11月 21日 満月の夜の坐禅会 10月31日講話 冒頭部
満月の夜の坐禅会 39回目
それでは、言の葉をご覧ください。1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。
1、 体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう 坂村真民
手放す 受け取る 調える
ありがとうございます。
ずいぶんと寒くなってきました。あんなに暑い暑いと言ってた日々は、ついこの前です。そう、何事も移り変わっていくのです。私もそうですし、あなたも移り変わっていく。朝、起きて、仕事に行って、夜は家に帰って寝る。「今日も疲れたな」と寝酒をあおるけれども、その一日の始まりの自分と眠りにつく前の自分とでは、大きく異なる。今、坐禅を40分していただきましたが、その坐禅のはじまりと終わりのあなたとは同じではない。そう、刻々と移り変わっていく。
変化している。新たに新たに、「今・ここ」の「この私」は生まれ続けている。
言の葉2をご覧ください。四法印といいます。これは、仏教の旗印です。声に出しましょう。
四法印
諸行無常 すべての物事は移り変わる
諸法無我 すべての物事は関係の中で存在する
一切皆苦 苦しみを避けることはできない
涅槃寂静 この世には真実なるものがある
ありがとうございます。
諸行無常、すべての物事は移り変わる、と聞くと思い出すのが、『平家物語』の一節です。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。奢れる者久しからず、ただ春の世の夢の如し。」
そう、何もかもが移り変わっていく世の中を、何もかもが移り変わっていく私自身を、私たちは生きている。
そんな諸行無常という言葉には、寂しさ、悲しさ、厭世観のニュアンスがありますが、覚えておいてほしいことは、移り変わっていくことは悪いことではないのです。
なぜならば、移り変わっていく命を生きている私たちだからこそ、成長もできる。移り変わっていく命を生きている私たちだからこそ、たとえば、たとえば、辛くてもう生きるのを辞めようと考える日々を過ごしていたとしても、それも移り変わって、その辛さを手放すことも、その辛さを今後の生きる糧にすることだって、できるのです。
だから、移り変われることは、素晴らしいことでもあるのです。
諸法無我、すべての物事は関係の中で存在する ですが、つまりは、私たちの命は、人との関係性のなかにあるということです。もっと、はっきりと言えば、普段、私たちが「私が・俺が」と思い込んでいる、その「私が・俺が」はないんだよ、ということです。
なかなか信じられませんよね。自己責任が叫ばれている世の中で、この私をなんとかしたくて頑張ってるのに、この私をよりよくしたくて生きているのに、「私が・俺が」はないと言われたら、身も蓋もありません。
けれども、私が私を作ったのだろうか。
あなたはあなたの力だけで、あなたになったのだろうか。
あなたという存在は、両親、先祖があればこそです。両親や先祖の誰かが違うパートナーと結ばれていたら、私の命はなかった。そして、食べ物や教育、感動した本や絵画、生活環境、家庭環境、学校教育、友人、知人、恋人それらすべてが作用して、あなたができている。
つまり、「あらゆる現象は、それのみで存在しているというものは無く、すべての物事はなんらかのつながり、関係をもち、もちつもたれつの状態で存在している。」ということです。
「私が・俺が」が凝り固まると、私さえ良ければ・俺さえ良ければに成りかねません。そして、人が見ていてなければ盗む、法に触れなければ誰かを傷つけることにもなる。
だからこそ、私たちは諸法無我なる存在なのだと理解して、「私が・俺が」と思い込んでるものを少しづつ手放していかなければならないと思うのです。
一切皆苦 苦しみを避けることはできない とは、言の葉3をご覧ください。声にだしましょう。
四苦八苦
生苦 老苦 病苦 死苦
愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦
ありがとうございます。生苦 老苦 病苦 死苦、これが四苦八苦の四苦です。これに、愛別離苦 怨憎会苦 求不得苦 五蘊盛苦を、加えて八苦。
人生は苦しみに溢れています。苦しみとは何か、それは、思い通りにならない、ということです。
生苦とは、生きる苦しみのことではなく、生まれる苦しみです。托胎から出生までの苦しみのことです。私たちは、自分の才能や容貌を選んで生まれてくるわけではありません。生れる国も親を選ぶこともできず、また誕生の時を選ぶこともできません。まさに、「思い通りにならない」、苦であるのだ、と。老苦とは、老いていくことに起因する苦しみ。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなってきます。それに苦しむ。病苦とは病の痛みや苦しみ。死苦とは死ぬことへの恐怖や死後の不安。
愛別離苦とは、愛するものとやがては必ず別れなけれならない苦しみ。
怨憎会苦とは、会いたくない人と時を過ごさなければならない苦しみ。
求不得苦とは、求めても手にできない苦しみ。
五蘊盛苦とは、人間であるが故の苦しみ。
いいですか、もう一度、大切な事をお伝えします。一切皆苦 とは、苦しみを避けることはできない ことです。そして、苦しみとは、自分の思い通りにならないこと です。
つまり、苦しみを避けて通ることができないと学んだならば、現れた苦しみは素直に受け取ろうと前を向きたいのです。そして、苦しみの根幹には、思い通りにしようとする自分がいるのだから、その自分から少し離れて物事を眺めたいのです。
一切皆苦は人生を悲観するための言葉ではありません。この世を堂々と生きる智慧です。
最後に、涅槃寂静 この世には真実なるものがある です。
私たちは、この世に何をしにきたのだろうか。
人それぞれに答えは違うでしょう。
たとえば、幸せになるために生まれてきた、社会に貢献するために生まれてきた、魂の修行のために生まれてきた。
あなたと出会うために生まれてきたという、お連れ合いを持っている人もいるかもしれない。いや、そんな事ではなくて、もっと即物的に金を稼いでいい暮らしをするために、美味しい物を口にするために、と言う方もいるでしょう。
いずれにしても、人生を考えるときに忘れてはならないことは、人智を超えたものがあるという視点です。大いなるもの、サムシンググレート、神や仏、といわれるもののはたらきに耳をすませたいのです。
そうすれば、あくせく働く毎日だけれども、たとえば、眠い目をこすりながら乗る満員電車の中に、上司からの叱責の中に、居酒屋でくだをまく姿の中に、真実なる働きを感じ取れるかもしれない。
言の葉4をご覧ください。声に出しましょう。
『寒山詩』
吾心似秋月 吾が心 秋月に似たり
碧潭清皎潔 碧潭 清うして皎潔たり
無物堪比倫 物の比倫に堪えたるは無し
教我如何説 我をして如何が説かしめん
禅宗は、真実なるものを月に例えます。寒山禅師は、心というものは、秋の夜の名月の如く皓々と差別なく十方を照らし、その光が青々とたたえた澄み切った底なしのみずうみに冴え冴えと差し込むようにそれこそ一点の曇りもない清浄無垢であると詠われました。
この心とは、なんでしょうか。これは、真実なるもののはたらきです。普段の私たちの喜怒哀楽の感情に引きずり回される心のことではありません。
言の葉5をご覧ください。声に出しましょう。
我がこころ深き底あり
喜びも憂いの波もとどかじと思う 西田幾多郎
ありがとうございます。西田先生は、私の心の中に自分でも不思議に思うのだけれどなんだか喜びや悲しみなどとは無関係な深い底があるような気がします、と詠まれています。
仏教では、この心が老若男女を問わずあるのだというのです。それは、お金を持っているからとか、賢いひとだからとか、修行を長年積んだからから、という条件なしで、誰もが必ずこの心を持っているんだ、と。そして、この心に寒山禅師は手を合わせておられる。
つまり、仏教では、涅槃寂静 この世には真実なるものがあると気づき、それを悟り、それを体現していくために私たちは生まれてきたのだと説いているのです。
以下略
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