12月 21日 前三三後三三
文殊、無著 に問う「近頃、恁麼処 を離れしや」
無著云く「南方」
文殊云く「南方の仏法、如何にか住持する」
無著云く「末法の比丘 、戒律を奉ずるもの少なり」
文殊云く「多少の衆ぞ」
無著云く「或いは三百、或いは五百」
無著、文殊に問う「ここにては如何に住持する」
文殊云く「凡聖同居 、龍蛇混雑す」
無著云く「多少の衆ぞ」
文殊云く「前三三、後三三」
これは、碧巌録にある公案です。
無著文喜という人が、文殊さんの霊場と言われる五台山にお参りにでかけました。
文殊さんが無著さんに質問しました。「お前さんは、どこから来たのか?」
無著さんは答えました。「南からです」
文殊さんが続けて尋ねます。「南の方では仏法をどのように保たれているか?」無著さんは答えました。「末法の僧侶ですから、でたらめですよ。戒律を守っているのはわずかですよ」
文殊さんは、尚、尋ねます。「そうやって仏法を信仰している人はどのくらいおるのか?」
無著さんは答えました。「そうですね、三百人から五百人でしょうか」。
今度は、無著さんが文殊さんに質問しました。「では、こちらでは仏法はどのように行われていますか?」
文殊さんが応えました。「そうだな、玉石混合で、凡人も聖人もごちゃまぜで、龍も蛇もいっしょくたになっているぞ」
続けて、無著さんが質問しました。「どのくらいおられますか?」
そこで、文殊さんは答えました。「前三三、後三三」
「前三三、後三三」とは、数限りなく、無限だということです。
じゃあ、何を意味するのか。
それは、仏法というのは、できる人、優秀な人、勝った人のためだけにあるのではないということです。しくじった人、とても誉められたもんじゃない人、負けた人のためにも、仏法はある。老若男女、病んでいる人、生き辛さを感じている人にも仏法はあるのです。
それを「凡聖同居 、龍蛇混雑」と表現して、「前三三、後三三」 こそが仏法というものなんですよ、と文殊さんは示しておられます。
この公案は、私たちは、私たち自身の「いま・ここ」ではじめていけばいいと教えてくれています。
つまり、そのままのあなたから、そのままの私からはじめていけばいい。
それは、各自の「今・ここ」を背負って生きていくということです。
勝又 陽一 (埼玉県所沢市 60才)
Posted at 12:32h, 16 3月このコメントは管理者だけが見ることができます
大童法慧
Posted at 19:42h, 16 3月勝又様 丁寧にありがとうございます。浅学のため『太平記』、応燈関の禅風を存じません。大本山總持寺御開山 瑩山禅師には『十種勅問』で、後醍醐天皇との問答があり、結果、總持寺は官寺として認められたとする考察もあるようです。いずれにせよ、「玉骨はたとえ南山の苔に埋るとも、魂魄は常に北闕の天を望んと思ふ」の気概は学びたいものですね。
勝又 陽一
Posted at 12:07h, 17 3月このコメントは管理者だけが見ることができます