11月 18日 満月の夜の坐禅会11月講話 その2
言の葉3をご覧ください。
「他ならぬ私」を支えているもの <案>と書いてます。
ア、私自身
私 志 夢 勇気 自信 体力 経験 思想 信条 会社 学歴 仕事 学び 知 芸術 趣味 本 言葉 思い出 物語 薬 道具 時間 お金 資産
イ、他者
家族 両親 兄弟 子ども 孫 先祖 故人 先生 友人 仲間 恋人 著明人 誰か知らぬ人
ウ、世界
空気 水 地球 食べ物 酒 国 社会 歴史 地域社会 人権
エ、スピリチュアルなもの
神 仏 大いなるもの 天 愛 サムシンググレート 信仰
オ、一見マイナスだと思えるもの
病 老い 死 経済的困窮 挫折 不和 困難な出来事 リストラ 左遷 離婚 うらみつらみ 孤独 墓場まで持っていかなければならないこと
今日は少しお考えいただきたいのです。
「他ならぬ私」を支えているものは、何があるだろうか。この私を支えているものは何だろうか。
今読んでいただいた言の葉は、あくまでも<案>です。
ひとまず、アイウエオの5通りにわけて提示いたしましたけれども、これ全部が当てはまる人もいれば、そうでない人もいるでしょう。俺はここは違うなと思う人もいれば、私にはもう一つ二つあるわと気づいた人もいるでしょう。
そこで少し、考えながら聞いていただきたいのです。そして、もし、ここに書いてないものがれれば、後ほど、こっそりと教えてください。
まず、「他ならぬ私」を支えている物、アから見ていきましょう。
ア、私自身
私 志 夢 勇気 自信 体力 経験 思想 信条 名誉 学歴 肩書 仕事 学び 知 芸術 趣味 本 言葉 思い出 物語 薬 道具 時間 お金 資産
私を支えているものは私である、この考え方は非常に多いと思うのです。私の志や夢を持つのは大切です。そして困難に出会えば、私の勇気や自信や体力でもって立ち向かう。また、思想や信条に生きる人もいます。いや、そんなお金にならんことよりも、名誉や学歴や肩書が誇りなのだという人もいます。
そして、日々の仕事のなかに己の成長を確かめる人もいれば、皆さんのように一つの事を学んでいく姿勢、インテリジェンスを追及するなかに無上の喜びを感じる方もいれば、芸術や趣味に生きる方もいらっしゃるでしょう。
あの日に手に取った本、大切な人にかけてもらった言葉、懐かしき思い出、私自身が織りなした人生の物語あります。おそらく多くの方が、これこそが今の私を支えてくれているものだ、と仰ることでしょう。
薬というのは、薬物のことではありません。私自身はまだ大丈夫ですが、血圧、糖尿などいろいろと持ち歩いている方もいますよね。あれです。同様に道具というのは、職人さんもそうでしょうし、杖を持つ人は杖がなければ歩けない。勉強するにもノートとペンは必要です。私は、正直に申し上げてパソコンがなければ書くことはできない。
時間に支えられているというのは、やはり、時間でしか解決できない問題もありますし、また、人生は時間の長さで測るものではありませんが、やはり、生きた証であります。
そして、お金や資産は言わずもがなでしょう。目に見えるには一番分かりやすい数字ですし、そのおかげで、様ざまな事もできます。だから、嫌う必要はない。
ここでお考えいただきたいのです。このアの考え方だけで私を限定してしまうと、「俺は俺、貴方は貴方」「全ては自分次第だ」「幸せは自分が決める」という考えが派生してきます。
なぜならば、自分中心。私中心のものの見方だからです。確かに、一面においてはそうなのかもしれません。人に迷惑をかけなければ、それでもいいのかもしれません。
けれども、けれどもなのです。その自分で悩み、その自分に苦しみ、その自分を持て余すことはないだろうか。順風な時はそれでいい、けれども、逆境な時はどうだろう。たとえば、治らぬ病を突き付けられた時、たとえば、理不尽な事故に巻き込まれ時どうでしょう。アに書かれていたいることを全て手に満たしたとしても、それで「私」は大丈夫だろうか。
次にイ、他者です。
家族 両親 兄弟 子ども 孫 先祖 故人 先生 友人 仲間 恋人 著明人 誰か知らぬ人
家族や両親、兄弟、子ども、孫に支えらえているという人がいます。その一方で、離婚しました。家庭が崩壊しましたということも、よく聞く話です。独居老人という言葉もあります。現代は結婚しない選択もありますし、子どもを作らないという選択も支持されています。
いずれにせよ、ここに私の命があるのは、必ず父と母がいたからです。その父と母が、誰か違う人と結ばれていたら、私の命はなかった。先祖というのも、また同じこと。何代か前のおじいちゃんが隣のおばあちゃんに恋をしていたら、今、私はここにいない。故人というのは、私たちはこの世には生きている者しかいないと思いがちだけれども、そうではない。死者、故人もまた、私と同じく生きている。だからこそ、仏壇に語りかけ、よせばいいのにお墓に酒をかけたり、煙草をお供えしたりもするでしょ。故人は消えてなくなったのではないのです。
先生 友人 仲間 恋人というのは人生の中で出会った人であります。著名人 というのは、例えば私にとっては坂口安吾やリルケ、お釈迦さまや道元禅師。最近では若松英輔さんの本などよく読みます。誰か知らぬ人、これもまた、支えていただいていると思うのです。たとえば、この服はお金を出して買ったけれども、誰かが製造販売している。
イの他者という存在、これを認めること、そして多く出会うことが大切ではないかなと思うのです。
確かに、誰かと関わることは面倒な事でもあるし、ある意味、私が傷つくことでもあります。人間関係という悩みがつきまとうかもしれない。誰かを理解することはとても困難なことですが、それでも投げ出さずに同じ音を知る者、同じ地平を歩む者と出会えたらならば、これほど素敵なことはないし、また大きな支えとなるでしょう。
次にウ、世界です。
空気 水 地球 食べ物 酒 国 歴史 地域社会 権利 人権
これは、私たちが生きている世界のことです。空気や水があるからこそ、地球があればこそ、私たちは生きている。だから、環境問題は他人事の話ではないのです。私自身の問題であります。そして、食べ物があればこそ命を保ち、私事で恐縮です、お酒があるからこそ寝ることができます。
この国があればこそ生きている。今、世界には難民という形で随分ご苦労をなさっている方々が多くいます。日本という国も多々問題を抱えていますが、国が崩壊したということはありません。
昨今は、日本が死んでも私だけは生き残る。日本という国がなくなっても、侵略されても、私だけは大丈夫。という考えの方が多いようですが、なぜ、そんなことが思えるのでしょうか。決して、そんなことはありません。帰属する共同体に生きるということを忘れてはならないはずです。
つまり、日本が死ぬということは、自分も死ぬことであると思うのです。
歴史というのは、自分がこの時代に、この国に生を享けたことです。今が戦乱の時代ならば悠長にしてはいられなかったでしょうし、もし中東に生まれたならば、仏教とは出会えなかったかもしれない。
地域社会とは、今住んでいる地域との関わりです。都会では希薄なものになりつつありますが、そこに住むことによってしか見えないもの、気づけないことがあるはずです。
そして、人権ですね。これは多くを語らなくても、皆さんはよくご存じのはずです。私たちは、人権を何よりも優先する社会を選んだ、それを生きています。
ウ、の世界という支え。
どうでしょうか、肯けるものもあれば、どうかなと感じるものもあったかもしれません。けれども、ポイントは、世界と私を対立させないこと。現象と私を対立させないこと。それが、「今・ここ」に私がいる意味であり、私の生の肯定となり、大きな支えとなります。
次にエ、スピリチュアルなものです。
神 仏 大いなるもの 天 愛 サムシンググレート 信仰
言の葉4をご覧ください。一緒に読みましょう。
なにごとのおはしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる
この歌は、西行法師が伊勢神宮に参拝した折に詠んだものです。「なにごとのおはしますかは知らねども」とは、なんとなく怖れ畏まる心が、実は、「目に映る世界が全てではないのだ」と私たちに働きかけている。知らしめている。
このスピリチュアリティーというものは誰にでもあるものです。その力が私たちに備わっているのです。だからこそ、神仏に手を合わせることができる。そして、それに支えながら、自分のスピリチャリティーを育てていくのだと心得ておきたいのです。
最後にオ、一見、マイナスだと思えるものです。
病 老い 死 経済的困窮 挫折 不和 困難な出来事 リストラ 左遷 離婚 うらみつらみ 孤独 墓場まで持っていかなければならないこと
なんでこれらが、私を支えているものなの、と思うかもしれません。できるならば、病気になりたくないし、歳は取りたくない。死んでも死にたくないし。楽していたい。それが人情です。
しかし、皆さまならばご存知だと思うのです。
人生は愉しいことばかりではありません。歓楽極まりて哀情多しを身に染みて思う日もあります。身体は日一日と確実に衰えます。ある日突然に不治の病を告げられることもあるでしょう。予期せぬ事故や不条理な事件に巻き込まれることもあります。また、他者との関わりに誤解が生じ、拒絶されたり絶縁したりということだってあることでしょう。お金や誰かを恨む日もあれば、自分自身を許せない日もあります。そんな時々に湧き上がってくる感情に振り回され、見えない力に押し潰されそうなることもあるものです。
しかしながら、そんな苦悩の只中を生きることになったとしても、その苦悩を支えとして生きることもできる。それが、私たちの「何があっても大丈夫な光」です。
私はかつて法話など話していたのですが、今が肯定できるならば、辛い過去も肯定できる、って。かつての私は、今を肯定しましょう、と説いておりました。でも、本当は違うのです。実はそうではありませんでした。
その今が、苦しくて辛くて切なくてしかたないのです。逃げたい、泣きたい、そんな今に押しつぶされそうなんです。
だから、今がオッケーならば、過去も肯定されるという悠長な話はいらない。それよりも、むしろ、「今・ここ」の「このままの私が」救われる世界があるのだ、と。
それは、エのスピリチュアルなものとの出会いがなければ、なかなか得心ができないと思います。
それでも生きていく人間の強さがあるのだ、と。失敗しようとも、警察に捕まろうとも、前科者と後ろ指をさされても、薬漬けになったととしても、それでも生きていく。それでも生きていかなければならない。それでも、生きていける強さが私たちには備わっているのです。だからこそ、一見、マイナスと思われるようなものであっても、他ならぬ私を支えていると、承知しておきたいのです。 (以下略)
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