、一日を振り返れば、いいことばかりではない。
時には、「ああ、もう何もかも嫌になった」という日もあれば、お酒を浴びるように飲まなきゃおさまらない日もあります。
答えに窮した阿難をみて、お釈迦さまは、「盲亀浮木の譬」と伝えられている話をされました。
「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいた。
その亀は、100年に1度、海面に、ぽっと顔を出すという。
ある日、その広い海には1本の丸太棒が、波に揺られ浮いていた。
その丸太棒の真ん中には、小さな穴があいていた」
広い海、100年に一度浮かび上がる目の見えない亀、漂う小さな穴のあいた丸太棒。
ここで、お釈迦様は仰います。
「阿難よ。 100年に1度浮かびあがるその目の見えない亀が、 浮かび上がった拍子に、丸太棒の穴にひょいっと頭を入れることが有ると思うか?」
阿難は驚いて答えます。
「お釈迦さま、そんなことは、とてもありえません」
すると、お釈迦様は間髪いれずに仰った。
「お前さん、絶対にない、と本当に言い切れるか?」
迷いながら、阿難は答えました。
「いえ、もしかしたら、もしかしたら、万が一、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、でも、それは、やはり、絶対にない、と言ってもいいくらいありえないと思います」
すると、お釈迦さまはこうお示しになられたというのです。
「阿難さんよ、私たちが人間に生まれることは、実はその亀が、丸太棒の穴に首を入れることよりも難しいことなんだ。
そのくらい、私たちの命が、今・ここにあるのは、有難いことなんだよ」
命の有難さを体感し、実感した言葉が、「ありがとう」
「今生きていること」、それは、とて有り難いこと。
条件なしに、有り難いこと。
だからこそ、有り難いこの命を喜ぶ、楽しむ、使う。
「私たちの命は有難いものだ」と心底思うところから伝える言葉、それが、ありがとうなのです。


MEMO
1、「ありがとう」「生かされている」「おかげさまで」
2、「ようこそ、ようこそ」
3、山村暮鳥 詩集『雲』
病牀の詩
朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて
ああ、勿體なし
そのひとつびとつよ
おなじく
よくよくみると
その瞳めの中には
黄金きんの小さな阿彌陀樣が
ちらちらうつつてゐるやうだ
玲子よ
千草よ
とうちやんと呼んでくれるか
自分は耻ぢる
おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
けさもまた粥をいただき
朝顏の花をながめる
妻よ
生きながらへねばならぬことを
自分ははつきりとおもふ
おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
森閑として
こぼれる松の葉
くもの巣にひつかかつた
その一つ二つよ
おなじく
ああ、もつたいなし
かうして生きてゐることの
松風よ
まひるの月よ
おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
蟋蟀きりぎりすよ
おまへまで
ねむらないで この夜ふけを
わたしのために啼いてゐてくれるのか
おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
かうして
寢ながらにして
月をみるとは
おなじく
ああ、もつたいなし
もつたいなし
妻よ
びんばふだからこそ
こんないい月もみられる


コメントはありません

コメントを残す