7月 17日 満月の夜の坐禅会 6月25日講話冒頭部
それでは、言の葉をご覧ください。その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。
1、 体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう 坂村真民
手放す 受け取る 調える
ありがとうございます。
先日、安積町にお住まいの、私と同年代のご夫妻が尋ねてきました。伺えば、5月に奥様のお母様を見送ったとのこと。ご夫妻も亡くなったお母様も、今までお寺との付き合いは全くなく、葬儀を出すこともはじめてのことでした。
お母様の死を告げられた病院で、ネットで葬儀社を検索し、葬儀社を紹介してくれる会社を見つけ、依頼をされました。
手配の通り、お母様のご遺体を自宅に運んでもらい、葬儀社との打ち合わせがはじまりました。
ご夫妻は「カルチャーパークの近くの墓地にお墓をつくりたいから、できれば、そこのお寺さんを紹介して欲しい」と依頼したそうです。
そう、その墓地は、徳成寺の墓地です。
葬儀社の担当者は「はい、わかりました」と申したそうです。
決して安くない費用を払いながらも、無事、葬儀は終わりました。そして、49日のことを相談しようと、お寺に何度電話をしても留守電になり、つながらなかった。
だから、今日、ここに訪ねてきたのだ、と申すのです。
しかしながら、私は、そのご夫妻とお会いするのは、初めてでした。
もちろん、そのご夫妻も、私を見たのははじめてです。
私はお母様に戒名を授けてもいないし、通夜も葬儀も行っておりません。
第一、そこの葬儀社さんから依頼を受けておりません。
ご夫妻はたいへん驚かれ、「私たちはだまされたのですか?」と仰っいました。ま、私もある意味騙されたようなものですけど、「それは、葬儀社に問い合わせてください」と申し上げました。
そして、よくよく伺えば、お母様の葬儀を行ったのは、真言宗のご寺院様でして、つまりは、真言宗の戒名を授かったわけです。
ですから、そのご夫妻に伝えました。
それは、、、もし、うちの墓地に入るのを希望されるのならば、戒名をつけ直さないといけないこと。そして、申し訳ないのだけれども、またご負担をかけることになること。けど、その真言宗のお寺さんの墓地を求めるならば問題はないこと。また、東山霊園でもいいのではと、提案をさせていただきました。
ご夫妻は、しばらく考える時間をくださいと申して、お帰りになられました。
その葬儀社を紹介する会社は、検索をすれば上位に掲載されます。
そして、その葬儀社は皆さまもご存じの有名なところです。
おそらくは、葬儀社紹介の会社にお坊さんが紐付くことを条件に、葬儀社が仕事を受けたのでしょう。
そのご夫妻はお母様の最期に心を尽くして見送ろうとされたのに、結果、その心を汚されてしまうような思いを抱いたことでしょう。
実は、このような話は珍しいことではありません。
菩提寺を持たない故のトラブルは多くありますし、逆に、菩提寺があるが故のトラブルもよく耳にいたします。
ただ、大切な人との死別で混乱をしている時に、葬儀社はどこに頼むのか、葬式はするのかしないのか、お寺に依頼するのかしないのか、戒名は必要なのか否か、という風になにもかも一気に決めなければならないとなると、ミスも多くなることでしょう。
だからこそ、頭がしっかりしているうちに、気力のあるうちに、死生観を逞しくしておくことが大切です。そして、叶うならば、菩提寺、もしくは宗教者と親密な関係を構築ができればいいかなと思います。
言の葉2をご覧ください。正法眼蔵の生死の巻です。声に出しましょう。
生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきありのちあり。かるがゆゑに仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふときには、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生。滅きたらばこれ滅にむかひて、つかふべし。いとふことなかれ。ねがふことなかれ。
訳します。生とは生まれ生きること。滅とは死のことです。
生から死にうつると心得るのは、誤りである。
生は一時の位であって、すでに前があり、後がある。
仏法では、生はとりもなおさず不生と言う。
滅も一時の位であって、また前があり、後がある。
だから、滅はとりもなおさず不滅と言う。
生と言う時には、生よりほかにものがなく、滅と言う時には、滅のほかにものがない。
こういうわけで、生が来ればただこれ生、滅が来れば滅に向って仕えなさい。
だから、滅を厭がってはならない、そして、生を願ってはならない
道元禅師は「生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり」と示されています。生は生であり、滅は滅なんだ、と。
でも、どうだろう。
私たちは、私として生まれ、何年間を生きて、私として死んで行きます。
生まれたから死ぬのであり、死は生の延長線上にあります。
また、生に限りがあるからこそ、死を意識すればこそ、生が輝いてくる。
実は、道元禅師はそのことを否定しているのではないのです。
生と死の間に大きな断絶があるのだ、と言っているのではありません。
今や、できちゃった婚、妊活なんて言葉もありますが、「生は授かる」ものです。
余命宣告なんて言葉が定着しておりますが、実は、「お迎えがくる」のです。
つまり、生も死も私個人の意思で決定するものではなくて、もたらされるものなのです。自分の思いや計らいを超えた、言わば、人智を越えた世界がある。
その人智を超えた世界、真実なるものから人生を眺めたとき、私たちが生を生で悩み、死を死で苦しむことから少し離れて、不生不滅、即ち、ホントは、生まれ出た、死んでいく、生まれて死ねば終わりというような命を生きているのではなく、人智を越えた、真実なる命を生きていると心に留めて置きたいのです。
言の葉3をご覧ください。
湛玄老師が「本来の自己」「本来のいのち」、つまり、人智を越えた世界、真実なるいのちについて示されたものを、ある修行者が詩のような形でまとめたものです。
声に出しましょう。
みんな心配いらないよ みんな心配いらないよ 何を心配しとるの
あなた 自分が生まれたと思って心配しとるでしょう
生まれたんじゃないよ 生まれたんじゃないよ
<どうゆうんでしょう・・・・・>
もともと全部 授かっておられた いのちなのであります
ひょっこり生まれてきたんじゃないんであります
ひょっこり生まれてきたんじゃないんであります
はじめのはじめからいらっしゃった あなたですよ
真のいのちは常に一つ 元来 授かっとるいのちだ
<どこに・・・・・>
いつも 今 ここ 一切に 一切に我がいのちは充満せり
縁によって現れてくるんだ ・・・・ただ 現れる
縁によってしばらく姿を隠しても 何処へも行かない必ず現れてくる縁を
みんな一人ひとりは つくっておりますから 必ず現れてくる
いのちは永遠なり 不滅のいのちの主人公なり
絶対に無くなっておしまいというような
さびしい・・・かなしい・・・つらい・・・不安なものはないぞ
みんな 心配いらないよ みんな 心配いらないよ
ありがとうございます。
正直に申し上げて、一足飛びに、ここまでの話をうなずける人は少ないと思います。
私もずいぶんと悩みました。恥ずかしい思いもたくさんしました。
この自分をなんとかしたくて、何かになりたくて、何もなれなくて、多くの人を傷つけてきました。
けれども、ようやく、損した得した、勝った負けただけではない人生の風光があること、そして、実は、本当に護られ切っていることを実感できるようになりました。
言の葉4をご覧ください。声にだしましょう。
奇跡とはあり得ないことではなく、今ここに自分が在るということ。
幸せとは未来に起ることではなく、今ここに起きていること。
そして、そのことを意識できること。【護られている。導かれている。ありがたい。】
ありがとうございます。
今、このことを頷けなくても、どうか心に留めて置いて頂きたいと思います。
今日は葬儀の現場の生々しい話から、翻って、命そのものを見つめてみました。それぞれに響くところがあれば嬉しく存じます。
【普回向】
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