大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 11月30日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
32676
post-template-default,single,single-post,postid-32676,single-format-standard,ajax_fade,page_not_loaded,,vertical_menu_enabled,side_area_uncovered_from_content,qode-child-theme-ver-1.0.0,qode-theme-ver-7.2,wpb-js-composer js-comp-ver-5.0.1,vc_responsive
 


12月 26日 満月の夜の坐禅会 11月30日講話

それでは、言の葉をご覧ください。その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。今月、恥ずかしながら51歳になりました。半世紀も生きてきたわけです。振り返れば、慚愧に堪えないのですが、今日もまた、まだ生きております。

 

9月の伝道掲示板に、斎藤茂吉の歌を紹介しました。

あたたかく飯くふことをたのしみて
今しばらくは生きざらめやも      斎藤茂吉

 

私は野郎の一人暮らしですから、あたたかく飯を食うということはあまりないんですね。お恥ずかしい話ですが、ほんとだらしのない人間でして、ご飯を作るのがめんどくさい。
食べることは好きだけれども、片付けるのもめんどくさい。
お腹が空かなければ、ご飯なんか食べないのだけれど、これが、不思議なことに、毎日毎日、お腹が空くんですね。

 

だから、朝から今日は何を食べようかとか、今日はどこに飲みに行こうかと考えてしまう。
こんな田舎には、流行のウーバーイーツなんてものもありませんから、結果、近くのたから食堂か、出前館でガストかピザになってしまう。
そして、それに飽きたら、あたたかいご飯を求めて近くの居酒屋とか小料理屋に行くわけです。今は、荒井のさんじょう、鳴神の一芳、桑野の藤かな。

 

そんな所業が、今しばらくは生きざらめやも、につながっている。
美味しい物をたべるために、温かいご飯をたべるために生きているような51歳。
ホント、情けない限りです。

 

かつて私の先輩で、自称ですが、悟りをひらいたと仰る方がおりました。彼は言いました。全てがもったいなくて、仕方ないんだ、と。とにかく、ありがたい。ありがたい、と。
薄いお粥をすすってもありがたい。昼は玄米ご飯と味噌汁、そして、畑で取れた野菜の煮物だと、涙がでるほどありがたい。夜は、それらの残りを混ぜ合わせたものを雑炊にして、人数分を水で薄めて食べてもありがたい。
夜の坐禅が終わった21時。少しお腹が減ったから、思わず、戸障子のサンのほこりを指でなぞって口にしたら、本当に涙がでるほどありがたかった、と。

 

私もそのころは純粋だったから感動したし、食べるものに不平不満は一切なかったけれども、ホント肉を食べたい、魚を食べたいってのはなかったけれど、ホコリを口にして美味いと思えるのが悟りならば悟らない方がいいな、とふっと思ったことを思い出しました。

 

もっとも、今じゃ、ホントに堕落して、美味いものを食べたいな、あたたかいご飯をたべたいな、、、そして、それがためにもう少し生きてみようかなと余所見している自分がおります。

 

そして、今日、11月30日、この講話で何を話そうかなと考えた時、ふと思い浮かんだものがありました。言の葉2をご覧ください。『密厳院発露懺悔文』です。

 

これは、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人が、腐敗した真言宗総本山金剛峯寺の内紛に深い憂いを持ち、密厳院において3余年に及ぶ無言の行を為した直後、一筆のもとに書き上げたと言われるものです。

 

もちろん、私自身の課題ですが、どうか皆さんは、坊さん世界も、結局、色と金と欲まみれだなと片付けないで、自分自身に置き換えて、この『密厳院発露懺悔文』を味わっていただきたいのです。それぞれの仕事、家庭、立場で、きっと気づくことがあると思うのです。
では、言の葉2を声に出しましょう。
時折、難しい文言が出て参りますが、すらっと読める、意を汲み取れる文言だと思います。

 

我等懺悔(さんげ)す 無始よりこのかた妄想に纏(まと)はされて衆(しゅ)罪(ざい)を造る

身(しん)口(く)意(い)の業(ごう) 常に顛倒(てんどう)して 誤って無量不善の業を犯す

珍財を慳悋(けんりん)して施を行ぜず 意(こころ)に任せて放逸にして戒を持せず

しばしば忿恚(ふんに)を起して忍辱(にんにく)ならず 多く懈怠(けたい)を生じて精進ならず

心意(しんに)散乱して坐禅せず 実相に違背して慧を修せず

恒(つね)に是の如くの六度の行を退して 還(かえ)って流転(るてん)三途(さんず)の業を作る

名を比丘に仮(か)って伽藍を穢(けが)し 形を沙門に比して信施を受く

受くる所の戒(かい)品(ぼん)は忘れて持せず 學すべき律義は廃して好むこと無し

諸佛の厭悪(えんの)したまう所を慚(は)じず 菩薩の苦悩する所を畏れず

遊戯(ゆぎ)笑語(しょうご)して徒らに年を送り 諂誑(てんのう)詐欺(そぎ)して空しく日を過ぐ

善(ぜん)友(ゆう)に随がはずして癡人(ちにん)に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む

利養を得んと欲して自徳を讃じ 名聞(みょうもん)を求めんと欲して他(た)愚(ぐ)を誹(そし)る

勝(しょう)徳(とく)の者を見ては嫉妬を懐き 卑賤(ひせん)の人を見ては驕慢(きょうまん)を生じ

富饒(ふにょう)の所を聞いては希望(けもう)を起し 貧乏(びんぼく)の類(るい)を聞いては常に厭(おん)離(り)す

故(ことさ)らに殺し誤って殺す有情の命(いのち) 顕(あら)はに取り密かに盗る他人の財

触れても触れずしても非凡(ひぼん)行(ぎょう)を犯す 口四意三(しくいさん) 互(たがい)に相続し

佛を観念する時は攀(はん)縁(ねん)を発(おこ)し 経を読誦する時は文句を錯(あやま)る

若し善根を作せば有(う)相(そう)に住し 還って輪廻生死の因と成る

行住坐臥知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪

今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る 慈悲(じひ)哀愍(あいみん)して消除せしめ賜え

皆悉く発露し尽く懺悔し奉る 乃至(ないし)法界の諸の衆生 三業に作る所の此のの如くの罪

我皆 相代って尽く懺悔し奉る 更に亦 その報いを受けしめざれ

南無 慚愧(ざんぎ)懺悔(さんげ) 無量所犯罪(むりょうしょぼんざい)

『密厳院発露懺悔文』
 

ありがとうございます。
仏教では、懺悔をさんげと読みます。キリスト教ではざんげと読むようです。

 

じゃあ、懺悔とは何だろうか。
平たく言えば、反省でしょう。我が行いを振り返って、悪いことをしたならば、それを頼りになる人、また、サムシンググレートに告げて、許しを乞い、また、そこから新たな一歩を踏み出していく。そんなイメージでしょう。

 

だけれども、共に覚えておきたいのです。
世の中は許しを乞うても許されないことだってある。最後は殺し合うところまで行く世界もある。そんな簡単に許すことはできない。
つまり我が心の痛みを、心の傷を神様や仏様に告げることで、自らの犯したことが消えて無くなるのではないのです。してしまったこと、やってしまったことは、なかったことにはできない。

 

だから、懺悔は神仏に許しを乞うて、その罪を減ずることが目的ではありません。

 

もうだめだなと思ったとき、もう神仏にすがるしかない、もう神さんや仏さんしか俺の事をわかってくれないなと感じたならば、己の無様を悔悟し、自分のしでかしたことを抱えて生きていく。それが、懺悔だと思うのです。

 

あいつはだめだ、と後ろ指を指されても、あいつは終わりだと嗤われてもいいのです。
いや、俺はそんな世間の有象無象を相手にしているのではなく、信仰している仏様をしっかりと見ているんだって、ね。それが、懺悔だと私は思います。

 

では、『密厳院発露懺悔文』を味わっていきましょう。

 

我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏はされて衆罪を造る

私は懺悔いたします。恥ずかしながら妄想を真実だと思い込み、もろもろの罪を犯してまいりました。

 

身口意の業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す

身と口と意の行いは自分勝手なものばかりで、多くの悪行犯してきました。

 

珍財を慳悋して施を行ぜず 意に任せて放逸にして戒を持せず

財産を惜しんで人に施すこともせず、自分の都合のいいように生活をし、戒律なんか守っておりませんでした。

 

しばしば忿恚を起して忍辱ならず 多く懈怠を生じて精進ならず

事ある毎に腹を立て、我慢もしなければ、怠けることばかり考えて、精進するということを忘れていました。

 

心意散乱して坐禅せず 実相に違背して慧を修せず

心はいつも乱れているから、坐禅をしようともしなかったし、真実なるものにしたしくないから、智慧を磨こうともしなかった

 

恒に是の如くの六度の行を退して 還って流転三途の業を作る

彼岸に達するために、菩薩が行う、六つの修行。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜行なども机上の空論だし、なまじっか知ってるから、逆に悟りから遠ざかる因縁を作ってしまう。

 

名を比丘に仮って伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く

僧侶であるようなふりをして、寺院を利用し、僧侶の格好をしてお布施をたくさんもらうことにしか頭がない。

 

受くる所の戒品は忘れて持せず 學すべき律義は廃して好むこと無し

出家の際に、授けられた戒律はとっくに忘れてしまい、学ぶべき修行はしようともしない

 

諸佛の厭悪したまう所を慚じず 菩薩の苦悩する所を畏れず

諸仏が嫌がっていることを恥とせずに行い、菩薩たちを悩ませていることを畏れもしやしない。

 

遊戯笑語して徒らに年を送り 諂誑詐欺して空しく日を過ぐ

遊び呆けて、冗談を楽しんでいるうちに年をとり、人に心にもないお世辞や、嘘をいっている間に、むなしく日は過ぎていく。

 

善友に随がはずして癡人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む

善き友を避けて、調子のいい愚かな友と親しみ、善いことをしようともしないで、その場限りの楽しみを追求してしまう。

 

利養を得んと欲して自徳を讃じ 名聞を求めんと欲して他愚を誹る

馬鹿のくせに名誉がほしいので自画自賛をし、徳の高い人を見ては、ねたましく思い、あちこちで悪口を言いふらす。

 

勝徳の者を見ては嫉妬を懐き 卑賤の人を見ては驕慢を生じ

徳の高い人をみては妬み、自分より劣った人を見ては高慢になる

 

富饒の所を聞いては希望を起し 貧乏の類を聞いては常に厭離す

金持ちの暮らしを聞いてはあこがれ、貧乏な暮らしを聞いてはおぞましく思う。

 

故らに殺し誤って殺す有情の命 顕はに取り密かに盗る他人の財

過失で殺すも殺意を持って殺すも人を殺したことにかわりなく、強盗にしてもコソ泥にしても盗んだことは間違いない

 

触れても触れずしても非凡行を犯す 口四意三 互に相続し
佛を観念する時は攀縁を発し 経を読誦する時は文句を錯(あやま)る

触れても触れなくても、その心で為すことは佛の行いからは離れている。悪い言葉や悪い心のはたらきが互いに重なって、仏を観想しても心の中では違うことを思い、経を読んでも間違える。

 

若し善根を作せば有相に住し 還って輪廻生死の因と成る

もし善いことをしても、その結果を期待するから、かえって迷いの世界に入るもととなる。

 

行住坐臥知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪

実際、毎日の暮らしのなかで、知らないうちにたくさんの罪を犯しているのだ

 

今三宝に對して皆発露し奉る 慈悲哀愍して消除せしめ賜え

いま、仏・法・僧の三宝に告白いたします。なにとぞ慈悲のお心でおゆるしください。

 

皆悉く発露し尽く懺悔し奉る 乃至法界の諸の衆生 三業に作る所の此のの如くの罪 我皆 相代って尽く懺悔し奉る 更に亦 その報いを受けしめざれ

ここに、すべてを懺悔いたします。自らの行いと、言葉と、心の動きによってできた罪を、わたしはすべてを懺悔いたします。そして、なにとぞ、すべての人が悪行の報いを受けませんように。

 

南無 慚愧懺悔 無量所犯罪

ここですね。大切なところは。
己の無様、己の罪とが、己の犯してきたこと全てに、南無と手を合わせているのです。
たとえ間違ったこと、あやまったことをしたとしても、その罪とがに手を合わせて南無と拝む世界がある。いや、本当の反省というのは、そうせざるを得ない。

 

烏滸がましい言い方になるかもしれませんが、己の愚かさ故に、真実なる物に近づけた。己の愚かさに照らされて、ようやっと真実なるものに出会えた。

 

これは、決して自己暗示や自己肯定という軽いニュアンスではありません。
たとえば、誰からも理解されない、同情もされない酷いことをしてしまった自分が辿り着いた神仏に懺悔することによって、光が少し見えてきた。
その光を見失ったりしながらも、それでも、この神仏だけは私を包み込んでくれると信じ、血みどろになりながら懺悔を続けるなかで、ようやっと真実に出会える世界がある。
だからこそ、南無 慚愧懺悔 無量所犯罪

 

今日は私の懺悔にお付き合いいただきましたが、どうかそれぞれのお立場で、覚鑁上人のお心に触れていただければ幸甚に存じます。

 


コメントはありません

コメントを残す