10月 25日 私たちの根っこ
禅とは、一体、どういうものでしょうか?
私は、禅とは、一言で申せば、根っこではないかと思います。
根っこが、自分にある事を信じ、根っこのありかに気づき、そして、その根っこと、しっかりつながった歩みをするのが禅だと思うのです。
あいだみつをさんの詩集『にんげんだもの』に、こんな言葉があります。
花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根は見えねんだな
私たちは、咲いた花の大きさや色や形のみを評価します。
しかし、目に見えないけれど、その花を根幹で支えている大切なもの、それが根っこです。
私が私である根拠。私を私としてなさしめているものは、何か?
根本の根本にあるもの。
そんな私たちの根っこ、それは、強く、大きく、そして、絶対のものでなければならないはずです。
なぜなら、せっかく、人として生まれてきて、人生を安っぽいものに騙されたり、侵されたりしてはもったいない。
何があっても動じないもの、そして、何物にも奪われないもの、決して、無くならないもの。
それこそが、私たちの根っこであるはずです。
では、その大切な根っこは、どこにあるのでしょうか?
曹洞宗の禅僧に、内山興正老師という方がおられます。
明治45年に生まれ、平成10年に遷化、つまり、亡くなられました。
坐禅一筋に生きられ、また、多くの御著書があります。
その内山老師が、こんな詩を遺されております。
貧しくても貧しからず
病んでも病まず
老いても老いず
死んでも死なず
すべて二つに分かれる以前の実物
ここには 無限の奥がある
いかがでしょう?二つに分かれる以前の実物。
この二つとは、生と死、良い悪い、勝った負けた、損した得した、好きだ嫌いだという相対の世界、つまり、比べる、比較する、対立の世界です。
普段、私たちは、自分の頭の中で作り出した、この対立の世界に悩み苦しんでいるのではないでしょうか?
そして、私たちは、自分の頭で考えた対立の世界こそが全てであると、思っているのではないでしょうか?
二つに分かれる以前、つまり、一つ。
その一つの世界にこそ、私たちの根っこがある。
そして、その根っこには、無限の奥がある。
今日、これから坐禅をしていただきますが、まず、大切な事は、姿勢を正す事です。
後ろ頭で天を衝くような気持で、腰骨を立てる。
姿勢が整えば、呼吸が整い、おのずと、心も整ってくる。
坐禅をすると、煩悩や妄想が取り払われて、無になるとか、また、無にならなければと誤解している方がいるかもしれません。
しかし、実際に坐れば、かえって、いろいろな考えや思いが浮かんでくる事に驚くでしょう。
また、足腰のしびれや痛みになやまされるかもしれません。
私が坐禅を始めた頃、今と同じように太っていて、また、体がとてもかたかったものですから、片足のみを組む半跏趺坐さえも、ままになりませんでした。
一炷40分の間に、何度も足を組み換えて、その痛さに泣き出しそうになっておりました。
頭の中を駆け巡る様々な思いや、足腰の痛み。
時には、突然、畳の目ひとつひとつに、お観音様のお姿が浮かび上がるかもしれない。
時には、線香の焼け落ちる灰の音が、「ドスン」と、腹に響くような大きな音に聞こえるかもしれません。
しかし、ここで、最も大事な事は、その浮かんできた事を追いかけない。
何が起きても、相手にせず、邪魔にせず。
また、何も起きなくても、相手にせず、邪魔にせず。
そうすれば、坐禅をする中で、自分の頭で作り出した対立の世界が、決して、全てではないのだ、と必ず気づくはずです。
その気づきが、私たちの根っこへの扉となるでしょう。
坐禅をはじめるにあたって、道元禅師のご著書に、とても勇気づけられる言葉があります。
「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」
佛祖とは、お釈迦様、そして、その教えを命がけとなって信じ守り伝えてきた禅僧の事であります。
おうしゃくと読みましたが、おうせき、つまり、昔の事です。
当来は、来るべき未来のことです。
一本の道。
今、私は、お釈迦さまと同じ一本の道を歩んでいるのだ。
かつては、お釈迦さまもこの私と同じように、自分の根っこを見失った日送りをしていた。
それ故に、苦しみに引きずられたり、悲しみに迷わされたりもしていた。
ああもう駄目だと泣いた事も、どうすればよいかと悩んだこともあったでしょう。
しかし、お釈迦様は自分に根っこがある事を信じ、根っこに気づき、そして、根っことしっかりつながった歩みを進められた。
そう、私も、まず、根っこが自分にあると信じる事からはじめてみよう。
そこに自ずと、お釈迦様と同じものの見方ができてくる。
その歩みのなかで、安心、即ち、こころのやすらぎを得、そして、必ず、生きる勇気を持ち続ける事ができるのだ。
「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」
お釈迦様と同じ歩みをする、この根っこにしっかりつながった歩みをする。
道元禅師は、この道を信じて歩けと、私たちを励ましてくれております。
それでは、共に、悠々と堂々と坐りましょう。
MEMO
1、渓声山色
1、汝は是れ当成の佛にして、我は是れ已成の佛なり 『梵網経』
2、何を坐禅と名づく。此の法門の中、無障無碍なり。
外一切善悪の境界に於いて、心念起らざる。名づけて坐と為す。
内に本性を見て乱れざるを禅となす。 『六祖壇経』
3、禅とは心の名なり。心とは禅の体なり。 中峰和尚
4、光明蔵三昧 生死法句詩抄
5、数息観 随息観
6、一切の業障海皆妄想従り生ず、若し懺悔せんと欲すれば端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す。是の故に応に至心に六根の罪を懺悔すべし
『仏説観普賢菩薩行法経』
7、成仏道
平成20年度布教師養成所 テーマ 修証義2章・3章
対象 参禅者
私的所感
1、懺悔道・懺悔佛
2、人を殺めた者でも救われる道が懺悔ではないのか。
3、滅罪清浄とは何か。滅罪とは、リセットではない。
罪やとがを菩提の行願にする。
4、懺悔して、許してもらおうとなど思うな。
告白で、気持ちや責任が軽くなる事が、懺悔ではない。
5、はじめに、例話ありきの話では、法は深まらない。
6、面白い事を取り入れて笑わそうとする、それは、邪念。
※ 増田老師
1、初心の参禅者が、何を抱えているかの考察。
入門の参禅者が、どう思うかの視点。
2、仏祖の坐禅と謂うは、初発心より、一切諸仏の法を集めんことを願うが故に、坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生乃至昆虫をも捨てず、常に慈念を給いて、誓って済度せんことを願い、有らゆる功徳を一切に回向す。 『宝慶記』
ひろみつ
Posted at 13:18h, 25 10月SECRET: 0
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励まされますね。
根っこか・・・自分の根っこは何だろう?それが本当につかめたら何ものにも動じない、平安な自分に出会えるんだろうけど、それがなかなか僕ら凡人には(笑)面目ないことです。
禅のことは以前から興味があるんですが「悟ろうと思ったら、もはや禅ではない」と聞いたことがあります。
「浮かんだことを追いかけない」というのがとても響きました。
慧
Posted at 21:34h, 25 10月SECRET: 0
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響くところがあって、嬉しいです。
言葉遊びや観念の遊戯ではない歩みをしたいものです。
明
Posted at 12:01h, 26 10月SECRET: 0
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直葬という言葉を調べていて、貴ブログに巡り会えました。ご僧侶がブログをするとは驚きました。しかし、これからの時代、あなたのような方が出てこなければ、仏教やお寺は忘れ去られるでしょう。期待しております。いつかお会いしたくも存じます。
わからないことがあれば、メールさせて下さい。よろしくお願いいたします。
慧
Posted at 18:14h, 26 10月SECRET: 0
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はじめまして。
最近、直葬という言葉の検索で訪れる方が多いようです。
更新のゆるいブログですが、コメントやメールフォームも利用してみて下さい。
大橋 陵賢
Posted at 09:31h, 29 10月SECRET: 1
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冠省
養成所お疲れ様でした。懺悔道ですか・・・盛田老師が「この道しかないんだ」と夜参のときに熱くお話していただけました。
法慧さんにも本当にお世話になりこんな気までお使いいただき誠にありがとうございます。
メールアドレス ryo-ken@ccn3.aitai.ne.jp
基本、私は「なめなめ」ですが僧侶として生きていくならば悔いの残らない様、「一本の道」を歩んでいきたいです。 こんな感じでいかがですか(笑)
岐阜県 羽島市 本覚寺 大橋 陵賢 九拝
きよみ
Posted at 03:51h, 01 11月SECRET: 0
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苦しみや心配事は、自分の心が作り出しているもの、という話を聞いたことがあります。
自分を苦しめるのも悩ませるのも、また自分。 そういう見方をすると心のあり方というものについて考えさせられます。
いつも素晴らしいお話をありがとうございます。
慧
Posted at 19:44h, 01 11月SECRET: 0
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先日は失礼いたしました。
また、帰国に折には、お声がけください。