大童法慧 | 大法重きが故に
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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11月 05日 大法重きが故に

これは、岩手県の匿名希望さんからのお手紙です。
お祖父様の7回忌のご法事に、若い副住職さんがいらっしゃいました。
お経が終わり、知人の方々が故人との思い出話などをして、さて、副住職さまからのご法話となりました。
おもむろに、副住職さまが話をされます。
「エー、私からの法話ですが、自分は修行が足りません。
未熟な自分の話よりも、住職のありがたい話を聞いていただいたほうが良いと思いますので、法話は当寺のテレホンサービスをご利用ください。24時間いつでも受け付けております。電話番号は××-××・・」
あっけにとられるみんなを残し、この副住職さんはお布施を受け取り帰られたそうです。
「21世紀の仏教を考える会」が、平成10年から11年にかけて、全国の新聞を通して、「仏教式葬儀についての不満や提言」の意見公募をされました。これは、それをまとめた小冊子にある意見の一つです。
この冊子には、全国各地の30代から80代までの男女144名の意見が掲載されています。仏式葬儀への意見公募ですが、しかしその不満の対象は、仏式葬儀そのものよりはむしろ、僧侶の態度やそのあり方に向けられています。
その結果、この僧侶のこの葬儀で本当に成仏ができるのか、という疑いを根底にして「仏式葬儀は必要なのか」「僧侶は本当に必要なのか」という思いを抱かれている方が多くあるようです。
しかし、ただひとつの救いの点は、
寺院や僧侶に対して不満はあるものの、宗教性そのものへの関心は依然根強く、仏の教えを知りたいという願いが確かにあることです。
この混迷の時代の指針として、悩み多き人生の拠り所として、生きた仏教が求められていることを、われわれ僧侶は深く受け止めねばならないでしょう。
インドで生まれた仏教は、そのインドでは滅びました。
形骸化した寺院、内容のない僧侶、ビジネス化した葬儀、ここには、もはや、仏の教え、大法はありません。
おかしな教えが宗教として蔓延しているこの国日本でも、大法を絶やすことになりかねないと思うのです。
昨年、私は一通の手紙を受け取りました。
差出人をみると「一参拝者より」とありました。
そのころ、私は伝道部に配属されており、それは山内を案内した二十歳くらいのお嬢さんとそのお母さんからの手紙でした。
そこには、永平寺参拝の思い出とお嬢さんのこんな言葉がありました。
「自分がこの世を去るとき、お坊さんの経文だけに送られるのではなく、説法で、人が生きるとは、生きていくとは、そして自分のこれまでの人生を静かに語って欲しい」
この手紙を私は大切にとってあります。
己の弁道の糧として。
「人が生きるとは、生きていくとは」の問いに、みなさんは何とお答えになられるでしょうか。
「人が生きることの本当の意味」を知りたいと願うこのお嬢さんの問いこそが仏の教え、つまり、大法の真髄だと私は思います。
それが故に、釈尊は妻子や王位を捨ててまで出家なさり、祖師方も道を求められました。
その児孫である我々僧侶は、日々の生活の中で、大法を信じ、説き、体現していく責を担っていると思うのです。
私は、お寺の子ではありません。
ひとりの方の死が機縁となり頭を剃りました。
何故に生きるのか、何故に生きなければならないのか、
長いこと、この問いに苦しみあがきました。
そんな時に、福井県小浜市の故原田祖岳老師の著書の中に、
「我々は成佛道の過程にある」
という一文を読み、この道を志しました。
私は、このひとことで救われ、このひとことで私の人生が始まりました。
永平寺に安居するご縁をいただき、今年で3年、
高祖様の下で修行できる喜びをかみしめております。
高祖様の血が私の体の中をかけぬけるような感動を。
仏の教えを信じて、体現していくこの行持に一点の迷いもありません。
いかにして まことの道に かなわむと
ひとへに思ふ 寝てもさめても
と歌われた、わが宗の僧侶、良寛様は、また
何故に 家を出でしと 折りふしは
心にはじよ 墨染の袖
とも歌われ、口唇をかみしめておられます。
仏の教えを信じること、それを体現すること。
そして、正しくその法を伝えること。
これが、頭を剃った者の使命だと思います。
自分意与えられた使命 - 仏飯をいただき仏を背にして法を説く。
このことに悦びを見出し、なおかつ、カニは甲羅ほどの穴しか掘れない事実、つまり、自分の身の丈でしか説けないことを常に省みながら、真実の一路を歩みたいと、私は誓っております。
この道と出会い、まだ十年。
道は、深遠なれども、大法重きが故にの一念で、いずれ、いや必ずや、
縁ある人々に、禅僧としてはたらきかけたいと思っております。
平成12年 第3回青年僧侶弁論大会において


4 個のコメントがあります
  • 鈴木晴之
    Posted at 11:41h, 06 11月 返信

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    コメント有難う御座いました
    大変、素晴らしい内容です、がんばって仏教を伝えて下さい
    形骸化した葬式仏教ではなく、生きる為の仏教を!

  • 法慧
    Posted at 21:00h, 06 11月 返信

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    PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
    蝸牛の歩みの遅くとも
    ひとたびは
    おこしたる菩提心

  • うめ
    Posted at 22:03h, 06 11月 返信

    SECRET: 0
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    私は今まで何回も法事に出かけていますが、有難い法話・・・・一度も聞いた事がありません。
    普通はお経の後ご住職様は法話をしていただけるのですか?
    それは、お願いしないといけないのですか?

  • 法慧
    Posted at 22:42h, 06 11月 返信

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    お通夜やご葬儀、そして、ご法事。
    お話しなければならない事が、たくさんあると思うのですが・・・。
    実際、法話をされない方が多いようですね。
    話す話さないは、その方の見識次第でしょう。

うめ への返信を投稿 返信をキャンセル