大童法慧 | houe_admin
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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Author: houe_admin




10月 13日 悲嘆

なぜ、こうも悲しいのだろうか? なぜに、こんなにも辛いのだろうか? なぜ、ここに、あの人がいないのだろうか? この声は、あの人に、届いているのだろうか? この思いは、あの人に、伝わっているのだろうか? 何をもってしても、埋め合わす事のできない空虚な気持ち。 何をもってしても、変えることの出来ないあの人への想い。 日ぐすり、時ぐすり、そして、佛法のくすり。 悲嘆の回復には、長い時間を要するかもしれないけれど・・・ あなたと、ご縁があったのだから、お付き合いいたしますよ。
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10月 06日 生きて今あるは

生きて 今あるは この事に あわんがためなり これは、私のお師匠様の言葉の一つです。 この事とは、何でしょうか? 惚れに惚れて一緒になった人の事でしょうか? 大切な大切な血を分けたわが子の事でしょうか? 節約に辛抱を重ねてやっと建てた家の事でしょうか? 百年の恋も、一夜の浮気に破れ、誓い合った仲も罵り合う事に・・・ 大きな期待をかけ、手塩にかけて育てた子も、今じゃ音沙汰なし・・・ 30年のローンを組んで、片道2時間、夫婦も親子も会話なくなって・・・ では、この事とは何でしょう? 各人において、大切なもの、かけがえのないものがおありでしょうが・・・ やはり、折角、この世に生まれたならば、・・・ それが無くなるものではなく、失うものでもなく、真実なるものに、永遠なるものにお会いしてみたいな、と思うのです。 禅門では、「この事」を本来の面目と言います。 あるいは、本来の自己ともいい、あるいは、本来のいのちともいいます。 実は、本来の面目という言葉に出逢うにも、本当は、たいへんな事なんですけれども・・・やはり、佛縁が深くなくては、あえないものです。 しかし、その言葉ひとつで、安心<あんじん>できるかというと・・・ 残念ながら、そうではありません。 言葉だけでは、所詮は、絵に描いた餅にすぎません。 この事は、言葉や文字で現し難く、やはり、刻苦精励して冷暖自知するより他がありせん。 この事を知らんがために、多くの修行者が命懸けで師を求めました。 ある老師は、その問いに、黙したまま、一本の指を立てました。 ある老師は、庭にある柏の樹とお答えになりました。 薄い粥をすすり、襤褸を着て、托鉢や作務で己を空しくしながら、与えられた公案をひたすらに参究する。 師に悪態をつかれ、どつきまわされても、三拝九拝しながら、その教えを乞うていく。 師が「カラスは白い」と言えば、弟子は、「はい」と応じる事。 頭の良い方は、黒いじゃないかって、反論したくなるでしょうけれど、 師が白いと言えば、白い世界なのであります。 じゃあ、人権はないのか?自分はないのか?って思うのは、やはり、頭の良い方ですね。そこに、私とか損得勘定はないんですね。 ただ、師を信じる。師を信じるとは自分を信じる事でもあります。 師とは、全てを奪ってくれる人の事だと思います。 だからこそ、「正師を得ざれば学ばざるにしかず 『学道用心集』」です。 すぐに、騙されたとか、裏切られたとか言うのは、真剣に求めていないからではないでしょうか? もっとも、これをカルト宗教のような洗脳と紙一重と思う方もいらっしゃるかもしれませんが・・・ その当時の写真を見て、今、丸々と太った自分に反省しております。 酒がいかんかったかな。何でも残さずに食べるし。 今月から、私は、褚遂良の『雁塔聖教序』を臨書しております。 これが、実に難しい。 いわば、見て書くだけの事なんだけれども、それが、できない。 強い線を出す事だけを考えなさい、と教えられても、やはり、できない。 字など名前が読めりゃいいともいいますが、道を究めんとすれば、一の字さえも、なかなか書けないのです。 「とにかく、呼吸。それにはやはり、書いて身につけるしかない。たくさん書かなきゃ、だめだよ」と、毎回、叱られております。 趣味で筆を持つのなら、楽しめばいいんでしょうけれども・・・ 人生の一大事を、楽して掴もうというのは虫のいい話だと思います。 先日、知人の頼みで、出家したいと言う方とお会いしました。 数年後に、定年を控えている方で、話を聞いて欲しいとの事。 お会いして、すぐに、まだその時節ではないな、と感じました。 基本的な問いにも答えられず、かといって、無常観や大きな疑念があるでなく・・・ただ、雰囲気に憧れていたんですね、禅の世界の。 定年後、小遣い稼ぎのために、葬式法事をするお坊さんになるのなら、話は別ですが・・・坐禅会や仏教の勉強会から始めては、とアドバイスしました。 帰り際、彼はこう言いました。 「人生や生き方について、考えた時間を持ったり、誰かと話をしたりしたのは初めての事でした」と。 彼は60歳近くになってはじめて、この事がある、と知ったはずです。 この事あり、と知る。 この事あり、を信じる。 この事あり、と単提する。 この事あり、を体現していく。 人それぞれに立場があり、勿論、皆が修行者ではありませんが・・・ それぞれの方の環境や境涯おいて、「この事」を互いに支えあいながら、深めていく僧伽<サンガ>を作りたい・・・大きなおなかを抱えながら、こんなことを切に願っております。 磨いたら 磨いただけは 光るなり 性根玉でも 何の玉でも 山本玄峰老師
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9月 13日 お持込料

先日、ご法事の依頼がありました。 この方は、お檀家ではなく、グリーフワークの会でご縁ができた方です。 ご主人様の7回忌ということで、某民間霊園でお勤めしました。 ご法事を終えての設斎での話。 施主「お持ち込み料という事で、霊園から壱万円を請求されました」 拙僧「何を持ち込んだんですか?」 施主「法慧さんの事ですよ」 お持ち込み料って?、 施主が、縁のある僧侶に法事を依頼をし、その僧侶を霊園に<持ち込み>する料金の事。 僧侶の同行料もしくは入山料の名目で請求される。 壱万円の価格設定が多いようです。 因みに、お塔婆にも持ち込み料が発生します。お塔婆1本につき、千円。 霊園が紹介する僧侶には、当然、持ち込み料はかからないけど・・・ 霊園によっては、僧侶の紹介手数料として壱万円を請求される、と聞く。 持ち込んでも壱万円、紹介されても壱万円。 でも、壱万円あれば・・・?
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9月 09日 Death be not proud

英国の聖職者であり、詩人でもあったジョン・ダンの詩 死よ驕るなかれ お前は 運命や偶然や王侯や絶望した人間のしがない奴隷 そして 毒薬や戦争や病気のしがない同居人にすぎない 死よ 威張るなよ 人がお前のことを 強くて怖いと言ってても お前はそれ程のもんじゃない お前がやっつけたと思っている人たちにしても 死んではいないんだ 哀れなやつめ お前はこの俺すら殺せはしない お前とよく似た休息と眠りからでも喜びが溢れ出ている ならば お前からはもっと多くの喜びが溢れ出るはずだ 敬虔な人たちがお前と直ちに旅立とうというのも不思議ではない お前が肉体を休め 魂を解放してくれるのだから お前は運や偶然 王侯や絶望者の単なる奴隷 そして 毒薬や戦争や病気と単に一緒に暮らしているだけだ 麻薬や魔法でも眠りは得られて しかも お前の一撃よりも効果があるのだから どうしてそんなに威張れるんだ? つかの間の眠りが終われば 永遠の目覚めがやってくる そして死は二度とやってこないんだ 死よ お前がそのとき死ぬんだよ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 生死問題の入り口の一助に。 死と向き合う事の難しいこの国、この時代に。 禅宗坊主の伝えられる事は・・・ さあ、辛気臭い面持ちはやめて、まず、坐りましょう。
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9月 04日 自分が一番愛しい

コーサラ国のパセナーディ王はマリッカー夫人と、高楼に登って雄大な眺めを楽しんでいた。 王は、ふと夫人に問いかけた。 「あなたは、自分自身より愛しいと思われる者があるか?」 しばらくの沈黙の後、夫人は優しく正直に、こう答えた。 「私には、自分より愛しいと思われる者は考えられません」 王は、最愛の人からの「何よりも、あなたが愛しい」という言葉を、期待していたのかもしれない。 しかし、王は、その言葉の重さに愕然としながらも、その意味を正しく受け止めていた。 今度は、夫人が王に問いかけた。 「王は、ご自分よりもっと愛しいと思われるものがおありでしょうか?」 王は、静かに答えた。 「私も、自分自身よりも愛おしいと思われるものはない」 この話を聞いたお釈迦さまは、深く首肯<うなず>き、次の偈を説かれた。 「人の思惟<おもい>は、何処へも行くことができる。 されど、 何処へ行こうとも、人は己れより愛しいものを見いだすことを得ない。 それと同じように、すべて、他の人々にも自己はこのうえなく愛しい。 されば、 おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ」 自分よりも愛しい者はいない・・・ これは、涙まじりにマイクを握り、下手なカラオケをうなる事ではない これは、避妊もせずに一夜を遊び、同意書をもって中絶する事ではない これは、学業成績の不振を理由に、親の建てた家を放火する事ではない これは、色情や性欲を満たそうと、力ずくで女を組み伏せる事ではない これは、己ひとりのみ高しとして、気に入らない者を殺める事ではない これは、利己主義のエゴイストの宣言ではない これは、自己陶酔のナルシシストの独り言ではない 自分さえよければ、それでよし。法に抵触しなければ、問題なし。 そして、人が見ていなければ・・・やっちまえ‼ ・・・本当は、そんな、安い自分でもないだろうに。 自分よりも愛しい者はいない・・・ この言葉には、やはり、含羞や恥じらいがなくてはならない この言葉には、やはり、人の持つ愚かさの発見がなくてはならない この言葉には、やはり、その愚かさの反省と赦しがなくてはならない
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8月 24日 勝者はどっち?

その若者は、かつて、とある宗教に帰依していた。 しかし、お釈迦様の教えに出合い、帰依し、出家した。 面白くないのは、かつてのお師匠さん。 大切な弟子をたぶらかした、とご立腹。 お釈迦様のもとを訪れ、激しい悪語をもって、罵倒し、誹謗した。 けれど、お釈迦様は、ただ黙していた。 そこで、お師匠さんは、大威張りで言い放った。 「沙門よ、なんじは負けたのだ。沙門よ、わたしは勝ったのだ」 すると、お釈迦様は、静かに答えた。 「雑言と悪語とを語って、愚かなる者は勝てりと言う。 されど、まことの勝利は、堪忍を知る人のものである。 忿<いか>るものに忿りかえすは、悪しきことと知るがよい。 忿るものに忿りかえさぬ者は、二つの勝利を得るのである。 他人のいかれるを知って、正念におのれを静める人は、 よくおのれに勝つとともに、また他人に勝つのである」 これを聞いたお師匠さんは、猛反省。 やがて、機縁が熟し、お釈迦様のもとで出家したという。 いくら、声が大きても、いくら、すごんでみせても・・・それは、虚勢。 他人に自分の考えを押し付け、折伏したとしても・・・それは、まやかし。 勝者は、どっち?
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8月 10日 生まれし君に

おめでとう、よくがんばったね。 約束どおり、ちゃんと、お母さんのお腹の中にいてくれたね。 お父さんから、さっき、電話があったよ。 「母子ともに健康です。俺も妻も、俺の両親も妻の両親も、みんな、泣いています。ありがとうございます」 どうだい?目に映るものは?この国の感じは?この時代の空気は? やって、いけそうかい? でも、絶対に、逃げてはダメだよ。 随分辛い思いもして、やっと、この国に、この時代に、この親のところで、ご縁が熟して現れたんだからね。   やよあか子汝れはいづちの旅をへて われを父とは生れ来ませし 吉川英治『川柳詩歌集』 【意訳】 やあ、ようこそ。ようこそ。 生生世世、長い時間をかけて、生まれ変わり死に変わりしながらも 私との深い深い因が生まれ、育まれ、時を得て、今・ここに、縁が熟した。 だからこそ、私を父親としてこの世に誕生したんだね。 どうぞ、よろしくね。 目に映る物しか信じない人が多い時代だけれども・・・ 生きる意味や人生の目的を見失わせる罠の多い時代だけれども・・・ 悲しい出来事に襲われたとしても 辛い立場に追い込まれたとしても 病気や怪我に悩まされたとしても 生きていてつまらなくなったとしても 大切な人との別れに心を乱されたとしても もう死んでしまいたいと思う事があったとしても そして、生の呻きを体験する感性を持ったとしても でもね・・・忘れてはいけないよ、逃げちゃダメだって事。 絶対に、絶対に、大丈夫だからね。 大きな大きな、たとえようもない大きな、このいのちの煌きの中で、 君は、この父母を縁として、人間として命を授かり、その体を預かったのだ。 だから、命は、この大きな大きないのちに護られどおしに護られている。 絶対に大丈夫、心配いらないよ。 君の名前は千尋<ちひろ>、気に入ってくれるかな? 千とは、たくさんという意味。つまり、たくさんの人と出会い、たくさんの本を読み、たくさんの場所に行き、たくさんの体験をして欲しい。 その中で、きっと、真実の在りかに気付く事になるだろう。 そして、その真実の在りかを一人でも多くの人に伝えて欲しいんだ。 君なら、きっとできるよ、千尋ちゃん。
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8月 04日 直葬

直葬<ちょくそう>という言葉を知っていますか? 産地直送の事では、ありません。 お通夜も葬儀も告別式もせずに、直接、火葬場でお別れするスタイルの事。 死亡した病院や自宅から、火葬場へ直行。 直葬の直は、直接の直なのか、直行の直なのかは、直情径行の直なのか・・・不勉強のためわかりません。 火葬の際に、炉前でのお経を頼む人もある。 10分程度のお経で5万円が相場。別途、交通費やお膳料も請求。 もちろん、ご紹介のお坊さんは薄情で、収骨まで一緒にいてくれない。 直葬の直は、お坊さんの直行直帰の直、お布施を貰えば直ぐに帰るの直、なのかもしれませんね。 この直葬が増えている傾向にあるらしい。 故人に家族や身よりがいないからという理由だけでなく・・・ 家族の絆の弱体化や地域社会との関係が希薄になった点。 この世限りの人生、俺様一人の人生という人生観の蔓延。 先祖観の変化、つまり、先祖は親か祖父母くらいまでという考え。 そして、菩提寺を持たない人の増加。 例えば、長期にわたる医療や介護にお金がかかり、葬儀をするお金が残っていない事情もある。 例えば、子供に迷惑をかけたくない、あるいは、お葬式に大切なお金を使うのなら可愛い孫に残してあげたい、と願う人情もある。 直葬の根源は、葬儀や僧侶に対する不信感。 マスコミは葬儀は金がかかるものと喧伝し、騙されたの体験談ばかり。 葬儀社は価格競争にはしり、お得感と感動を売り物にする。 坊主が勝手に付けた戒名は高額であり、その意味すら教えてくれない。 赤や黄のべべを着て、有り難くもない儀式以下のショーを見せつけられる。 そして、参列者が多くなればなるほど、損をするかのような錯覚・・・ 本当は、手ぶらで焼香に来る人などいないのに。 そして、不信感は拒絶に変化した。 悪しき因習の踏襲は避けて然るべきだけれども、しかし、安易な選択は、後に、迷いを残す結果にもなる。 短絡的思考の持ち主は、案外、霊の指摘には弱く、程度の低い自称霊能者にたかられる。 現実に、意識の低い悪徳葬儀社だっている。 現実に、品も学も自戒も法力もない坊主だっている。 しかし、そのことを葬式の時に、はじめて気付いたとしたら、・・・お気の毒だけれども、それは、あなたの怠慢でしかない。 なぜなら、葬儀社の情報や評判は、たやすく手に入る。 僧侶の人品を知らないのは、日頃、お寺にいかない証拠。 現今の仏教は葬式仏教と揶揄されて久しい。 しかし、葬式仏教というのは、僧侶だけではなく、身内が死んだ時にだけ寺院に頼むという関係、平素は仏法に無関心な者をも批判している言葉。 人が亡くなると家族に負担をかける事は間違いないが、それが迷惑かどうかは、生前の家族関係次第。 人は、生まれる時も死ぬ時も、金はかかる。 葬儀に見栄は必要ない。 大切にしなければならない事は、潤いのある別れの時間。 「自分は直葬でいいよ」と、両親に言われたら・・・あなたは、どう答えますか?
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