9月 11日 令和3年お盆法話 冒頭部
お疲れさまでございます。
お時間を頂戴してお話しをさせていただきます。
まず、ご一緒にお唱え事をいたします。
お配りしましたプリントには、皆さんにお持ち帰りいただきたい言葉、言の葉を書いております。1番をご覧ください。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧
これを私が先導いたします。
この戒尺の音に続いて、皆さまにお唱えいただきたいのだけれども、飛沫感染のリスクがありますので、心の中でお唱えいただきます。
では、姿勢を正して、合掌をしてください。
南無帰依仏 南無帰依法 南無帰依僧
ありがとうございます。
今日は新盆のお参りということで、大きなお悲しみと痛みを抱えてのお集まりの方も多いことでしょう。
今年の二月のことでした。
ご主人が六十歳で急逝されました。
遺された家族は、奥様と四十歳くらいの娘さん、そして、娘さんのお子さん。小学校高学年くらいの男の子。4人家族でした。
葬儀の際、弔辞というのがありますよね。お別れの言葉です。それを、娘さんが為されました。
娘さんは、開口一番、お父様の祭壇を前にして絶叫したのです。
「お父さん、ごめんなさい!」
そして、嗚咽を抑えながら、彼女は語り始めました。
それは・・・中学生の頃から、父親の意見に反発する事が増え、顔を見るのも嫌になったこと。高校を卒業し、逃げるように仙台に就職したとのこと。以後、帰省はせず、父親には連絡をしなかったとのこと。
そして、訳あってシングルマザーとして出産し、数年前、子供を連れて実家に戻ったこと。
再び一緒に暮らし始めても、父親を避けていたこと。
彼女は涙に声を詰まらせながら、「でも、いつか必ずお父さんとゆっくりと話をしたり、旅行に行ったりできると思ってた。そして、ありがとう、と伝えたいと思ってた」と語りました。
続けて彼女は「それができなくなって、本当にごめんなさい」と頭を下げました。
その姿を見ながら私は、吉川英治さんの川柳を思い出しました。言の葉2をご覧ください。
仏壇は後の祭りをするところ
これは、作家の吉川英治さんが、母親の回忌法要のあとに吐かれた川柳です。俳句や短歌は詠む、と表現しますが、川柳は、吐く、と言います。思いを吐き出すのが、川柳です。
仏壇は後の祭りをするところ
吉川さん、母親のことが大好きだった。けれども、生前中は、お互い人間だから、意見が違うこともあったでしょう。
しかしながら、今になって思えば、親の言うことを聞いとけばよかったなぁ。もう少し優しい言葉をかけておけばよかったなぁ。あそこのお店に、あの場所にもう一度連れて行っておけばよかったなぁ、とあれこれと後悔しているご自身の姿を、「仏壇は後の祭りをするところ」と吐かれたのでしょう。
父親の祭壇に向かって泣きじゃくる娘さんの姿を見ながら私は、まさに、今、彼女は「後の祭り」をしてらっしゃるんだな、と思ったのです。
もしかしたら、皆さんのなかに、この娘さんを自分自身のことだと思っていらっしゃる方がいるかもしれません。
本当に、後の祭りだったな、と思っている方がいるかもしれない。
「後の祭り」という言葉を聞きますと、私たちは後ろ向きな響きを感じ取ってしまいます。
けれども、実は、「仏壇を前にしながらする後の祭り」という時間には、大切な意味と救いがあると思うのです。
そう、後の祭りができるのは、その人と私が家族だったからこそです。また、その人が私にとって身近な人、大切な人だからこそ後の祭りができる。
後の祭りという時間は私とその人を深く深く結びつけ、そして、その人との人間関係を再構築していくきっかけとなるのです。
言の葉3をご覧ください
故人様と私との人間関係の再構築
亡くなった人と生きている私との人間関係。
そんなふうに聞くと、少し違和感を抱くかもしれませんが、人間関係という言葉は、生きている者同士のためだけにある言葉ではありません。
生前は、お互い生身の人間だから、いつもいつも100点満点とはいかなかったでしょう。
けれど、その人が、物言わぬ故人様となった今だからこそ、
私は、その人と過ごした時間に思いを馳せることができる。
その人が着ていた服、その人が使っていた食器を手にしながら、その人の佇まい、香、空気を感じとる。
その人と共に出かけた場所に行き、その人が語りかける声に耳を澄ます。
仏壇にその人の好きだった物を供え、お墓に線香を手向ける。
そして、お寺で供養をする時間、手を合わせる時間を持つ。
そんな行為を積み重ねていくことによって、その人との別れから、大きな気づきがもたらされてくる。私が、「今・ここ」に生きている事の意味にはたと気づくことだってあるのです。
実は、、、、皆さまの中にもいらっしゃるでしょうが、、、その人を思い出すのが苦しい時間になってしまう。何もかも目にしたくない、現実を受け取りづらいという時期もあるのです。
もちろん、そんな時には無理はしなくていいのです。
けれども、やがては、それぞれの事情をかかえつつも、「今・ここ」を共に生き抜いて行きたいと思うのです。
(冒頭部のみ)
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