大童法慧 | 不害の説法
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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4月 15日 不害の説法

「そのままのあなた」からはじめる『修証義』入門
   ~ 生死の問いを31節に学ぶ ~ 

「同事」の節  あなたを主語にした意訳 抜粋

 

お釈迦さまの「不害の説法」を思い起こしましょう。

 

かつてコーサラ国のパセーナディ王とマッリカー妃は「自身が一番愛しい」という心に至った己に驚き畏れ、その正否をお釈迦さまに問いました。

 

すると、お釈迦さまは「人の思いは、いずこへもゆくことができる。されど、いずこへおもむこうとも、人は、おのれより愛しいものを見いだすことはできぬ。それとおなじく、他の人々にも、自己はこの上なく愛しい。されば、おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ」とお応えになられたのです。

 

それは、自我愛を否定するのではなく、人間が持つ「内なる暴力性」を慈悲心と不害という智慧で離れていきなさいとのお示しでした。

 

ですから、同事は、「他者の傍らにいて何を為したのか」という結果のみを問うているのではないのです。そこに至るまでの、あなたの心に湧き上がってくる様々な感情、言葉の遣り取りや沈黙、空気感や時間の軽重など、そこに起こるダイナミズムなはたらきを味わいながら、「人間として生きる」ことを学ぶ過程をも含んでいるのです。

 

つまり、何よりもまず「己とは何か」について深い省察をしていくことであり、そのうえで手にした慈悲心を胸に、誰かを傷つけるのではなく容認し、何かを害するのではなく容受し、「共なる私たち」を痛めない行なのです。

 

 

 

 


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