大童法慧 | 平成29年 お盆法話 父と子 抜粋
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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8月 19日 平成29年 お盆法話 父と子 抜粋

平成29年 お盆法話 抜粋です

 

私たちは、「生まれたら死ぬ」「会えば別れる」という道理は知っています。でも、それを体験してはじめて、大切な方との死別というのは、大きな痛みが伴うものなんだと学ぶのです。

 

先月のことですが、私のホームページにある方から相談のメールがありました。
相談された方に、こういった法話の場でご紹介させていただだきますね、と許可を頂いておりますので、ご紹介させていただきます。

 

本文

私は52歳で自営業をしております。妻と二人の娘がおります。貴ホームページにあるブログをよんで、恥ずかしながら、ご相談をさせていただきたいと思い、メールいたします。実は、心が騒いで騒いで仕方ないのです。

 

と申しますのも、2年前、父が亡くなりました。私と父の関係は最悪でした。些細なことから確執が生まれ、高校の卒業を待ってすぐに家を出ました。以来、ほとんど実家とは行き来がありませんでした。たまに母親と電話をする程度でした。父親とは、全く話もしませんでした。父親が病床にあって間もないことを知っても、病院には行きませんでした。また、父親が亡くなった知らせを受けても全く驚きもしませんでした。まったく悲しくありませんでした。

 

通夜や葬儀は、兄が喪主を務めました。兄は泣いておりましたが、私は涙がでませんでした。それよりも、儀式が早く終わってくれることだけを考えていました。

 

49日や1周忌の案内もありましたが、仕事があったので参列しませんでした。もちろん、お墓参りも行くことなどありませんでした。私にとって、父親が生きていようが死んでいようが、どうでもいいことだったのです。

 

先日、3回忌の案内がありました。母親から電話で「いろいろあったけれど、お父さんに一度くらいは手を合わせに来なさい」と言われたのもあり、法要に参加しました。

 

お経がはじまって焼香をする時のことでした。
お香を詰まんで、ふと見上げた視線の先に、父親の写真があったのです。その父の目と自分の目が合った瞬間、、、心の奥底にキーンと疼くような痛みを感じたのです。そして、急に涙が溢れだしたのです。

 

それまで、父との死別について何にも感じなかったのに、涙を流して以来、父のことを折に触れて思い出してしまうのです。そして、もう一度会いたいな、会って詫びたい、話をしたいと思ってしまうのです。

 

もちろん、そんな願いは叶わないことは重々承知しております。けれども、もし今の私が父にしてあげられることがあるのならば、教えていただいきたいのです。

 

このメールを読んだ時、私はこの人とお会いしたことはないけれども、彼がむせび泣いている姿を、受け取りました。
だから、返信のメールに、やっとお父様と親しく出逢う時節が訪れましたね。と書きました。そして、3つのことを伝えました。一つ目は、大切な人との死別には様々な症状があること、二つ目は、死別というものは、喪失、失うことばかりではなくて、死別によってもたらされるものがあること、最後三つ目は、故人様との人間関係を再構築することです。

 

 

 


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