8月 13日 命を寿ぐ
この国は「前例のない高齢社会」を迎えています。健康長寿の論理的帰結の一つに認知症の増加があります。認知症の中核症状やBPSDを学習しても、感情は最後まで残るのだと教えられても、家族介護者の疲弊は解消できません。厚生労働省は新オレンジプランを展開していますが、地域社会は理想を共有できず、介護で家庭が崩壊した話も珍しくありません。また、報酬の問題もあるのでしょうが、ユマニチュード、バリデーションの講習を受講しても介護士の離職率は高いままです。
今や「長生きは素晴らしい」という考え方だけでは、理解し得ない状況が生まれています。それは当事者や家族だけではなく、国においても医療業界の人材不足、社会保障費や介護負担の増大、また、生産年齢人口の減少を伴っての国力の低下や社会福祉制度崩壊が待っていると指摘されています。
生きるに値する生とそうでない生があるのか、そんな問いが立つこと自体、「私たちは何故生まれて、何故生きなければならないのか」という視座が欠けているからではないのでしょうか。そして、「私の命は私だけのもの」と思い込んでいるからではないのでしょうか。
九十歳を前にした認知症の老婆とご縁を頂戴しました。昨日お会いしたのに、「久しぶりだね、元気だった?」と挨拶をされます。「どちら様でしたか?」と訝しげに問われます。彼女の話はいつも「若い人はいいね。歳を取ったら何もなくなった」からはじまります。そして、帰り際には必ず握手を求めます。私の目をみつめ「また、来てね」と言い、その言葉が納得に変わるまで手を放しません。
面談の時間はおよそ一時間。人生の来し方を懐かしむように話される時もあれば、歩まれた隘路に落涙する時もあります。また、お茶飲み話で終わることもあれば、テレビを一緒に見て過ごすこともあります。
彼女は徘徊や弄弁もなく、泣き喚いたり害を及ぼしたりすることもありません。お迎えの時をじっと待っているかのように、見もしないテレビの前にいつも独り座っています。他の利用者に比べれば、手のかからない優秀な人でしょう。彼女の現在を「生産性と利益の追求」というカテゴリに見れば、彼女は何もしていません。だからといって、彼女は不要なのでしょうか。
彼女の口癖は「親孝行をしなければならない」です。彼女は親の顔を知りません。生後すぐに捨てられたそうです。しかし自身の出産を経験した時に憎んでいた両親を許せたのです。「何が為されて命が在るのか」を知ったといいます。それは「私の命は私だけのものではなかった」という大きな気づきによるものです。
今、私は「命は消費するものではなく寿ぐものである」と彼女から学んでおります。そして、命は比べるものではなく、それぞれの持ち場で命を寿いで生きていくこと自体に価値があるのだ、と教えられています。
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