大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 4月27日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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5月 08日 満月の夜の坐禅会 4月27日講話

それでは、言の葉をご覧ください。
その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

 

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
毎日のニュースの中心が、コロナです。
そんな中、ここ数日の間に、二つほど目にとまったニュースがありました。

 

一つは、長崎県のお寺で、寺の入り口あたりに墨汁をまかれたとのこと。そのお寺では、数年前から「朝のお勤めの音がうるさいからやめろ」と手紙が届いているようでした。墨汁をかけた人と苦情の手紙を書いた人が同一人物かどうかは不明のようです。

 

もう一つは、隣の家の池の蛙の鳴き声がうるさいと東京地裁に訴えた裁判。23日の判決は「受忍限度を超えるような騒音とは認められない」として訴えを退けられたそうです。ちなみに蛙といっても、青蛙が6,7匹とのことでした。

 

「なんだそんなことで大騒ぎして」と思ってしまうかもしれませんが、たとえば、あなたが寺の隣に住んでいて、朝帰りして、床についた。そこに、朝のお勤め、朝課といいますが、朝の5時や6時に、ポクポクと木魚がなったり鏧子がゴーンと鳴れば、「おいおい勘弁してくれよ」と思うのも無理からぬことでしょう。

 

また、たとえば、あなたの体調が優れなくて、なかなか寝付けないところ、隣の家の池から蛙の声が鳴り響いてれば、「おいおい、睡眠を邪魔するなよ」と思っても仕方ないでしょう。

 

先日、近隣の和尚さんから聞いたのですが、そのお寺の裏に山があるそうで、秋が深まるとたくさんの杉の葉が、春には杉の胞子がたくさん落ちてくる。
数年前から、そのお寺の周辺に新しい住宅地ができて、そこに越してきた住人から、「お寺の管理なんだから、杉をなんとかしてくれ」と多々苦情がきているそうです。

 

幸いなことに、このお寺の場合は、朝課や夜の20時の梵鐘の音がうるさいと苦情はこないような環境にあります。
むしろ、20時の鐘をつかないと、「あの和尚は今日も飲みに行って、鐘をついてないな」と監視されているような感じです。

 

生きづらい世の中ですが、どうでしょうか。
今まであったものやことに、新たな考えや主張を持ち込んだときに、現実は簡単に折り合うことはできない。原発の処理水のこともそうでしょう。

 

また、これは住環境のことだけではありません。
話し合えば、わかる。理解すれば、許せる。というけれども、互いに自分の都合や居心地の良さを求めて、「権利」を主張ばかりしていては解決しません。
結果、いがみあい、恨み、争う。そして、殺し合う。

 

じゃあ、どんなふうにすればいいのだろうか。
言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。

視座を高める

 

ありがとうございます。
引き続き、言の葉3をご覧ください。声にだしましょう。

 

ゲストハウス   ルーミー

人間という存在は、みなゲストハウス
毎朝、新しい客がやって来る
喜び、憂鬱、卑しさ、そして一瞬の気づきも
思いがけない訪問者としてやって来る

訪れるものすべてを歓迎し、もてなしなさい
たとえ、それが悲しみの一団だとしても
できるかぎり立派なもてなしをしなさい
たとえ、それが家具のない家を荒々しく駆け抜けたとしても

もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し
新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない
暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪意がやって来ても
扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい

どんなものがやって来ても、感謝しなさい
どれも、はるか彼方から案内人として
あなたの人生へと、送られてきたのだから

 

ありがとうございます。
ルーミーは、本名をジャラール・ウッディーン・ルーミーといい、13世紀に活躍したペルシャの詩人でした。また、イスラム教の神秘主義哲学スーフィズムの重要人物でもありました。

 

この詩には、現実に起こるさまざまな事柄を、丁寧に受け取る姿勢があります。
嫌なことを嫌、悲しいことを悲しい、辛いことを辛い、だけではなく、それが起った事にまで目を向けて、そして、その意味を説き明かそうとする逞しい精神が垣間見られます。

 

そして、その原点は、「どれも、はるか彼方から案内人として あなたの人生へと、送られてきたのだから」という一説です。

 

案内人をガイドって言葉で説明する人もいますが、気をつけなければならいないことは、一つの塊や何らしかの人格や神格を想定してはいけません。
けれども、この世には人智を超えたものがある。それは目には映らないけれども、私たちの思いやはからいを超えた世界がある、という気づきを大切にしたい。

 

私たちは、幸せを求めて生きています。
その幸せは、現実の暮らしに困らないことであり、私の思い通りに、願い通りになることです。
しかしながら、人智を越えたもの、案内人の願いは、暮らしが豊かになることでも、痛い思いをしないことでもなく、私たちに真実なるものがあると気づかせることにある。

 

だから、起った出来事、よぎった思いを大切にしていきなさい。と呼びかけている。
こんなふうに、私たち一人一人が視座を高める努力をしなければならないのではないかな、と思うのです。

 

言の葉4をご覧ください。声に出しましょう。

香厳撃竹、霊雲桃花

 

ありがとうございます。

香厳禅師は、掃除をしているときに竹に小石がぶちあたる音を聞いて悟り、 霊雲禅師は桃の花を見て悟ったという意味です。

 

限られた時間なので、香厳禅師の逸話のみを紹介します。

 

香厳智閑禅師は頭のよい人で、潙山霊祐禅師のもとに参禅しました。
初めての参禅で、潙山霊祐禅師は香厳さんに聞きました。「生まれてから学んだことは一切問わない。そんなことよりも、おまえさんがこの世に生まれてくる前、そう、西も東も分からない時のおまえさんの核となるものについて一句を言ってみよ」
香厳さんは何度も返答を試みましたが、禅師は許しませんでした。

 

そこで香厳さんは音を上げて「私の核となるものとは何か教えてください」と懇願しました。
しかし、禅師は「それを教えたとしても、それは私の言葉であって、おまえさんの目を開く役には立たないよ」と応えました。

 

後日、香厳さんは本をすべて読み返しましたが、答えは見つかりませんでした。そこで思うのです。「絵に描いた餅は飢えを充たしてくれない」結果、本を焼き捨てました。

 

その後、香厳さんは居を移し、坐禅を続けました。
あんなある日、山中で草刈りをしていると、はねた小石が竹にあたって音を立てた。
そのカチーンという音を聞いたとき、一撃のもとに、たちまち自身の核となるものを悟り得たというのです。

 

すぐに香厳さんは庵にもどって沐浴し、禅師の住む寺の方角に向かって礼拝して言いました。
「禅師様の大悲の恩は父母を超えるものでした。あのときの私に何かの言葉を投げかけていたら、この喜びはなかったでしょう」

 

およそこんなお話です。
言の葉5をご覧ください。これは、随聞記4-5の抜粋です。声に出しましょう。

見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹豈に利鈍あり迷悟あらんや。花何ぞ浅深あり賢愚あらん。花は年年に開くれども人みな得悟するに非ず。竹は時時に響けども聞く者ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功を得て、悟道明心するなり。これ竹の声の独り利なるにあらず。また花の色の殊に深きにあらず。竹の響き妙なりといえども自ら鳴らず、瓦らの縁をまちて声を起こす。花の色美なりといえども独り開くるにあらず、春風を得て開くるなり。学道の縁もまたかくのごとし。この道は人人具足なれども、道を得る事は衆縁による。人人利なれども、道を行ずることは衆力をもってす。ゆえに今心をひとつにし志をもっぱらにして、参究尋覓すべし。玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いずれの玉か初めより光ある。誰人か初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。自ら卑下して学道をゆるくすることなかれ。

 

ありがとうございます。
意訳します。
「見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らむ。竹豈に利鈍あり迷悟あらんや。花何ぞ浅深あり賢愚あらん」、これは、先ほどの香厳撃竹、霊雲桃花のことです。

 

竹の声に、桃の花に真実なるものを看破した人がいるぞ。その竹にいいも悪いも、迷いも悟りもない。そして、花の色に浅いも深いも、いいも悪いもないのだ。
花は年々開くけれども、それを見るものがすべて悟るわけではない。竹は時に応じて音を発しているけれども、それを聴くものがすべて悟りを得ているわけでもない。
ただ、参禅弁道を重ねた縁があってこそ、道を悟ることができるのだ。
だから、竹の声が特別に、するどい響きがあるのではない。また花の色が特別に美しかったのでもない。
竹の響きがすぐれた素質をひそめていても、石が当たるという因縁があって、はじめて音を発するのであり、花の色が美しい色を咲かせる素質が有るといっても、春風が吹いたからこそ花が開いたのだ。
真実を明らかにしていく道は、己自身とそれを支えているこの世界との因縁によるのだ。俺が俺がでは、気づくことはできない。だからこそ、志を明確にして、難儀を怖がるな。
玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。
最初から光り輝いている玉はないのだ。だからこそ、磨いていくのだ。
自分を卑下して、いいわけをするな。

 

そんなところでしょうか。道元禅師の励ましの言葉です。

 

実は、悟りたいと焦ることはないのです。
早く楽になりたいと騒ぐのではなくて、むしろ、それぞれの今ここがどんな状況にあったとしても、その今ここが、既に真実なる道を歩んでいるのだという決心をまず持つことが大切なのです。

 

語弊があるかもしれませんが、でも、思い切って言うならば、・・・
(以下の内容は、とても大切な信心の話なので、このブログでは略します。これを申せば、多くの人は現実の暮らしにそぐわないと感じるでしょう。正直な話、少し前の私自身、そのことを机上の空論としか受け取っていませんでした。今、このようなものの見方がようやくできるようになったんだと驚き、同時に、誤解のないように伝える術を養っていきたいと考えております。)

 

ありがとうございました。

 

【普回向】


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