大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 1月29日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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3月 06日 満月の夜の坐禅会 1月29日講話

それでは、言の葉をご覧ください。
その、1番を、まず、声に出しましょう。私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
緊急事態宣言のなか、坐禅会を開催することは不謹慎だという考え方もあろうかと思いますが、こんな時だからこそ、しっかりと自分と向かい合う時間を大切にしなければならないとも思うのです。やはり、自分が自分であることの根拠を互いに見失いたくないと思います。

 

この武漢発のウィルスから学ばなければならないことの一つに、この世には、絶対に安心で、絶対に安全な場所はないんだと知り置く事だと思うのです。

 

このウィルスは目には映らないけれども、私たちに、病の危険さ、死の恐怖を突きつけています。日々、報道される感染者数、重傷者数、ベットの空いている割合、そして、死者。
病や死というものは決して遠くにあるのではなくて、すぐそばにあるんだと、とこのウィルスは警告している。

 

けれども、どうだろう。
実は、このウィルスの力を借りなくても、私たちの生の傍らには、必ず老や病や死があります。
私たちは日一日と老いて、自分自身の身体であるにもかかわらず病が発生したことを完全に知覚はできず、そして、必ず、時節至れば、死んでいく命を生きています。

 

いつまでも元気に、いつまでも楽しく、生き続ける事はできません。
このことを、まずお互い肚に据え置いておかなければならない。

 

じゃあ、そんな儚い、どうせいつかは死んでしまう命にどんな価値があるのだろうか。
どうせいつかは死んでしまう命を生きる意味はなんだろうか。

 

ここですね、大切な点は。
あなたは、何のために生きているのだろうか。

 

映画『男はつらいよ』の第39作『寅次郎物語』で、寅さんは高校生になっている満男に「伯父さん、人間は何のために生きてるのかな」と問いました。
すると、寅さんは、こんなふうに答えた。
「おまえは難しいこと聞くなァ。何と言うかな、あー生まれてきてよかったなあって思うことが何べんかあるじゃない。そのために人間、生きてんじゃねえのか」。

 

人間は、何のために生きているのだろうか。
とても、青臭い質問ですが、これに答えられる人って、あまりいませんね。日々の暮らしに追われている人が多い。この一日の喜怒哀楽に振り回されていないだろうか。
しかし、日々の暮らしをないがしろにはできないお互いです。

 

「人間は、何のために生きているのだろうか」
言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。・

吾人は成仏道の過程にある

 

ありがとうございます。
これは、原田祖岳老師の言葉です。
一般に、成仏というのは、死ぬことを指しますけれど、本当はそうじゃない。成仏というのは、文字通り、佛に成ることが成仏なのです。

 

仏に成るといわれても、ピンと来ないでしょう。いいかえれば、成仏とは覚者になること。
この世の真実に気づいた人のことです。
もうすこしかみ砕いていえば、この世に真実なるものがあるんだと知り、そのことに気づき、それを体現していく歩みが、成仏道の過程という意味です。

 

だから、いつでも、どんな時であっても、あなた自信の「今・ここ」がかけがえのないものとなる。
辛く悲しい「今・ここ」にも意味があり、ずるをしたり、それがばれたりした「今・ここ」も経験しなければならなかったものなんだと受け取れる。

 

コロナの時代であろうとも、そうでなくても、私たちにとって、生老病死はいつもリアルなものです。だからこそ、「人間は、何のために生きているのだろうか」という視点を、もっと踏み込んで、「私は、何のために生きているのだろうか」という視座を持ち続けたいと思うのです。

 

言の葉3をご覧ください。声にだしましょう。

瑞巌和尚、毎日自ら主人公と喚び、復た自ら応諾す。及ち云く「惺惺着、喏」。他時異日、「人の瞞を受くること莫れ、喏喏」 『無門関』第十二則

 

ありがとうございます。意訳します。
昔、中国の唐の時代に、瑞巌という禅僧がいました。
瑞巌さんは、毎朝、自分に向かって「おーい、主人公」と呼びかけ、
「ハイ」と返事をしていたそうです。
毎日、「主人公、目を覚ましているか?人を欺くことも欺かれることもあってはならないぞ」と、自分に向かって言っていました。

 

これは、「主人公」の公案といわれるものです。
傍から見れば、独り言を言ってなんだか変なお坊さんですね。
じゃあ、この瑞巌さんの言う「主人公」とは誰のことだろうか。

 

まず、考えるのは、瑞巌さん自身のことです。
私たちの人生の主人公は、私たち自身です。あなたの人生の主人公は
そう、あなた自身であって、他の誰にも邪魔されるものであってはならないし、あなた自身も、他の主人公を脅かすようなことはしてはならない。

 

普通に考えれば、主人公とはそんなものでしょう。
けれども、それは普通の倫理です。禅は、もっと深く物を見なければなりません。

 

あなたの主人公は、老いても、自分自身がわからなくなっても大丈夫か?
あなたの主人公は、ある日突然、医師から余命を宣告されても驚かないか。
あなたの主人公は、今日、死の時を迎えたとしても、動じないか。

 

どうでしょう。
禅は、私たちの思いや計らいを超えた、私という小さな自我を超越した、命の根源に眼差しを定めているのです。

 

じゃあ、その主人公に気づくにはどうすればいいのか?
言の葉4をご覧ください。声に出しましょう

趙州、因に僧問う、某甲乍入叢林、乞う師指示し給え。
州云く、喫粥了や未だしや。
僧云く、喫粥了也。州云く、鉢盂を洗い去れと。
其僧省あり。

 

ありがとうございます。意訳します。
ある時、一人の僧が趙州に問いました。「私は僧堂に入ったばかりの新参者です。師よ、どうか指示をお与え下さい。」
趙州禅師は応えました。「おまえさん、朝ご飯は食べたか。」
「はい、食べました」と僧は答えた。
「それでは持鉢を洗っておきなさい」と趙州禅師は示されました。
結果、その僧は真実なるものに気づいた。

 

なんともないような話ですね。
朝ご飯、食べたか?はい、食べました。じゃあ、そのお椀を洗いなさいよ。
偉い禅師様に、思い切って道を尋ねた僧侶が、肩すかしにあったかのような印象です。

 

これはどういうことだろうか。

 

言うまでもなく、私たちの暮らしは、とてもリアルなものなんです。
朝、目が覚めたら、朝の坐禅をして、お勤めして、外掃除をして、佛様のご飯をお供えして、自分の朝ご飯の準備をして、朝ご飯を食べて、その食器を洗う。

 

悟っていようが悟っていまいが、真実なるものに気づいていようがそうでなかろうが、私はこのことを毎朝行う。
寒い日は布団から出たくないな、飲み過ぎた朝には気持ちが悪いな、そんな思いを抱きながらも、その「今・ここ」を生きるしか、私には道がないのです。

 

楽をしようと、ずっと寝っころがってばかりもいられない。
電話が鳴れば電話にでなければならない。
朝から酒を飲んでは、その日片付けなければならない仕事は終わらない。

 

私は私の場所で、私の「今・ここ」を、私の命を生きる事で、「主人公」へ呼びかけ続けている。
つまり、日々の暮らし抜きでは、真実を語ることなどできないのです。

 

皆さんも、また同じです。
日々の暮らしを忘れて、ないがしろにして、真実なるものを手にすることはできません。
このことを、しっかりと心に留めておきましょう。

 

 

言の葉5、6をご覧ください。声にだしましょう。

日日是好日  相田みつを

ふっても てっても
日日是好日
泣いてもわらっても
きょうが一番いい日
私の一生の中の
大事な一日だから

 

花は嘆かず  坂村真民

わたしは
今を生きる姿を
花に見る
花の命は短くて
など嘆かず
今を生きる
花の姿を
賛美する
ああ咲くもよし
散るもよし
花は嘆かず
今を生きる

 

ありがとうございます。
今日は、あえて多くを語りません。

 

泣いてもわらっても きょうが一番いい日
私の一生の中の  大事な一日だから

 

このことを、互いにしっかりとかみしめておきましょう。

【普回向】


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