9月 26日 ご指摘 〔1〕
しばらく、留守にしてました。
留守中に、ある方からメールを頂きました。
以下、抜粋し引用します。
>仕事柄、様々な方からメールやご意見をいただくのですが、今の世の中、僧侶の方が応えなければならない質問が山積しているように見うけられます。
でも、みなさん、僧侶の方へ質問してはいません。
厳しいご指摘だな、率直に思いました。
僧侶への質問をしないのは、質問するのが恥ずかしいからなのか、それとも、質問するに足りないと見切ったからなのか?
僧侶との間に、問いを発し答えを探るほどの人間関係が構築されていない、いや、葬儀や法事の時ぐらいにしか顔をあわすことがないのも理由のひとつでしょう。
今、私はひとつの事を試みております。
それは、火葬場への随行と収骨までの立会いです。
昨今、忙しいを理由に火葬場に随行しない寺院が増えています。なかには、遺族が火葬場への随行を望むと、オプション料金が発生してしまうようです。
仮に、火葬場へ随行しても、炉前でお勤めをすれば帰られる方が多いようです。当然、収骨は遺族のみとなります。
何故このようになったのか?
おそらく、間がもたないのでしょう。荼毘にふしてから焼きあがるまで、約1時間から、1時間半程度かかります。この時間の遺族からの問いかけが怖いのでしょう。
つまり、人は死んだらどこに行くのか?
つまり、死ぬとは何か?
つまり、生きるとは何か?
その問いかけに黙する時もありますが、ここが僧侶として最も大切な所だと思っています。自分の父や母が、妻や子が、そして、友人や大切な方と分かれる時がそうであるように、故人を送ること。
亡くなったとはいえ、その姿を保ちながらお棺の中に横たわっている故人が、荼毘にふされ、わずか1時間ほどもすれば、お骨と成って現れる、人生の最も厳粛な一瞬に僧侶として立ち会うこと。
いずれ寺院も僧侶も淘汰される時代がくると、私は考えています。
離檀が増え、墓の形が変わり、宗教法人法も埋葬法も適切な改正が要求されると思います。
お参りするのは文化財としての伽藍、ありがたいのは美術品としての仏像、そして、御朱印集めのスタンプラリーか。
けれども、仏教は無くなりません。仏法は絶えません。
この信心をもって、私はこのブログに向かっております。
どうぞ、叱咤激励、よきご助言、お願いします。
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