大童法慧 | 無宗教と世間教  問題提起〔2〕
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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9月 15日 無宗教と世間教  問題提起〔2〕

昨日、らぶり☆さんより頂いたコメントに
>宗教っていわれると、ついケイカイしてしまうのはどうしてでしょうね。
とありました。
おそらく、同じ意見の方が多いでしょう。
実は、私も、その一人です。
しつこく勧誘してくるその信者や、羽振りのよさそうな大きな建物、偉そうなお姿の教祖サマ。
そこに、私は胡散臭さと大きな拒絶感を抱いてしまいます。
日本人は欧米に比べ、無宗教だと評されます。
正月は神社に初詣、結婚式は教会で、葬儀は坊主をよんで。
キリストよりもクリスマスを信仰し、檀家だけれども宗派は知らない。
こんな無節操な態度をして、無宗教と批判するのでしょう。
しかし、無宗教よりも恐ろしい宗教があります。
皆さん、わかりますか?
それは、世間教です。つまり、それは社会の常識であったり、人の目であったり、世間のものさしのことです。
ある一時期、私も随分とこれに苦しめられました。
威勢のいい人は、俺は俺だ、というでしょう。
考えのない人は、私は私で関係ないよ、と突っぱねるでしょう。
しかし、俺の隣には、世間の壁があり、私の意識の中には、世間の基準が刷り込まれていることに気づかねばならない思うのです。
じゃあ、何ものにも縛られない本当の自由はどこにあるのだろうか?
ここが、私の出発点でした。
ここから、禅の世界に入っていきました。
私は曹洞宗の僧侶ですが、実家は浄土真宗です。
つまり、お寺の子ではありません。父親は工務店を経営してます。
縁あって、曹洞宗の僧侶として、得度<トクド・出家すること>をしました。
宗教とは、何かをしてはいけない世界でなく、自由な世界であります。
仏教とは、先祖供養の話じゃなく、この現実の生々しい今の現実のことです。



今日は天下分け目の関が原の決戦があった日です。
特別な日だから戦があったのか?
戦があったから特別な日となったのか?
どう思われますか?
何気ないこの日常にこそ、真実は宿る


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