大童法慧 | 満月の夜の坐禅会7月17日講話 冒頭部
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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7月 27日 満月の夜の坐禅会7月17日講話 冒頭部

それでは、言の葉をご覧ください。
その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

1、 体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

 

お疲れさまです。
冷夏とはいえ、この時期になりますと、虫がでてきます。
このお寺では、どういうわけだか、ハエだとか蜂だとかが、その窓のサッシや障子、格子戸のところで、ブーン、ブーンと、外に出ようとして飛んでいる。

 

 

でも、虫は自分の力だけでは出ることができません。
だから、手伝ってあげようと思って、手を添えようとすると、今度は頑なになって、反対の方向に逃げていこうとする。
ホントは、ハエや蜂だって、窓の外にいきたいのに、それが、できない。
結果、二、三日もすれば、死体が転がっています。
虫というのは、本当に愚かなものだなぁと思うのですが、どうでしょう、これは、虫だけの話だろうか。

 

 

もしかしたら、私たちも、同じことをしていないだろうか。
新たなものの見方を学ぶことができれば、
誰かの指摘を素直に聞くことができれば、
そして、我を捨てて、大きな流れに身を任すことができれば、
新たな外の世界に踏み出すことができるのに、
嫌だな、困ったなという問題から少し距離を置くことができるのに、
「俺が・私が」と頑なになってしまっていないだろうか。

 

 

迷いもがくだけもがいて、結果、力尽きる。
実は、次のステージへの扉がすぐそこにあるのに、進むことができない。
虫だけの話ではないですね。
お互いに、心得ておきたいなと思うのです。

 

 

さて、先日、東京に葬儀のアルバイトに行きました。
世田谷区の千歳烏山というところです。葬儀社さんからの依頼での葬儀の場合、通夜葬儀のあとせきには着かないことが多いのですが、今回は、どうしてもって言われまして、通夜のあとせきにつきました。

 

 

その通夜ぶるまいの席での事です。
私のテーブルに座った、故人様のひ孫さん、来年小学校に入学だそうですが、その男の子が手をあわせて、こう言ったんです。
「いただきます。生かされて生きる私のいのち。」

 

 

私は、「なんだ、この子は」と思い目をやると、彼の隣に座るママが、「うちの子、仏教系の幼稚園に通わせているのです」と仰いました。

 

 

「いただきます。生かされて生きる私のいのち。」
「生かされて生きる私のいのち」、ってすごいですよね。
小学校に上がる前のお子さんですから、その意味を深くは受け取ってはいないでしょう。意地悪な見方をすれば、先生に言わされているだけなのでしょう。

 

 

でも、すぐに思いなおしました。
これから、この子に自我が芽生え、生きづらさを感じ、もしかしたら、
生きることをやめようとする時が訪れるかもしれない。また、挫折や失敗を経験し、ぬかるみの中を生き続けることになるかもしれない。
でも、そんな時、この子の心の中に「生かされて生きる私のいのち」という声が響き渡ったならば、この子は、今一度、前を向いて生きていこうと頭を持ち上げることができるだろうな、って。

 

 

この坐禅会も、同じです。坐禅会をはじめて、ちょうど丸二年です。
その間、延べ500人前後の方々と、ここで坐ってきました。

 

 

ありがたいことに毎回来てくださる方もいれば、時折、お仕事の都合をつけて来る方もいらっしゃいます。
また、とても残念なことだけれども、一回来られて、もういいや、お腹がいっぱいということで、来られなくなった方もいらっしゃいます。おそらく、ご自身が求めていたものと違ったのでしょう。

 

 

でも、思うのです。
今生で、一度なりとも、坐禅をしたからには、また、ご縁が熟せばそれに近づくこともできるし、坐禅に導かれるようになることもあるだろう、と。

 

 

私の力不足で、坐禅から遠のいた方もいるでしょうが、そんな言い訳を胸に秘めながら、坐禅会を開催しております。

 

 

言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。
わずかに一人一時の坐禅なりといえども、諸法とあい冥し、諸時とまどかに通ずるがゆえに、無尽法界のなかに、去来現に、常恒の仏化道事をなすなり。彼々ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞の前後に妙声綿々たるものなり。このきわのみにかぎらんや、百頭みな本面目に本修行をそなえて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとい十方無量恒河沙数の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかりしりきわめんとすというとも、あえてほとりをうることあらじ。『眼蔵 弁道話』

 

 


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