4月 29日 その時
曹洞宗で用いられるお経『修証義』の冒頭に、「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」という一節があります。これは、人生には「なぜ生きなければならいのか、なぜ死ななければならいのか」という問いがあり、その答えを性急に求めるのではなく、むしろ、その問いを持ち続けていく過程こそが答えであり、そのためには、問いを持ち続けていくための勇気と智慧が必要となるという提示です。
先日、都内の葬儀社の社長さんとお話をする機会がありました。彼は「最近、菩提寺を持たない方の無宗教葬が特に増えた」と指摘しました。数年前までは直葬であっても、戒名はいらないけれどお経だけは読んで欲しいという依頼が多かった。そのために僧侶の手配をし、俗名での葬儀を執り行っていた。けれども此の頃は、戒名もお経も不要だという人が増えたとのこと。同じBGMならば、読経よりも故人の好きだった曲を流した方がましだという考え方の人が多くなったそうです。
無宗教葬は「自由葬」や「自分らしい葬儀」というキャッチで販売しています。しかし、自由や自分らしいという言葉に惹かれても、オリジナリティーに富んだ葬儀は少ないそうです。結果、多くの方は通夜や葬儀の集まりに音楽をかけ、焼香もしくは献花をする。そして、偲ぶ会と称しての会食という定型の形となるようです。
また昨今では、「墓じまい」をして故郷の菩提寺との縁を断つ人には、新たに寺院墓地を持つよりも宗派不問の霊園を択ぶことが人気です。なぜならば、お寺との付き合いが面倒であり、また、生前、お寺や僧侶と縁がなかったのだから、いえ、必要がなかったのだから、死後に縁がなくとも困らないだろうと結論付けてしまうからです。
「生き死に」に関して、宗教や哲学を求める必要がなかった人生。案外、それはそれで幸せなのかもしれません。しかし、築きあげてきたもの全てを手放して逝かなければならない喪失感を「無宗教・自由・自分らしさ」が、果たして埋め合わせてくれるのでしょうか。
現今は、知性で全てが解決できるという考え方が支持される時代です。生死の問いに対して、修行や信仰という言葉は響きにくい時代でもあります。しかし、死別やそれに伴う痛みは、個人の力では持て余すほどに辛いものです。
その時にならなければ、分からないことなのでしょうが。
その時になってからでは、少し遅いのかもしれません。
できるならば、今からその何かを探すことが大切なのでしょう。
関屋 博子(恵比寿読売カルチャー)
Posted at 21:34h, 30 4月このコメントは管理者だけが見ることができます