大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 6月6日講話 冒頭部
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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6月 20日 満月の夜の坐禅会 6月6日講話 冒頭部

それでは、言の葉をご覧ください。
1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
令和月2年6月の満月の夜の坐禅会です。つい先日、正月を迎えたばかりなような気がしておりますが、もう半年が過ぎようとしております。本当に早いものです。この半年、何かを成したかというと、、、正直、何もありません。

 

なんとなく住職交代の手続きを済ませて、葬式と法事をしてお金の計算をするようになり、あとはお酒をなめながらアマゾンプライムで『仁義なき戦い』を見て、「何かいいことはないかな」と溜息をつきながら空を見上げて、そんな感じでだらだらと生きてきたような気がしております。本当の話、死なないからただ生きているようなものでした。

 

言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。

生死事大
無常迅速
各宜覚醒
慎勿放逸

 

ありがとうございます。これは『六祖壇経』という祖録にある言葉です。また、禅の道場の木版に書かれている言葉です。意訳すれば、こんな感じでしょう。

 

生死を明らかにすることは一大事である。しかしながら、時は無常に迅速に過ぎ去っていくものだ。だからこそ、あなたはこのことを腹の底において、弁道精進につとめ、無為に過ごしてはならないよ。

 

やはり、人生の意義や価値に眼差しを定め、小さな目標や目的を明らかにしながら、生き抜いていきたいものです。
そして、叶うならば、出家の本懐を遂げたいなと思っております。

 

先日、あるお檀家さんがお父様の1周忌のことで相談に来られました。
話を進めるうちに、彼はこんなことを仰った。「父親の死私自身、あと20年ぐらいの人生だなってしきりに思っているのです」そして、こう続けられました。
「そんなふうに思うと、なんだか焦るばかりで、なんとなく地に足がついていないというか、俺の人生はこれでいいのだろうか、っていう問いが頭から離れなくなったんです。そうなると、仕事や家庭のことだけではなくて、何か他にしなければならないことがあるんじゃないかと思ってしまうのです」

 

彼は現在59歳。父親の亡くなった年齢、平均余命、自分の健康状態などを考えて、あと20年の人生だと想定したのでしょう。

 

死というものをはっきりすることによって、生が豊かに現れるなんて事をよく耳にします。
でも、今の彼は生きることが混乱し、59歳で途方に暮れてらっしゃる。
そして、「これで本当に大丈夫なんでしょうか」と、死ねないからただ生きているだけのような私に質問をしてしまう。

 

聞かれたものだから私は、逆に「何かしなければならないこととは何だと思いますか」と尋ねました。即座に彼は、「いや、それがわからないのです」答えた。

 

死を見つめることによって、はじめて生の意味を探し求め、そのとっかかりに混乱している姿。
問いの姿、答えの在り方がはっきりとしないことに、もがき苦しむ時間。
実は、それはかつての私の姿でもありました。

 

私は幸いなことに、禅寺に飛び込んでいくようなご縁がひらけました。でも、彼には家庭がある。仕事もある。そして、何もかも放り出して、禅の道場に飛び込む勇気はないでしょう。

 

だから私は、こんなふうに応えました。「人生の最期に、いや、今、目に映る景色や出来事がすべて美しいな、素晴らしいな、素敵だなと感じたくはありませんか。たしかに争いごとや人を蹴落とすようなニュースは毎日のように報じられる世の中ですが、それでも、そんなふうにこの世界を受け取りたくはありませんか」

 

すると彼は、「そうなんです。人生のまとめというか、自分の生まれてきた意味というか、それを知りたいのです」

 

そこで、私は、お釈迦さまの言葉と人生の歩みを紹介しました。
言の葉3をご覧ください。声に出しましょう。「樹々は美しい この世は美しい 人の命は甘美である

 

 

これは、お釈迦さまが終焉の地クシーナガラ向かって歩きながら、弟子のアーナンダに語りかけるようにつぶやかれた言葉です。
お釈迦さまは王子の座を捨てて出家されました。食べるものは、托鉢で頂戴したもの。持ち物は三衣一鉢。寝るところは、樹下石上です。
お悟りを開かれてからも、何度も殺されかけたり、親族を戦争で滅ぼされたり、出来の悪い弟子に逆恨みされたり、と大変な人生でした。

 

でも、そのお言葉は「樹々は美しい この世は美しい 人の命は甘美である」です。あの時、こうしておけばよかった、あの時、こんな風に言えばよかった、あいつに裏切られた、こいつには恨みがある、そんなことではないのです。ここが、私たちとお釈迦さまの違いだと思うのです。

 

正直に申し上げて、今、私自身の目には「樹々は美しい この世は美しい 人の命は甘美である」と映ってはいません。
でも、そんなふうに世界を見ることができた人がいることを知っております。

 

じゃあ、どうすれば、お釈迦様に近づくことができるのか。
言の葉1ですね。どんなことが起こっても、どんな苦しみの中にあっても消えない光を持っていることを本当に知り、そして、その光を磨いていく。

 

じゃあ、どう磨くのか。それは、自分を調えることだと思うのです。失敗しても、ずるをしても、苦しくても、悲しくても、そのときその場で、自分を調えることを忘れない。

 

言の葉四をご覧ください。声に出しましょう。

自分を調える
ア 第二の矢を受けないこと
イ 誰かのためにという視点を持つこと
ウ 行を続けること

(以下、略)

 


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