大童法慧 | 満月の夜の坐禅会11月23日講話 抄
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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12月 01日 満月の夜の坐禅会11月23日講話 抄

今日は、この坐禅会にわざわざ東京から、また、仙台からお越しいただいた方がいらっしゃいますので、正法眼蔵随聞記巻3-20の後段を採り上げます。

 

言の葉3をご覧ください。
これを見ただけで、心が折れそうになる方もいらっしゃるかもしれませんが、区切りながら解説します。
読んでみれば、たいして難しいことは書いていません。

 

 

又云、我、大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二更の三点まで坐禅し、暁は四更の、二点三点より、おきて坐禅す。長老ともに、僧堂裏坐。一夜も闕怠なし。其間、衆僧多く眠る。長老巡行、睡眠する僧をば、或いは拳を以て打、或はくつをぬひで打、耻しめ勧めて、睡ヲ覚ス。

 

 

これは、道元禅師が中国の天童山でご修行をなさっていた時の話であります。
道元禅師の師である如浄禅師が住職をおつとめをしていた頃、そのお寺では、夜は1時過ぎまで坐禅をし、夜明けは3時前から起きて坐禅をしていました。
如浄禅師は、修行僧とともに一夜も欠けることなく坐禅をなさりました。
でも、多くの修行僧は、疲れから坐禅中につい眠ってしまいます。すると如浄禅師は、居眠りする修行僧を片っぱしからぶん殴ったり靴を脱いで打ちすえたりして、坐禅中に眠らないよう励まし続けたのであります。
今の時代、こんな指導法をしていると、暴力だ、体罰だとすぐに問題視をされてしまいますが、、、まぁ、続けて声に出しましょう。

 

 

猶、睡時は、照堂ニ行キ、鐘ヲ打チ、行者ヲ召シテ蝋燭ヲ燃シなんどして、卒時に普説して云、僧堂裏にあつまり居して、徒に眠りて何の用ぞ。然ば何ぞ、出家入叢林する。見ずや、世間の帝王官人、何人か身をやすくする。王道を収め、忠節を尽し、乃至庶民は、田を開き、鍬をとるまでも、何人か身をやすくして、世をすごす。是をのがれて、叢林に入て、虚く時光を過す。畢竟じて何の用ぞ。

 

 

それでも、まだ眠ってしまう修行僧が多い時には、如浄禅師は鐘を打ち鳴らして、灯りをつけ、ご説法をなさいました。
そして、激しい口調で修行僧たちにお示しなられたのです。
あなたがたは、折角、この道場にきたのに、折角、御縁が叶って坐禅と巡り逢ったのに、眠ってしまって何になるのか。なにゆえに、あなたがたは、世間を捨てて出家し、禅の道場に入ったのか。
世間の帝王や役人は、だれが安穏として暮らしているだろうか。政務を努めて国を治め、役人は忠義を尽くし、また庶民は田畑を耕し、鍬鋤を取って働いている。誰が楽をして生きているだろうか。
その世間の在り様から逃れ、この修行道場に入って、眠りこけて時間を過ごしていて、結局何になるのか。

 

 

生死事大也、無常迅速也。教家も禅家も同すすむ。今夕明旦、何なる死をか受け、何なる病をかせん。且く存ずる程、仏法を行ぜず、眠臥して、虚く時ヲ過ス。尤愚也。故に仏法わ衰え去也。諸方仏法の、さかりなりし時は、叢林皆坐禅を専にせり。近代諸方坐をすすめざれば仏法墝薄しもてゆくなり。是ノ如キノ道理を以て、衆僧すすめて、坐禅せしめし事、親く之ヲ見シ也。今の学人も、彼の風を思べし。

 

 

生死事大、無常迅速とは、この命をもって、生きるとは何か、死ぬとは何かを明らかにすることです。
いつ、どのような形で死ぬのか、また、いつどこで病気をするかは、誰も分かりはしない。この生きている間に、真実なるものに気づかずに、ただ眠って、空しく時を過ごしていいのか。
そんな考えだから、仏法は衰えてしまった。かつて、あちこちの道場で、仏法が盛んな時は専一に坐禅をしたものです。
しかし、近ごろどこの道場も坐禅を勧めないために、仏法は薄れてしまった。

若き道元禅師は、このように命懸けになって修行僧に坐禅をすすめている如浄禅師のお姿を何度も見たのです。
そして、道元禅師は、今の修行者に対して云うのです。
如浄禅師様のお心を忘れてはならないのだ、と。

 

 

又、或時、近仕の侍者等云く、僧堂裡の衆僧、眠りつかれ、或は病も発り、退心も起りつべし。坐久き故歟。坐禅の時尅を、縮メ被レばや、と申ければ、長老大に諫めて云、然ル可ラズ。無道心の者、仮名に僧堂に居するは、半時片時なりとも、猶、眠ル可シ。道心あて、修行の志あらんは、長らんにつけ、喜び修せんずる也。我若かりし時、諸方長老を、歴観せしに、是ノ如クすすめて、眠る僧をば、拳のかけなんとするほど、打せめし也。今は老後になりて、よはくなりて、人をも打得せざるほどに、よき僧も出来らざる也。諸方の長老も、坐を緩くすすむる故に、仏法は衰微せる也。弥々打可也、とのみ、示メ被レし也。

 

 

もうひとつ、例話が続きました。
ある時、侍者が如浄禅師に、こんなふうな事を申し上げました。
今、修行僧たちは睡眠不足で疲れております。このままでは、病気になってしまうかもしれないし、それによって、真実を求める心が減退するかもしれません。その原因の一つは、坐禅が長いためであります。どうか、坐禅の時間を短くしていただけませんでしょうか。
すると、如浄禅師は、静かにお示しになられたのです。
そうではない。そうではないのだよ、と。
例えば、無道心の者が、形だけで坐禅をするならば、たとえ半時間の坐禅をしたとしても、結局は眠ってしまうだろう。しかし、本当に志がある人は、長ければ長いにほど、その御縁を喜んで、坐禅をするものです。
自分は若い時には各地の老師を尋ね、修行道場を見てきましたが、その当時の老師は、眠る僧がいれば、拳骨が割れるかと思うほどに打って励ましていました。
でも今は、年を取り弱くなってしまって、激しく人を打つことができなくなった。だから、よい坊さんも出てこない。坐禅を命懸けでやらない者が多くなればに、仏法は廃れていきます
だからこそ、私はますます打たねばなりません、と示したのであります。

 

 

どうでしょうか。痛切な言葉であります。
私ども僧侶、特に、禅の坊主にとっては、耳の痛い叱責であり、そしてまた、温かな励ましでもあります。

 

じゃあ、皆さんにとっては、どうでしょう。
今日のこの話をいかに受け止めればいいのだろうか。

 

私は出家じゃないから、関係ないやと思うかもしれない。
昔のお坊さんは偉かったけれども、今の坊さんは口先ばかりで、如浄禅師や道元禅師の教えを実行していないじゃないかと、批判の気持ちがわき上がってくる人もいるでしょう。

 

受け止め方は様々なんでしょうが、共に覚えておきたいことが一つあります。坐禅というのは、いえ、何の道でもそうでしょうが、一面においては、命懸けとなって取り組まなければならない世界もあるのだ、と云うことを、お互いに心得ていたいのであります。

 


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