大童法慧 | 調える
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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7月 28日 調える

中田英寿さんと坐禅をしました。
彼は47都道府県をめぐり、自分の立脚点、つまり、日本人としての在り方、この国の成り立ちの根源を探る旅をしておられます。
nakata.netにあるReVALUE NIPPON 日本の文化をめぐる旅 神奈川県の寺社仏閣をご覧ください。
・・・旅を終えた時、彼が何を発信するのか楽しみです。
<記事の補足>
心を調えると聞くと、頭でいろいろと考えてしまうけれども・・・
坐禅は、身体でもって心を調えるのです。
頭の中で、あれこれ考えて心を調えるのではありません。
身体を真っ直ぐにすれば、自ずから深い呼吸ができてきます。それに応じて、心が調うのです。
心が調うというのは、整理整頓の整と書いて整うではありません。
調和の調、と書いて調うのです。
不安や恐怖、疑問や煩悶に対して、一つ一つ回答を与えていくのでははなく、問いをそのままを全部受け入れる。
そして、その問いを持ち続ける勇気を養う。
それが、調うであります。


坐禅は、何かを求めたり、身につけたりするためのものではないけれども・・・
「坐禅をしても何にもならん」では、ね。


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