大童法慧 | 行というものへの小さな考察と期待
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5月 14日 行というものへの小さな考察と期待

二宮尊徳は『二宮翁夜話』に「神道は開国の道なり。儒教は治国の道なり。仏教は治心の道なり」と記した。このシンクレティズムの様相を彼は「神儒仏正味一粒丸」と表現した。それは、神道・儒教・仏教のいいところが対立することなく混ぜ合わせたものであり、日本人が育ててきた宗教性を象徴した言葉である。

 

そして、「一粒丸」の効き目が薄まった感の強い現代の日本人は、「無宗教である」ということに恥じらいを感じないようになった。年中行事や通過儀礼も商業イベントとして形こそ遺しているが、そこに宗教性を求める人は多くはない。宗教に近づかない代わりに、スピリチュアル的なものやインスタントな悟りを求める傾向が強い。

 

1980年頃から梅原猛は、日本固有の信仰は縄文人の信じたアニミズムにあると主張した。梅原猛『日本研究』(1989年 国際日本文化研究センター)「アニミズム再考」には、冒頭部に「私は結局、日本の神道や仏教はアニミズムの原理によっていると思う」と前置きし、「アニミズムを失った高等宗教は、アニミズムを失ったことによって重大な思想的危機に立つと私は思うのである」と論じている。

 

カール・ヤスパースの限界状況の例には死、苦、争、責、由来、偶然などがあるが、それらは人間として生きる以上、誰しもが抱えなければならない事柄である。縄文の安住しない厳しい環境に身を置いたからこそ見えた、誕生や死、自然との闘いや共存、そして、他者との関わりは文字通り切実なものであっただろうし、自分の力だけでは如何ともしがたい現実は、祈りという崇高な行為を生み出しただろう。その祈りを形に現した土偶に、梅原は「死の尊厳と再生への願望」を感じ取り、アイヌや沖縄の宗教や文化に懐かしさを覚えたのであろう。

 

故に梅原は、縄文人のアニミズムの特徴を二点指摘する。一点目は、人間だけではなく動植物や無機物、天然現象に至るまで霊を認めようとすることである。二点目は、その霊が身体からの離脱とその復活するという認識であり、つまりは、生というものは全て再生や蘇りであり、新生はありえないということである。この二点から、アニミズムは神道にも仏教にも通じ現代科学が明らかにした生命の真実とも相通じると主張する。そして、このアニミズムを非科学的として受け取らない現代の感性が、人類の危機を招いたとまで論じている。

 

梅原の説くアニミズムを感じ取る力は、重層的な「ものの見方」を修練することに役立つであろう。しかし、「「草木国土悉皆成仏」をまさにアミニズムの思想そのまま」とし、それを「自然崇拝・樹木崇拝」と同一視することに異を唱えたい。なぜならば、この釈迦の悟りの言葉は、個々に霊が宿った姿の発見の驚きを表したものではないからである。それは、「あらゆるものとの繋がり関わる縁起なる大きな命」を生きていることに気づいた叫びであり、アニミズムの趣とは全く別なるものである。

 

日本宗教史においての大きな転換点は、救済宗教の仏教やキリスト教の伝来、檀家制度の確立、廃仏毀釈、敗戦、新興の宗教などが挙げられる。宗教は為政者に利用されながら、また、利用しながら民衆と共にあろうとした。だからこそ、文化や思想、人間の生き方に深く結びついた。

 

島薗進は『現代救済宗教論』(1992年・青弓社)において、救済宗教が歴史宗教から新宗教を経て、新霊性運動へと変遷した姿を捉え、救済の質が個人主義化してきたと指摘する。それは、宗教が社会に独立してあるのではなく、社会が宗教を離れてあるのでもないことの証左といえよう。例えば、敗戦後の政教分離政策、都市の在り方や居住構造の変化などの出来事を経験し、義務を伴わない自由という価値観やこの世限りの人生観が蔓延した。そして、死への信頼を失った人が多くなった。それ故に、我々は「孤立した個の塊」となった。その流れに伴い、救済宗教の対象と目的は「個」に特化していったのであろう。

 

『比較文明学会会報』(52号2010年)において島薗は、「救済宗教とは、人間が悪や苦難を避けがたいものであることに思いを凝らしながら、それを克服する通常を越えた道があることを説く宗教だ」と示した。つまり、救済とは時代や国を問わず、救われなければならない人間と社会に対して宗教的安心を与えることである。それは、我々は「孤立した個の塊」を生きているのではなく「あらゆるものとの繋がり関わる縁起なる大きな命」を生きているのだと発信し、かつての宗教の姿を取り戻さなければならない。
と言うのも、科学が発達し情報が溢れた現代の日本人にも、限界状況に必ず直面するからである。その限界状況を解決していくには、やはり、救済宗教が必要である。なぜならば、救済宗教には伝統に学びながら対応できる力、文化資源、即ち行という手立てがあり、そして、行こそが根源的な日本人の宗教性を揺さぶるものであるからである。

 

 

 


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