大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 10月3日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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10月 17日 満月の夜の坐禅会 10月3日講話

それでは、言の葉をご覧ください。
その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に

光を持とう

どんなことが起こっても

どんな苦しみのなかにあっても

光を消さないでゆこう  坂村真民

 

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
10月になりました。今年も、残すところ3ヶ月。
ホント、私は一体、何をしてきたのだろう、という忸怩たる思いであります。

 

先日、面白い言葉と出会いました。
言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。
とりあえずの3だけ・・・今だけ・金だけ・自分だけ

 

ありがとうございます。これは、現代の多くの人にあてはまる価値観だというのです。なるほど、とりあえず、今がよければいい。お金があればいい。お金さえ手にすればいい。そして、自分さえよければいい。そんなところでしょう。

 

しかしどうだろうか。
今さえよければいいというのは、とても刹那的な響きがあります。
今、楽しければ、今、おなかがいっぱいになれば、今、つらいことがなければいい。
たとえば、飲酒運転は絶対にしてはならないことだけれども、とりあえず、帰り道、事故をしなければ、警察に捕まらなければ、ばれなければいい。そんな考え方をしてしまう人もいる。だから、飲酒運転はなくならない。

 

今が大切なことは間違いのないことですが、その今というのは、どういうものだろうか。
この今は、私の人生のすべての結果、結集であります。過去のどの一つを欠いても、この今はありません。それは、例えば、昨日の夜、ワインを一本を開けたからの今であり、今朝、49日に相談をしたからの今であります。
また、例えば、多くの人に迷惑をかけてやっと生きてきた今であり、ああもう死んでしまおうかと考えた日があったからこその今でもあります。

 

そして、この今は、いつも、次の今への出発点でもあります。
この先、何年、いや、何日生きるかはわからないけれども、その起点となるのは、いつも今なのです。

 

つまりは、過去と未来のすべてを含んだ今であります。
そうなると、享楽的で、刹那的な今さえ楽しければいいという考えでは、今に対する思いがやや足りないのではないだろうか。
今というものは、過去の懺悔と未来への気遣いに満ちたものではないだろうかと思うのです。

 

次に、金さえあればいい。金を手にすればいい。
たしかに、お金は大切です。私たちの暮らしは、手にしたお金の多寡でいくらでも豊かになります。稼ぎが多ければ、いい車に乗って、大きな家を建て、美味しいものをたらふく食べ、華やかな世界にも足を踏み入れることができ、人脈も増える。
お金さえあれば、経済的な問題は解決され、今日一日の食事に悩まなくても済みます。とても素晴らしいことです。

 

たしかに、お金はあった方がいいですね。
でも、そのために、誰かを騙したり盗んだりしてもいいのだろうか。
先般、ジャパンライフの会長が逮捕されました。また、オレオレ詐欺の報道も後を絶ちません。
私のメールにもよく来るのですが、「あなたのアマゾンのアカウントは凍結されました。新しいアカウントを作成してください」と言い寄って、カード情報を抜こうとする輩もおります。

 

少し、話がそれますが、私はアマゾンのへービーユーザーなんですが、今年3月、アマゾンカードを不正利用されました。月末にカードのチェックをしたところ、身に覚えのない請求が3件ありました。
問い合わせたところ、海外で使われていたそうです。私はアマゾンのカードは持ち歩いていませんから、机の中に入れっぱなしです。
こんな田舎の持ち歩いていないカードの番号を抜けるんですね。

 

不正利用の分は、カード会社から補償されました。
しかし、伺うところによると、6ヶ月以内の不正利用については責任を持つけれども、6ヶ月以上のものは補償の対象にならないそうです。皆さんのなかに、アマゾンカードをお持ちの方がいらっしゃったら、今日帰ったら、チェックした方がいいでしょう。
今日の講話のなかで、この話が皆さんにとって一番重要なことかもしれません。

 

いずれ、こんなふうにカードの情報を騙し取るとか、お年寄りを騙すとか、また、強盗したり万引きしたり、、、金だけがあればいいという考えのなせる業だと思うのです。

人を騙したお金で物を食べ、酒を飲み、子供を育てる。
どうなんだろうか。果して、負い目を感じることはないのだろうか。
お金は大切だけれども、お金だけではない世界があることを学ばなければならいのではないだろうかと思うのです。

 

最後は、自分だけ。自分さえ良ければ、それでいいという考え方。
たしかに、自分は大切ですね。自分がなければ、はじまらない。
けれども、その自分とは、どういうものだろうか。

 

頭のてっぺんから足のつま先まで、これが自分です。
でも、その自分があるのは、父と母が結ばれたからです。父と母が、違う人と結ばれていたら、自分はいない。まず、このことを忘れてはならない。確かに、自分の力で育ち、自分一人の力で生きてきたような感じを抱く人も多いのだけれども、よくよく考えれば、その始まりから、自分の力ではないのです。

 

そして、今日の今日まで、私たちは多くの関係性の中で生きてきました。
自分の力だけで、自分になったのではない。友人、恋人、先生、過去の人物、本、映画、出会った人々。それらとの関わりの中で、自分が自分として生きている。

 

もう一つ、私たちはこの日本という国で、この時代に生きています。
それが、北朝鮮だったらどうだろう。新疆ウイグル自治区に生まれていたらどうだろう。また、戦時中に生まれてたらどうだろう。実は、私たちは、この国のこの時代に生まれたからこそ、この国のこの時代の在り方に相応しい人物に社会化されて生きている。

 

そんなふうに思いを育てれば、自分とはこの頭のてっぺんから足のつま先までのことではないのです。自分とはこの世界すべてであります。そんなふうに共に受け取りたいと思うのです。

 

今だけ・金だけ・自分だけという考え方の根幹には、目に見えない物は信じないという考えがあるのだろう、と。それは、この世には、人智を超えたはたらきがあるということを、知らないからなんだろうと思うのです。つまり、今だけ、金だけ、自分だけをを超えたもの、真実なるものがある、と気づいていないからなんだろう、と。

 

真実なるものとは、この世の真実のことですね。
もっとはっきり言うならば、あなたの人生の意味です。
あなたが生まれてきたこと、「今・ここ」を生きていること、そのことには大きな意味があるのだと受け取りたいのです。
それを学ぶために、ある人は神様の元に通ったり、仏性だと手をあわせたり、坐禅をするのです。

 

言の葉3をご覧ください。声に出しましょう。
仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。
 

ありがとうございます。これは、『正法眼蔵』の「生死」巻にあります。
ちなみに、言の葉4がはじめにあって、言の葉3に続くのですが、今日の引用は、このようにしました。

 

言の葉3を意訳します。
あなたが仏になるため、簡単な方法を教えてあげよう。
まず、悪いことをしないこと。生死に執着しないこと。生きとし生けるものを大切にしなさい。ご縁に感謝し、弱い立場の人を捨て置かないこと。また、あれこれ欲しがらないこと。自分の感情に振り回されないこと。そういう人こそ仏と呼ぶのです。それだけであり、それ以上でも以下でもないのだよ。

 

 

道元禅師は、仏になるための簡単な方法だ、と仰っておらますが、いかがでしょうか。なかなか簡単とは言えないと思うのですが、一つ一つ見ていきましょう。

 

悪いことをしないこと。まぁ、これは、理解できます。
ただ、一口に悪いことをするな、と言っても、なかなか難しいですよね。相手の嫌がることをするな、では、ただの易しい気遣いや当たり障りのないその場しのぎに終わってしまう。自分の嫌なことを相手にするなでは、どうしても身贔屓にもなってしまう。
悪いことをしない、一つでも、私たちは注意深くならなければならないでしょう。

 

次に、生死に執着しないこと。生まれたら死ぬ、会えば別れることを頭では理解しているけれども、実際、死を告げられた時、また、大切な方との死別に立ち会った時、恬淡としていられるだろうか。

 

次に、生きとし生けるものを大切にしなさい。ご縁に感謝し、弱い立場の人を捨て置かないこと。
これは、すんなり理解できるでしょう。けれども、なかなか難しい。
ご縁というのは、良い縁ばかりではありません。なんとなく、あいつとは馬が合わない、辛気くさい顔をして嫌だなと思う人も現れます。怨憎会苦という苦しみもあります。つまり、この娑婆世界では、恨み憎んでいる人にも会わなければならない。避けて通れないのです。
誰とでも公平に、誰とでも仲良くは、やっぱり難しい。

 

次の、あれこれ欲しがらないこと。
今、ミニマリストというのが流行りつつあります。なるだけ物を持たない暮らしです。私も、それに憧れています。生きているうちに、しっかりと頭がしているうちに、持っている物を整理したい。はっきり言って、捨てなければならない。
と考えてはいるものの、それでも、つい面白そうな本があれば買ってしまう。よさげな衣があれば、綺麗なお袈裟があれば、買ってしまう。欲しがってはいないけれども、つい買ってしまうというのは、やはり、欲しいのでしょう。

 

最後、自分の感情に振り回されないこと。
私たちは日々、いや、刻々と様々な感情と共にあります。楽しい、嬉しい、面白いならばそんなに問題はないけれども、悲しい時もつらい時もあります。イライラしてしまうことも、どうにでもなれと開き直ってしまうことだってある。自分の感情なのに、手に負えないこともあります。
でも、それでは、やはり足りない。いついかなる時も、叶うならば、ニコニコしていたいものです。いろんなことのある人生だけれども、
自分で自分の機嫌をとり続けていく。自分の感情を、イライラやぐたぐたを、誰かに手渡さない。自分の感情は、自分の機嫌は、自分で解決していくことです。

 

仏になる簡単な方法とありますが、簡単ではないですよね。
今日はできても、明日はどうだろう。今はなんとかなっても、明日も心を励まして、取り組まなければいけない。

 

言の葉4を声に出しましょう
ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
 

ありがとうございます。  意訳します。
今ここ、自分の身と心を手放して、仏の家の中に投げ入れてごらんあなさい。 そうすれば、仏の方からはたらきかけてくるものがある。そのことに耳を澄ましなさい。そうなれば、自分で力むこともなく、あれやこれや悩むこともなく、生死からはなれて自由になれる。だから、自分に執着することから離れましょう。
 

仏のかたよりおこなわれて、つまり、仏様からのはたらきかけ、そんなふうな言葉を聞くと、超常的な、スピリチュアルな、神様が私だけにささやいてくれるような響きがありますが、道元禅師のお示しは、そうではありません。もっと現実的な、もっと生活に根付いた言葉です。
そう、仏様のはたらきかけ、とは奇跡やいいことやラッキーやハッピーが雪崩のように起こることではないのです。

 

この暮らしの中で、仏のいへになげいれて、つまり、潔く己の我を捨てようと決意したならば、仏のかたよりおこなわれて、つまり、あなたに現れる出来事や事柄すべてが、たとえ、それが悲しく辛いものであったとしても、たとえ、それが思わしくないもの、触れてほしくないものであったとしても、それは、仏の導きなんだと落ち着いて受け取ることができるんだよ、という意味なのです。

 

私たちは、悲しく辛いものに出会えば、嫌だなとかなんで私だけがと思ってしまう。
私たちは、望まないものに出会えば、恨んだり憎んだりしてしまう。
私たちは、触れてほしくないものにであえば、誰かのせいにしたり逃げたりしてしまう。

 

そうじゃないのです。そんな日暮らしだけで一生を終わるのではなく、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれてという世界があることを心得ておきたい。

 

とは言いながらも、自分の執着を捨てるというのは、とても難しいものです。潔く、この身を投げ出すことは容易いことではない。なぜならば、自分は可愛いから。

 

さきほどの、とりあえずの3つだけの、今だけ・金だけ・自分だけの根幹は、自分だけです。この自分が出発点です。

 

じゃあ、どうやって、そんな自分への執着を離れることができるのか。
それは、真実なるものへの学びを深める事だと思うのです。

 

言の葉5をご覧ください。声に出しましょう。

『生死』

手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が
天地一杯のなかに
ばら撒かれたのだ

人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに
汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから
天地一杯のなかに
ばら撒かれるのだ

 

ありがとうございます。内山興正老師の詩です。私たちの命に対する洞察です。どうでしょうか。
命は私一人だけのものではないし、命はこの世界すべてのことだ、と示されています。

 

こんなふうに、お互いに、真実なるものに触れていきたい。
そして、そんな景色を眼におさめたいものです。

 

私たちの悩みの多くは、人間関係と経済問題です。ほとんどの人がこれらについて、多くの時間を費やします。それが解決したり、解決を諦めたりした時、次に悩むのが、スピリチュアルペインといわれるものです。

 

スピリチュアルペイン、つまり、魂の痛み。それはたとえば、人生の秋において、俺の人生は正しかったのだろうか、私は死後どこにいくのだろうか、と多くの方が悩み苦しみます。
けれども、答えはでない。だから、その問いが痛みとなる。

 

お互いそれぞれに抱えている問題もありますが、今、しっかりしているうちに、この真実なるものへの学びを深めたていきたいと思います。

 

言の葉6をご覧ください。声に出しましょう。

神は人の敬ひによつて威を増し
人は神の徳によつて運を添ふ   御成敗式目

 

ありがとうございます。御成敗式目の第1条です。
人智を超えたはたらき、目に映らない世界があることを、しっかりと心に留めておきましょう。

 

【普回向】


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