大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 8月4日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
大童法慧,曹洞宗,僧侶,祈祷,相談,生き方,悩み
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8月 29日 満月の夜の坐禅会 8月4日講話

それでは、言の葉をご覧ください。その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
お盆の時期になりました。12日の新盆供養の準備のため、本日はこちらの部屋で坐っていただきました。少し狭い部屋で、やや窮屈に感じたかもしれませんが、ここはクーラーがついています。
いつもの部屋は広いけれども、クーラーはありません。

 

一長一短ですね。良い点もあれば、至らない点もある。
私たちは常に100点満点の居心地の良さを求める傾向が強いですが、現実は、やはり、一長一短なことが多い。たしかに、満点で、文句のつけようのない状態を目指すのは大事なことですが、大概は、短いことを少し我慢して、こらえて、または、言い訳しながら納得して、よりよいものを選び取っております。

 

けれども、思うのです。
一長一短の短は、決して悪いことではないのだ、と。
一長一短の短い方、つまり、足りないこと、満たされないものを諦める事によって開かれてくる世界、もたらされてくるものがあることを忘れてはならないと思うのです。
例えば、その一つは、満たされ切った世界には現れない、視点の豊かさです。足りないからこそ、一つからではなく、様々な視座から物事を眺める事ができる柔軟さが必要になってくる。

 

この夏の時期、どこからか本堂には蜂やアブ、ハエが現れます。彼らは、必ず、戸障子にぶつかっている。外に行こうとしているのです。
自由な世界を求めて、彼らは必死に戸障子にぶつかっていく。でも、外には出られません。すぐ隣の窓は開いているのに、そちらに行けば、簡単に外に出ることができるのに、同じところで繰り返しぶつかっていく。
いたたまれなくなって、私が逃がしてやろうと、手助けすれば、そのほとんどは反対の方、開いてない方に逃げようとしてしまいます。

 

なぜこうなるのか。
それは、彼らの視点が一つだからなんです。そこしか見ることができない。大きく全体を見渡すことができないからなのです。

 

ここがだめならば、ここがうまくいかないのならば、少し離れて物事を見ればいいのに、こだわって、頑なになって、最後は自分にしがみついて、がんじがらめになってしまう。結果、自由な世界に行くことができない。

 

これは、蜂やアブやハエだけの話ではありません。
どうでしょう。私たちも、たとえば、道に行き詰まったり、面白くないことが続いた時、蜂やアブやハエのような態度をとっていないだろうか。

 

言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。

強い風が吹いた後には 空が澄み渡る

 

ありがとうございます。
これは、8月の伝道掲示板に書いた言葉です。
どうでしょう。強い風が吹いた後、みなさんはどこを見るだろうか。
飛び散らかった葉っぱや荷物に心が奪われてしまわないだろうか。ああ、これは、片付けるのが大変だなぁと誰かに愚痴を言ったり、こんなふうにしやっがってと風を恨んだりしないだろうか。

 

たしかに、飛び散らかったものを片付けるのは困難なことです。もしかしたら、元通りにはもどらないかもしれない。

 

けれども、散らかったままにしておくことはできない。なぜなら、私たちは自分自身に責任をもたなければならないからです。だから、少なくとも自分のものは自分で片付けなければならない。このことは、大前提です。

 

しなければならない片付けも、暑くていやだなぁ、量が多くてたいへんだなぁ、重い物を動かすのに困ったなぁ、と文句ばかりを言いながらする人もいます。
この片付けは国や地方自治体がやらなければならないんだ、と騒ぐ人もいます。
おまえのせいでこうなったんだから、責任を取れと迫る人もいます。
その一方で、いやなんとしても自分のけじめをつけるんだと腹をくくって、勇気を奮い起こして取り組む人もいる。

 

どうだろう。
そんな愚痴は言うまいと片付けをし続けた人のお昼ご飯の時間。
おにぎりを頬張りながら、ふと眼差しをあげた瞬間、そこに澄み渡った空に思わず「ああ綺麗だ」と言葉が出てしまう。
そして、その澄み渡った空に勇気づけられ、今一度、前を向こうと自分に誓う。

 

強い風は私たちに苦しみという罰を与えたのではありません。たしかに困難な出来事に遭遇することにはなったけれども、だからこそ、澄み渡った空がもたらされ、今まで見たことのない景色が現れてくることを忘れてはいけないと思うのです。

 

強い風は、私たちの人生に吹き荒れます。例えば、夢を追い続けたけれど、それが叶わなかった時の挫折感、自分自身への大きな失望。大切な人との死別、信頼していた人からの裏切り。
人生の強風は、私たちから多くのものを一気に奪い去り、生きる希望までをも削ぎ落としてしまうことさえあります。

 

それは大きな痛みを伴い、生きることさえも困難になってしまう。だけれども、共に覚えておきたいのです。強い風が吹いた後には 空が澄み渡るのだ、と。その空が、いや、その強い風も、私たちに真実なるものがあるのだとはたらきかけていると受け取りたいなと思うのです。

 

 

言の葉3をご覧ください。声に出しましょう。

3,「ベネフィット・ファインディング」(benefit finding)

 

ありがとうございます。
ベネフィットとは、恵みという意味です。ファインディングは発見するという意味。つまり、恵みを見つけ出す。

 

あなたの「今・ここ」が辛く苦しい状態だとしても、その「今・ここ」を投げ出してしまうのではなく、その「今・ここ」にある《意味》を見つけ出そうという試みが、ベネフィット・ファインディングです。

 

私たちは現実を否認しがちな生き物です。自分が一番かわいいから。でも、結果、それが疵を深くしてしまう。

 

困難な状況に意味を見いだすためには、まず、しっかりとその状況を受け取らなければなりません。
ああもうだめだ、とうなだれていてもならないし、あいつのせいだ、と誰かを恨んでいてもはじまりません。まず、自分が置かれている状況を素直に理解しなければならない。

 

ここで1点ほど、お願いがあります。今までの私の話を誤解しないでいただきたい。
強い風が吹いた後には 空が澄み渡るとか、ベネフィット・ファインディングと耳にして、何だそうか、結局は、「人生は自分の心がけ次第なんだ」「自分の心がすべてを決める」と安易に結論づけて欲しくないのです。

 

人間は、そんな単純な生き物ではありません。頭では十分に理解していても心が追いつかないことがあります。揺れ動く心に戸惑う日もあります。また、自分の手に負えない自分が現れてしまうことだってある。

 

だから、多くの人たちは、心を強くしようと、治療や様々なメソッドを用いるようです。でも、どうなんだろうか。心を強くしようという考え方に、私はあんまり賛同ができないのです。
心を強くするという考えの根底には、私は私の心をコントロールする。私は私の心をコントロールできるという想いがあるのではないだろうか。

 

たしかに、私は私の人生に責任を持たなければなりません。自分でしっかり生きること。自分自身を律すること。とても大切なことです。
しかし、どこまでも、世の中のすべてが私だけで成り立っているという考え方では、もたらされたものに気づくことはできないのではないだろうか。

 

だからこそ、心を強くしようとするのではなくて、心を自由にするという考えを持ちたいのです。

 

言の葉4をご覧ください。『無門関』29則の本則です。声に出しましょう。

六祖、因に風刹幡をあぐ。
二僧有り対論す。
一は云く、幡動くと、一は云く、風動くと。
往復して曾て未だ理に契わず。
祖云く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ。
二僧悚然たり。

 

ありがとうございます。
「六祖」とは達磨大師を初祖としてその第六番目の祖師という意味であり、大鑑慧能禅師のことです。
唐の時代、禅宗の黄金時代を築いた第一人者です。

 

ここに書かれていることを意訳します。
刹幡とは、寺で説法をする印に掲げる旗のことです。
その幡を風が吹き上げていました。
これを見ていた二人の若い僧が議論を始めました。
一人は「幡が動いている」と言い、もう一人は「イヤ風が動いているのだ」と言って互いに譲りません。その遣り取りを見かねた六祖は「幡が動くのでも、風が動くのでもない。お前さん方の心が動くのだ。」と言い放ちました。その若い二人の坊さんは身震いしました。

 

どうでしょうか。
とても明快なやとりなので、このシーンはビジネス書などで取り上げられて、だからこそ、風や旗に惑わされないような強い心を手にしましょう。という結論づけをされています。

 

でも、6祖が示したのは、そんな軽いお話ではないのです。
言の葉5をご覧ください。これは、拈提です。拈提とは、本則のことについて、この無門関を現わした無門禅師がそれについて語ったものです。声に出しましょう。

無門曰く、是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず、甚の処にか祖師を見ん。
若し者裏に向かって見得して親切ならば、方に知る二僧鉄を買って金を得たり。
祖師忍俊不禁して、一場の漏逗なることを。

 

ありがとうございます。
意訳します。無門禅師が仰いました。
六祖は「風が動くのではない、幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのだ」と言われるが、かと言って、心が動くのでもないのだ、
じゃあ、真実なるものはなにか。
もしここでそれがしっかりと看て取れたら、二人の僧はくだらない問答をしたお陰で、大変な真理を聞くことができたはずだ。
それはいわば鉄を買って金を得たということになるのである。六祖は二人の愚かさを見ておられず、飛び出したことで大きな失敗と恥をかいたことを知るであろう。

 

よろしいですか、無門禅師は「心が動くのでもない」と明言しているのです。
風も、旗も、心も動いてなんかいないぞ、と。くだらない論議をしていた二人の僧だが、彼らがもしその「心不動」の真意を理解できたら、彼らは鉄を買ったつもりが実は金を得たということになるというのです。となれば六祖はつい口を滑らせたことで大きな失敗と恥をかいたことになるというのです。

 

「風が動くのではない、幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのだ」と言われたら、なるほどなと私たちはすんなりと納得できる。
けれども、無門禅師は、実は、心も動いてなんかないぞ、と看破されました。
じゃあ、無門禅師は何を言いたいのでしょうか。

 

思うのです。私たちは、風、旗、心に踊らされてはいないだろうか。
風、旗、心。それは、言い換えれば、金、土地、名誉、学歴です。
また、それは、逆に、貧困、困窮、不遇、事故、病気。

 

そういった物に囲まれた私たちは、心をそのたびに動かしている。
そして、心を強くしようと思い直している。でも、心は強くならない。
むしろ、現れた出来事を追い回して疲弊してしまう。そして、心が病んでしまう。

 

無門禅師の示す、風も旗も心も動いていない景色。
ここは、現象や感情に左右されない、振り回されない、世界です。
それは、心を強くした結果たどりつくものではなく、心を自由にしてはじめて手に入れることができる。
このことを互いに覚えておきましょう。

 

言の葉6をご覧ください。声にだしましょう。

心を強くするのではなく、心を自由にする

 

ありがとうございます。
じゃあ、心を自由にするのは、どうすればいいのか。
それは、坐禅です。坐禅は、心は心で調わないと覚悟した姿です。
身体から心にアプローチする。身体をまっすぐにすれば、自ずから深い呼吸ができる。それに応じて、心が調う。

 

今日は、数息観を用いましたが、やがては、息など数えなくてもよくなります。すっと、身体から己の心にアプローチすることができるようになります。
だからこそ、坐禅という手段があることを覚えておいてほしいと思います。

 

最後に、言の葉6をご覧ください。声に出しましょう。

人は物事によって悩まされるのではない
物事に対する自分の見解によって悩まされる

 

ありがとうございます。古代ギリシャの哲学者エピクテトスの言葉です。
大切なのは、ものの見方なのです。
自分のこの状況を、どう見るのか。ここが問われている。
ものの見方を増やしていく。視野を広げる。様々な視座があることを忘れない。

 

仏教とは、ものの見方です。お釈迦様のものの見方を学んでいくのが、仏教です。
ものの見方を増やす、そんな感じで、この坐禅会とお付き合いしていただければ、ありがたいなと思っております。

 

武漢肺炎もなかなか収束しません。
規制や自粛、そして、経済的な打撃。社会全体が、なんとなく浮き足だっているような感じです。
どうぞ、互いにしっかりと歩みをすすめましょう。

 

【普回向】

 

 

 


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