10月 26日 満月の夜の坐禅会10月14日講話まとめ
山頭火は、行乞と句作のなかで、愚を守る、という真理を手にしました。
けれども、私たちは誤解してはいけない。
たとえ、一つの真理を手にしても、もっといえば、素晴らしいお悟りをひらいたとしても、現実の暮らしが豊かになるわけではないのです。すべてがハッピーになるのではないのです。
昨今は、書店に行きますと、仏教書のコーナーには、「心が楽になる」というタイトルの本がたくさんあります。それを手に取るという人には「心が楽になりたい」事情はあるのでしょうが、たとえ心が楽になっても、働かない限り、暮らしが楽になるわけではありません。ここは大切なところです。
言の葉7をご覧ください。
大本山永平寺を開かれた道元禅師が、古仏と慕う趙州従諗禅師という方がおられます。歴代の祖師の中で、つまり、悟りを開いた方々のなかでも、特別な方であります。その趙州禅師に「十二時歌」というものがあります。一日、24時間を12で割ったその時その時の歌です。
丑の刻の段を紹介します。
朝起きて、着る衣などない。袈裟はわずかにぼろ布があるだけで、袴もぼろぼろでどこから足を出すのやらわからないあいさまだ。頭にはふけがたまっている。最初は修行をして人を救おうと思っていた。しかし、老いぼれて、こんなによれよれになろうとは誰が思っただろうか。
辰の刻の段を紹介します。
食事どき、辰の刻。炊飯の煙は四隣にたつが、わしは空しく望み見るだけだ。食うものなどない。饅頭もむし餅も去年たべたきりだなぁ。今思い出して空しく唾をごくんと飲む。仏法のことなど考えることもなく、「あーあ」としきりにため息が出てしまう。檀家は百軒あるけれど、いい人なんかいない。たまたま寺に来た者は言う、「お茶をだしてくれよ」。お茶を出さずにいると、「馬鹿野郎、お茶も出さないのかよ」と去っていく。
この世の真実を見極めた趙州禅師が、「ああ、饅頭なんて、去年たべたきりだなぁ」と仰っておられるのです。左団扇で暮らしていたかというと、そうじゃないないのです。心が楽になっても、暮らしは、、、、ね。
それが分からずに、心が楽になったら、すべてが思い通りになると誤解している方が多いのではないだろうか。互いに気をつけたいものです。
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