大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 3月29日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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4月 10日 満月の夜の坐禅会 3月29日講話

それでは、言の葉をご覧ください。その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
彼岸を過ぎたあたりから、なんとなく春めいてきました。あんなに寒かったのに、雪が降って嫌だなと思っていたのに、私の思いとか計らいとは全く関係なく、大自然はどんどん移り変わっていきます。

 

でも、忘れてはいけないことは、移り変わっているのは大自然だけではないということ。
つまり、私たち自身も移り変わっているのです。

 

私たちは、それぞれに事情を抱えて生きておりますが、その事情や私たちの思いとは全く関係なく、日、一日と老い、あるタイミングで病を得、そして、必ず亡くなる命を生きています。
どんなに大きな問題を抱えていたとしても、生きづらさを感じていたとしても、昨日から今日、今日から明日へと私たちは移り変わっている。

 

昨日の自分と今日の自分、今日の自分と明日の自分、全く同じではありません。だから、それぞれの問題や課題も、昨日よりは今日、今日よりは明日へと解消したり重くのしかかったりして、変化している。

 

私たちは、移り変わっていく命を生きています。
それを一面から見れば、人間というのは儚い生き物だな、人生というのは虚ろなものだなとも受け取る事ができます。しかしながら、移り変わっていくということは、悪いことではありません。

 

なぜならば、移り変わっていく命を生きているからこそ、たとえ大きな悲しみや痛みを経験したとしても、やがては、その悲しみや痛みを自らの生きる力へと転じていける。
移り変わっている命を生きているからこそ、今は思い通りにならないことが多いかもしれないけれど、でも、私たちはどこからでも、新たな一歩を踏み出すこともできるのです。

 

言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。

春は青春 夏は朱夏 秋は白秋、冬は玄冬

 

ありがとうございます。
大自然には春夏秋冬という四季があるように、人間にも四季をあてはめるならば、どうだろうか。
春の青春は、10代20代であり、夏は30代40代の働き盛り、秋は50,60代と収穫の時期、そして、今は、80、90、あわよくば100まで健康で、冬と枯れていく。そんな捉え方もあるでしょう。

 

もう一つの捉え方、それは、人間の四季は冬からはじまるのだ、と。
つまり、幼少から二十歳ぐらいまでは体力、知力を鍛えます。これを玄冬といいます。
春は、青年期20から40ぐらいですね、この時期はまさに青春、人生は機を得て就職や結婚、家庭、社会に存在感を示すとき。夏は40から60、中年期です。朱い夏、朱夏といいます。太陽が燃え盛るように、人間のつながりを生かしながら活動するとき。
そして、60を過ぎた高齢期、これが秋です。白秋といいます。今まで培ってきた事の自信をもって、人生の収穫を楽しむ時期ともいえる。

 

どんなふうに人生を眺めるのかは、それぞれの人生観です。
しかしながら、年を重ねることはわるいことではないと覚えておきたいものです。
たとえ、自分で自分のことをできなくなったとしても、自分で自分のことがわからなくなったとしても、その「今・ここ」から人生を味わうことができるのだ、と。

 

いや、誰かに迷惑をかけるのは自分の流儀ではないから、そんなふうになるのならば、ぽっくりと死にたい、と仰る方も少なくはありません。でも、どちらにせよ、自分の思い通りにはいかない。

 

将来の在り方を思い煩うならば、「天命に任す」という覚悟を養うことが必要でしょう。そして、その「今・ここ」を懸命に生きる。

 

いずれにしろ、若いうちに、頭がしっかりとしているうちに、余裕がある時に、死生観を養う事が大切だと思うのです。

 

言の葉3をご覧ください。声に出しましょう。

時 坂村真民

日の昇るにも 手を合わさず
月の沈むにも 心ひかれず
あくせくとして 一世を終えし人の いかに多きことぞ
道のべに花咲けど見ず 梢に鳥鳴けど聞かず
せかせかとして 過ぎゆく人の いかに多きことぞ
二度とない人生を いかに生き いかに死するか
耳かたむけることもなく 老いたる人の いかに多きことぞ
川の流れにも 告げ給う声のあることを 知ろうともせず
金に名誉に地位に 狂奔し終わる人の いかに多きことぞ
生死事大無常迅速 時人を待たず  臆々

 

ありがとうございます。
川の流れにも 告げ給う声のあることを 知ろうともせず
金に名誉に地位に 狂奔し終わる人の いかに多きことぞ と、坂村真民先生は嘆かれておられます。

 

では、川の流れにも 告げ給う声とは何だろうか。

 

言の葉4を声に出しましょう。
峯の色渓の響きもみなながら 我が釈迦牟尼の声と姿と

 

ありがとうございます。これは、道元禅師の和歌です。
意訳すれば、目に映る周りの山々、耳に届く谷川を流れる水の音、それら全て、私がお慕いするお釈迦様の教えを語りづめに語っているのだ。

 

さて、この和歌は、どういう意味だろうか。
まず第一に言えることは、自然は素晴らしいというような意味ではありません。自然を大切にしましょう、自然と共存していきましょうというスローガンではありません。

 

次に、ある日、山を仰いで、今日の山には雲がかかっているな、とか、またある日、川辺に腰をおろして、今日の川のせせらぎが気持ちよいな、という話でもありません。

 

じゃあ、山の姿、川のせせらぎとは何でしょうか。
少し飛躍するように感じるかもしれませんが、山や川は私たちなのです。私といっても、今日、坐禅をして足が痛いな、とか、このあと何を食べようかなと考えている私のことではありません。
私をして私ならしめているもの、私の根拠、私のなかに息づくサムシンググレート、また、真実なるもの、真実の私と表現すればいいのでしょうか。

 

山にも、その山を山としてならしめているはたらきがあります。
川にも、その川を川として息づかせるはたらきがある。
山自身、川自身の思いやはからいによって、山としてあるのでも、川としてあるのでもありません。
私たちと同じはたらきによって、山であり、川であるのです。

 

この辺りの消息を
川の流れにも 告げ給う声のあることを 知ろうともせず
金に名誉に地位に 狂奔し終わる人の いかに多きことぞ と、坂村真民先生は指摘しているのです。金に名誉に地位、、、それらも大切な事だけれども、だけど、もう一つ、生まれてきた本当の意味を手にしようではないか、と。

 

いい暮らし、いい思いをするためだけの人生ではないのです。
いい暮らし、いい思いができないなら、その人の人生は価値のない人生となるのだろうか。そして、思い通りにいなかないまま亡くなれば、その人生は無意味なものになるのだろうか。
どうだろうか。私たちは、もっと深く考え、学ばなけれならないと思うのです。

 

言の葉5をご覧ください。声に出しましょう。

俗の云ク、「我れ金を売れども人の買フ無ケればなり。」ト。仏祖の道も是のごとし。道を惜シむにあらず、常に与フレども人の得ざるなり。道を得ることは根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべきなり。ただ精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。進怠の不同は志の到ると到ラざるとなり。志の到ラざる事は、無常を思はざるに依ルなり。念々に死去す、畢竟暫くも止らず。暫くも存ぜる間、時光を虚シクすごす事なかれ。 『随聞記』

 

意訳します。
世間ではこんなことを言っているようです。「自分は黄金を売っているのに、世の中に黄金が行き渡らないのは、皆が買わないからだ」。
翻って考えてみれば、お釈迦さまや歴代の祖師方の教えもこの考えと同じです。実は、お釈迦さまは教えを伝えることを惜しんではおられません。むしろ、常に教えを伝え与えようとしているのに、あなたが学ぼうとしないので教えを得られないのです。教えを体得できるか否かは、能力があるとかないとかいうことではありません。誰でも教えを会得することができるのです。
あなたが教えに適った行いを懸命に努めるか怠けるかで、教えを会得する時間の速い遅いの差が現れます。そして、この努力するか怠けるかの違いは、志にあります。志があやふやで定まらないのは、この世は無常であると本当に学んでいないからです。
時々刻々、あなたの身体は変化しています。少しの間も留まっていません。だからこそ、この時間を無駄に費やすことがないようにしましょう。

 

いよいよ4月です。始まりの季節です。
それぞれの場所で、努めていきましょう。

 

【普回向】


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