12月 14日 満月の夜の坐禅会12月12日講話 抄
言の葉2をご覧ください。
グリーフとは悲嘆のことです。悲しみ嘆くことです。
それは、例えば、大切な方との死別、リストラ、家庭の不和、人間関係のゆがみ、今回の台風による災害などもそうです。
考えてみれば、 私たちは思い通りにならない現実と共にあります。
しかしながら、まだまだ、郡山では、グリーフとか、フリーフケアとか、わかちあいの会という言葉は馴染みのない言葉なのです。だから、この会の活動を通して、悲嘆から目を逸らさない、そんな勇気を養っていきたいなと考えています。
基調講演のなかで、髙木先生が、最後に用いた詩を、言の葉3に記しました。私が先導しますので、声に出しましょう。
3、 あしあと マーガレット・F・パワーズ
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
髙木先生は、修道女、シスターです。大学を卒業したと同時に、修道院に入りました。修道院に入るということは、人生のすべてを神さまに捧げることを意味します。結婚しない、自分の希望通りにはならない、財産を持たない、そして、祈ること。そんな生活をしてきたなかで、先生の信仰は、揺るぎのないものになっていきました。
いつも神さまと共にいる、、、と、確信を持っておられる方です。
その講演会の後、お手伝いをしてくれた女性からメールが来ました。そこには、こんなふうに書かれていました。その人の許可を得ておりますので、紹介いたします。
今回の髙木シスターの話を聞いて、また、シスターの、いつも神さまと共にいるという信仰を聞いて、私の心は激しく揺れています。と申しますのも、私もクリスチャンです。私は学生の頃から信仰をしてきました。今年、70歳ですから、もうすぐ半世紀になります。
ここ数年、私の身の回りに起こったことは、あまりにも辛いものでした。長年、主人の女性問題に苦しんできましたが、その結果として、昨年離婚をしたこと。実家の父が亡くなったこと。母の認知症がひどくなり、私のことさえも分からなくなったこと。次男の躁うつ病がひどくなり、ある事件を起こし、入院したこと。長男は結婚し、家庭を持っていますが、次男が何か大きな事件を起こすのではと危惧し、子どものためにと、奥さんの姓に変えたこと。
そんなことが続いて起こり、私の胸に大きな疑問が湧きあがってきました。
そう、神さまは本当にいるのだろうか、って思ってしまったのです。
長い間、教会に通い、祈りを捧げてきても、私の願い通りにはなりませんでした。その願いと言っても、望外なものではありません。ただ、幸せに生たかった、それだけです。けれども、現実の暮らしは、この状況は、私独りでは解決の出来ない、とても重い荷物を抱えることになっています。
私の胸に湧き上がっている疑問、神さまは本当にいるのだろうか、について、まだ答えはでていません。
私自身、本当は、神さまはおられたんだと気づきたいと願っていますが、でも、そこに辿り着くかどうか、わかりません。
このメールを読んだ時、とても素直な方なんだなと思いました。そして、少しでも現実の暮らしの痛みが和らげばいいな、と思いました。
苦しい時の神頼みという言葉がありますように、自分に困ったことが起こると、神さまや仏様になんとかしてくださいと願うことがありますよね。
また、困っていなくても、お正月には神社やお寺で100円玉を賽銭箱に投げ入れて、「どうかいいことがありますように」と手をあわせますし、厄年には厄払いのご祈祷を受けた人もいらっしゃるでしょう。
そして、大切なことなんですが、そんな私たちの心の隙をついて、優しい顔をした人が現れる。「この壺を買えば、幸せになりますよ」って。悪縁を断つことができ、思い通りになることができる、と。
どうなんでしょうか。
確かに、不幸せよりも幸せになりたい。お金に困るよりも、楽して暮らしたい。悲しい思いよりも、楽しくありたい。
みんなそうですよね。
でも、そのために、神さまや仏さま、大いなるものがいるのでしょうか。
言の葉4をご覧ください。声に出しましょう。
感応道交 「感」は衆生が仏菩薩の救済しようとする心を感じること。「応」は、仏菩薩が悟りを求める衆生の願いに応ずること。「道交」とは衆生と仏菩薩の心が行き交い、共鳴すること。
ありがとうございます。
感応道交、この言葉に出会えただけでもすごいことなんですが、仏菩薩の、神さまの、大いなるものの願うことは、私たちの物質的な豊かさや一時の悦楽ではなくて、私たちが真実なるものに気づくことではなかろうか、と思うのです。
だから、厳しいことを申し上げれば、現実の暮らしに信仰が揺らいでいては、まだまだなんです。焦点を現実の暮らしから、真実なるものへの気づきに変えなければならない。
言の葉5をご覧ください。声に出しましょう。
どこに続いているかわからない道
痛みと哀しみを手に独り寂しく歩く
そこにいるのは私独りだけ
もしそれでも「神も仏もいる」と感じるのならば
私は独りではない
ありがとうございます。
これは、数年前、修証義の解説本を書き始めた頃に作った詩というか、私の思いです。当時、私は手にしていたものを手放さなければならなくなりました。その時、祈りました。願いました。
助けてください、と。
けれど、現実は変わりませんでした。いや、むしろ、もっとひどい話になってしまった。なんだ、神も仏もいないんじゃないかと思いました。
でも、還俗することはできなかった。
なぜならば、こんな私でも、必要としてくれた人がいたからです。
実際、今の私自身の現実の暮らしも、悲惨なものです。
とても詳しくは語れません。でも、その一方で、こんな私でも、友と呼んでくれる者もいます、また、支えてくれる人もいるのです。
中野郁子
Posted at 08:55h, 06 1月法慧さん
明けましておめでとうございます
お誕生日の日には、本当にありがとうございました
実家に向かう電車の中ですが、法慧さんを思い、久々に(ごめんなさい)検索させてもらいました。
そして、満月の文字に惹かれてこのプラグを先ず開きました。
世の中には居るんですね
私に瓜二つみたい…
電車の中だけど、涙がポロポロ溢れます。
少し違うのは、神さまがいるのかと思うことさえできず、ひたすら無いものと思い、その後散々神さまに文句を言い、そして神さまにしかわからない事があり神さまがご用意してくれた道が佳き道でないはずがないと思った事でしょうか…
奈美ちゃんから、「法慧さんの所へ今度一緒に行きませんか」と誘ってもらいました
私も、先日のお礼がてら、酒好きの三男にもらったことのあるカブトムシの絵のお酒(栃木のらしい)を持って行きたいと思っていた時でした
今日は2日に続き、また栃木の母のところに向かっています
どうも、すぐ近所に大平酒造というのがあるみたいなので、いつか送れないかなぁと、法慧さんのお寺の住所の検索から、この展開となりました。
いつの事になるかわからないし、美味しいかもわからないけど、いつの日かお手元に届けさせてください。
神さまは、やっぱりいるんですよね
私はすっごく素敵なクリスマスプレゼントをもらいました
思いがけず、入院中の次男と過ごせたの。
並んでイヴ礼拝をまもれました。
彼の幼少期、牧師さんがやっていた小さな幼稚園に通っていた頃の出来事が、走馬灯のように巡りました。
そして、もう一つのプレゼント
川崎の中原キリスト教会を検索してみてください
なんと、なんと、写真の片隅に息子が写っている(左隣の私は写っていない)
神さまは、忘れん坊の私に証拠を残してくださった
前方左の佐々木炎牧師はスピリチュアルケア学会2日目総持寺でのコメンテーターでした
そして、30日にも急遽外泊での帰宅
私は31日は栃木の母にお節を届けに行ったのですが、年越し蕎麦を次男と一緒に食べ、年明けて2人で近くの真福寺にお参りしました
人気無く住職夫婦がいらしただけですが、一億円と一千蔓円の飴が2つ入ったお年玉袋をいただき、心が温まりました
朝食も一緒にお雑煮とおせちを食べ、9:30に病院に送り届けました
双極性障害がなくてももともとが難しい彼との時間は、必ず良い事悪い事がセットでいろいろ起きます
でも、どんなに嫌な事があっても、彼との時間が紡げるのは私にとって幸せなのだと、再確認できた日々でした。
年明けから長々とすみません
法慧さんのますますのご活躍をお祈りしています
郁子
大童法慧
Posted at 17:25h, 07 1月中野さん 新年、おめでとうございます。機を得て、奈美さんとご一緒しましょう。
「神は細部に宿る」みたいですね。
劇的な変化や大きな祝福というような目に映るものを期待してはいけないのでしょう。
いや、むしろ、朝目覚めることが既にそのはたらきなのだと受け取れるか否か、が問われているのでしょう。