大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 5月7日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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5月 09日 満月の夜の坐禅会 5月7日講話

それでは、言の葉をご覧ください。1番を声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

 

1、    体の中に

光を持とう

どんなことが起こっても

どんな苦しみのなかにあっても

光を消さないでゆこう  坂村真民

 

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
世間は、コロナコロナです。昨日は、郡山市の方が罹患されたと報道がありました。緊急事態宣言がいつ解除されるのか、経済はどうなるのか、この国はの形はどうなるのか、パンデミックは終息するのか、、、もっと自分に引き寄せていうならば、俺の仕事や収入はどうなるのか、私の家庭はどうなるのか、俺の財布の中身はどうなるのか、私の暮らしはどうなるのか、、、心配は尽きません。

 

 

テレワーク、リモートワーク。テイクアウト、デリバリー。オンライン授業、オンラインでの飲み会。人と会うのは極力避けましょう。不要不急の外出は控えましょう。結果、家に籠もることによって、家族の関係が深まった人もいれば、DVが増えたなんて話もあります。

 

 

コロナの出現によって、今までのあたりまえがあたりまえではなくなった。
いつもの生活、普段の暮らしが変化した。

 

 

言の葉2をご覧下さい。

声に出しましょう。

個が問われる お前は何をしたいのか 貴女はどう生きたいのか
→ 個人主義的価値相対主義 個人の肥大化

 

 

ありがとうございます。思うのです。今、問われているのは、個人の在り方だと。つまり、お前は、貴女は、何をしたいのか、どう生きたいのか。何を為して、どうなふうなりたいのか、だと。

 

 

だから、俺の時間、俺の仕事、俺の場所、俺の成功を考える。私の優先順位、私の子ども、私の家、私の夢を考える。それは、決してわるいことではない。けれども、「俺が・私が」ばかりだと、「俺様が」となってしまわないだろうか。

 

 

やはり、他者との関係性を忘れては、俺そのものを、私自身を見失ってしまうのではないだろうか。「俺様が」になることが、人生のゴールではないはずです。
そこで、拙著『そのままの私からはじめる坐禅』3章 生の風光  本文1  関係性をお聞きいただきたいのです。

 

 

その前に、この中で出てくる言葉を声に出しましょう。言の葉3、4,6です。

 

他人の過ちは見えやすく、自分の過ちは見えにくい。人は他人の過ちを籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過ちは、狡賢い賭博者が自分の不利なサイコロをごまかすように、覆い隠す。他人の過ちを見るべきではない。他人がやったこととやらなかったことを見るのではなく、自分がやったこととやらなかったことを常に見るべきである

 

黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

 

生命(いのち)は     吉野 弘

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で 虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分 他者の総和

しかし 互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず 知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように 世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

 

 

ありがとうございます。5の図は本文のなかで説明します。

 

【本文】

拙ブログの記事を、そのままコピペして自分の日記として公開されている人がいました。タイトルまで同じにして、よほど気に入ったのでしょう。なぜこんなことをするのでしょうかとコメントを入れたら、「心の狭い人だ」とメッセージが送られてきました。

私は苦笑しながら、個人主義的価値相対主義という言葉を思い出しました。

即ち、「人間には自由に生きる権利があるけん、迷惑さえかけんかったら、何をしたってええんじゃろ」と装う人。

 

 

人間関係に少し疲れた時に味わいたいお釈迦様のお示しを二つ。

 

 

他人の過ちは見えやすく、自分の過ちは見えにくい。人は他人の過ちを籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過ちは、狡賢い賭博者が自分の不利なサイコロをごまかすように、覆い隠す。他人の過ちを見るべきではない。他人がやったこととやらなかったことを見るのではなく、自分がやったこととやらなかったことを常に見るべきである

 

 

黙している者も非難され、

多く語る者も非難され、

すこしく語る者も非難される。

世に非難されない者はいない。

 

 

私という円を書いて、他者という円を書く。
他者とは、私以外の人です。その関わりに濃淡はありますが、他者とは「私ではない人」と定義することもできるでしょう。それは、たとえば家族や親族であったり同僚や上司であったり、友人やパートナーでしょう。また、お昼に立ち寄った寿司屋の大将、帰りの電車で身体を押し付けあった隣人、テレビに映るタレントも他者です。そして、はっきりとした姿形を掴むことはできない世間というものまでも他者にして苦しんでいる人もいることでしょう。

 

 

私と他者の二つの円の重なりあったところが、いわゆるの人間関係です。
この重なり合った部分で、多くの人が悩み苦しんでいます。真心や誠実さだけでは解決のしようのない矛盾がここに多く現れます。重なりを我がものにしようと、諍い、争い、刃傷沙汰に及ぶこともあります。

その重なりに折り合いをつけるために、コミュニケーションスキルを磨こうと試みた人もいるでしょう。また、その重なりを持て余した結果、セラビーや服薬に頼ることになった人もいます。そして、重なり合っていない部分のなかに本当の自分を探そうとする人も少なくありません。

 

 

この図を見る上で大切なことは、二つの円を少し遠くから眺める視座を身につけることだと思うのです。
悩み苦しむ根源は円を固定し、それを自分の立場を保持しながらの維持や拡大、自分の思惑通りの一致や成型をしようとするところにあるのです。しかし、それでは私と他者という対立の世界からいつまでも抜け出せないでしょう。

 

 

けれども、円を少し遠くから眺めることを自分に躾けたならば、「私と私ではない人」という隔たりから離れていくことができるでしょう。そして、いかなる円の存在をも否定しないはたらきがあるという気づきがもたらされるはずです。それは、いくつもの円が重なりあったとしても、お互いが侵すことのない、侵すことのできない「私の他者・他者の私」という融和の世界です。

 

 

生命(いのち)は     吉野 弘

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で 虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分 他者の総和

しかし 互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず 知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように 世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

詩集『風が吹くと』所収

 

 

「他者の総和」とは私自身のことです。
お釈迦さまは「この世の物事はすべて相対的なもので、それらは相互の関係性のもとでしか存在し得ない」とお示しになられました。即ち、「私が生まれ、私が老い、私が病み、私が死ぬ」という視座から人生を見るのではなく、他との関係性のみによってある「私」からの眼差しを育てていくのだ、と。

 

 

それは、自我を前提とした命の在り方との決別です。
私たちは自我を前提にして確立された道徳、倫理、正義は崩壊を繰り返してきたこと歴史に学んできました。だからこそ、「私」の円を大きくすることが人生ではないということも知り置きたいのです。

 

 

「私が」からはじまり、「私が」で終わる人生があります。
自分のためだけに生まれ、自分のためだけに生きていると刷り込まれている私たちがいます。結婚しても「私」が、子どもを授かっても「私が」、会社でも学校でも「私が」、死ぬ時も「私が」だけで終わってしまう。それは私と他者の円に脅える人生でもあります。

 

 

けれども、「私が」から「私たちが」という主語にする営みをすることで、円を超越することができるのです。ですから、他者も自分自身も責めることなどありませんし、もし誰かが「私」を押し通そうとしたならば、その場からスッと立ち去ることもできるでしょう。

 

 

私と他者とを二つに隔て力比べばかりするのではなく、私と他者を一つに見るはたらきと智慧もあることを知り置きたいものです。

 

【本文終わり】ありがとうございます。皆さんの思索の一助になれば、と思います。

 

 

言の葉7,8を声に出しましょう。

脚下照顧

須らく回光返照の退歩を学すべし『普勧坐禅儀』  → 退歩を学ぶ

 

 

ありがとうございます。
脚下照顧とは、足元を看よ、ということです。
このお寺の玄関にも脚下照顧と書かれたものがありますが、目に入りましたか。
そういうことですね。注意深く、細心であれ、と。

 

須らく回光返照の退歩を学すべし。は、道元禅師様の『普勧坐禅儀』にある言葉です。まず、あなた自身に焦点をあてなさい、という意味です。 退歩なんて聞くと、後退、衰退、退く、あんまりいい印象はないですが、、、

 

 

言の葉9をご覧ください。声にだしましょう。

負けて退く人をよわしと思うなよ。知恵の力の強きゆえなり。

 

 

ありがとうございます。高杉晋作の言葉です。退くのは知恵の力でもあるのです。私たちは、退歩を学ぶことを怖れてはいけないと思うのです。

 

 

言の葉10をご覧ください。声に出しましょう。

人間というものは知性に根拠を持たず、大抵は無意識に、ただ感情によってのみ支えられた先入観に囚われていることが稀ではない。こういった本能的な嫌悪、感情的な憎悪、決めつけられた拒否というような柵を乗り越えることは、欠点のある、或いは誤った学説を正しく直すことよりも千倍も困難である

 

 

ありがとうございます。アドルフ・ヒトラーの言葉です。
ヒトラーは看破しております。つまり、人というのは「好きか嫌いか」で判断するものである、と。
結局、多くの人の人生の基準は、「俺が好きか・私が嫌いか」なんだ、と。

 

 

だからこそ、退歩を学ぶ。
今こそ、私たちは私たち自身に、より丁寧に接しなければならないと思うのです。
この点を押さえておきたい。

 

 

今回のコロナ。こう考えてはどうだろう。
今回、私たちは一度立ちどまった。立ちどまらなければならなかった。以前の暮らしに戻れるのかどうか、という不安もあるけれども、一度、立ち止まったことによって、開かれてくる世界がある。もたらされてくる世界もある。
だからこそ、私をもう一度深めてみよう、と思うのです。

 

 

言の葉11を声に出しましょう。

 

11、 鳥は飛ばねばならぬ 坂村真民

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

怒涛の海を

飛びゆく鳥のように

混沌の世を

生きねばならぬ

鳥は本能的に

暗黒を突破すれば

光明の島に着くことを

知っている

そのように人も

一寸先は

闇ではなく

光であることを

知らねばならぬ

新しい年を迎えた日の朝

わたしに与えられた命題

鳥は飛ばねばならぬ

人は生きねばならぬ

 

ありがとうございます。
一寸先は闇ではなく、光なんですね。このことを共に心に留めておきましょう。

 

医療従事者の疲弊も多々報道されています。経済的な不安でお困りの方も多い。
抱えているものは違うけれども、それぞれの場で、共に今日一日を生き抜きたいと願っております。

 

 

【普回向】

 

 


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