11月 15日 幸せになる覚悟
本日はご多用の中、全機会にお集まりいただき、ありがとうございます。
また、今回は、新潟や大阪からも足を運んでいただき、ご縁に感謝いたしております。
今日の全機会、東儀秀樹先生に【すべてを否定しない生き方】と題して、ご講演をいただきました。
ご自身の体験を通しての、ものの見方をご披露いただきました。
みなさんは、どのように受け止められたでしょうか。
すべてを否定しない、、、確かに素晴らしいものの見方です。では、このものの見方を、明日から、いや、今ここから、皆さんはできるだろうか?
どうでしょう。
難しいですよね、、、私たちは、いいことを聞いて、ああ素晴らしいな、と思っても、そうだ真似をしような、と思っても、、、いや、まぁ、明日からはじめよう、とそんなふうに思ってしまって、、、、結局、なにも変わらない。
なぜでしょうか?
思うのです。
それは、幸せになる覚悟が足らないからなのです。
そう、幸せになる覚悟です。
すべてを否定しない態度、すべてを否定しない考えかた、ものの見方があると聞いて、なるほどな、真似をしたいな、と思ったならば、、、、今すぐに、俺も、私も、その通りにやってみるぞ、と覚悟を決めることです。
途中、失敗しようが、挫けてしまいそうなことが起ころうが、覚悟を決めて生きていくのです。
数年前のことですが、ご縁を頂戴した70歳の男性がいました。
彼は、息子さんの自死が起因となって、心の調子を崩されました。あまりにひどい状態となり、1年半ほど入院されました。
入院中、仕事ができないものだから、自分が興した会社の社長職を解任されてしまった。
そして、悪いことは続くもので、同じ頃、奥様が家を出て行きました。
つまり、彼は、大切なものを一気に失ったのです。
息子さん、奥様、仕事、社会的な地位、健康、そして、あたりまえの暮らし、、、それらを一気に失い、たった一人の生活になってしまった。
結果、彼は何度も自殺を試みます。
でも、死にたいのだけれども、死ねない自分がいた。
死にたいのだけれども、生きようとする自分がいた。
毎日のように、逢魔が時、つまり、夕暮れ時になると居てもたってもいられなくなる。死ななければならない、と思ってしまう。
それが、ひどい時期になると、朝から晩まで、死にたい、死ねないの繰り返しとなってしまう。
私は彼とご縁をいただいて、4度、面談いたしました。
彼は、とても律儀な方で、私の著作をすべて読み終え、これほどまでにと思うぐらい、マーカーで線を引いてました。
そして、彼はいつも私との面談のなかで、心に響く言葉があれば、すべてノートにとられていました。
彼と出会って半年の間、彼は死にたくなると、辛くなると、時間かまわずに、たとえ深夜であっても、私の携帯に電話をかけてきました。泣きながら、「さみしい、死にたい」と訴えてました。
4度目の面談で、私は彼に伝えました。
今日はノートを取らないでください、あなたは、いい言葉を集めるためにここに来たわけではないでしょう。
今日は厳しいことを申し上げますが、、、、私は、既に、あなたに対して、お伝えすべきことは全てお伝えしております。
あなたの心持が変わるように、呼吸や睡眠、生活のリズム、投薬のこと、そして、仏さんの世界についてもお話をしました。
でも、あなたは、何一つ実践、実行されなかった。
そして、今も、辛い、死にたいと訴え続けていらっしゃる。
つまり、あなたは、今の状態を抜け出したいと思いながらも、今の状態に居心地の良さを感じているのではないだろうか。
もっとはっきり言えば、自分で悩みたいから、悩んでいるのではありませんか、とお伝えしました。
すると、彼は激しく首を横に振っておりました。
私が、彼に大きな変化をもたらせようと願って伝えた、最後の言葉も、彼には響きませんでした。
私の力不足だったのです。
正直に申し上げて、私自身、心が折れてしまいそうな経験をずいぶんと味わってきました。
悲しい事柄、思い通りにいかなかった出来事、大切な人との死別、家庭の不和、人間関係の軋轢。
心がちぎれてしまいそうで、坊主なのに、神や仏もあるものかと思った日もあります。
自分の心なのに、全く言うことを聞かない心に気づいた日もあります。
私は、今月、56歳になります。
今、このお寺で、私の言うことをきかない猫と暮らしております。
そして、生活のために、東京に出稼ぎに行き、山口県に住む両親の介護のことを気に病み、別れた女房と暮らす大学生の息子への学費や仕送りに頭を悩ましている自分がおります。
そんな私が、最近、ふと思ったことがあるのです。
それは、、、「俺は幸せなのだろうか」、と。
そう思った次の瞬間、なんのためらいもなく「俺は幸せだ」と思えた。
いろんなことを抱え、至らない、出来損ないの自分なんだけれども、それでも、、、「俺は幸せだ」と思えた。
禅の道に飛び込んだ時、頭を剃ってくれたお師匠様が、「お前さんの今、ここが、宝の在り処だ」と教えてくれました。
でも私は、それを聞いて、、、、
この人は何を言ってるんだ、その今、ここが苦しくて生きてるんじゃないのか、その今、ここをどうにかしたくて、寺に飛び込んだのじゃないのか、とそう突っかかっていきました。
そんな私が、「俺は幸せなんだ」と思えたのです。
そう、、、幸せとは、何かを成し遂げたから、何かを手にしたから、幸せになるのではないのです。
今、このままの私で、幸せなのです。
申すまでもなく、私たちは、幸せになるために、生まれてきました。
けれども、目に映る物だけを求めて、誰かと比較し、結果、苦しんでいる人が多いようです。
何かを成し遂げられない俺は、不幸だ、とか。
何かを手にすることができなかった私は、可哀そうな人生なんだ、と下を見てしまう。
でも、本当はそうではない。
私たちは幸せになれる、私たちは幸せである。
そのことに気づくには、まず、幸せになるんだと覚悟を決めなければならない。
その方法の一つが、先ほど東儀先生が講演された「すべてを否定しない」という生き方なのでしょう。
だから、ああなるほどな、と思ったならば、それを実践していくのです。
今日は特別に、皆さんに一つ、禅のもののみかた、幸せになるものの見方をプレゼントをいたします。
それは、大本山永平寺を開かれた道元禅師のお教えです。
やはらかなる容顔をもて、一切にむかうべし × 2
覚えていただきたいので、一緒に声に出しましょう。
私が先導いたしますから、それに続いてください。
やはらかなる容顔をもて、一切にむかうべし × 2
ありがとうございます。
やはらかなる容顔というのは、あなたの一番素敵なお顔で、ということです。つまり、あなたの一番素敵なお顔で、一切にむかいなさい。一切というのは、嬉しいこと、楽しいことは勿論ですが、悲しいこと、苦しいこと、思い通りにならない事柄に出遭ったとしてもです。つまり、あなたの一番素敵なお顔で生きていきなさい、と道元禅師様は励ましてくれています。
そう、だから、まず、やはらかなる容顔で生きていくと覚悟を決める。
そして、実践していく。
その歩みなかで、現れた事柄は私の苦しみではなく、私の課題となっていく。
つまり、苦しみに苦しんでいた私が、その苦しみに支えられて生きていることに気づくのです。
苦しみの今ここが、幸せの今ここに変わっていくのです。
かつて、私は、頭を剃った頃、願ったことがあります。
それは、、、「何があっても、大丈夫な自分になる」でした。
それ以来およそ30年、なかなか難しいですね。
しかし、思うのです。
私は、今ここの私の場所で、いろんなことを抱えてはいるけれども、私の課題を果たしていく幸せを十分に味わうことができています。
とても幸せだと思います。
どうぞ、皆様も、それぞれの場所で、おのおのの課題を果たし、幸せを手にしていただきたい。
尚、全機会は年二回、予定しております。
本年は、田代まさしさんと東儀秀樹先生でした。また、来年も、皆さんと共に学べる場を共有したいと考えております。
本日は、お越しいただき、ありがとうございました。
歳末の声が聞こえ始めました。どうぞ、お大切にお過ごしください。
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