12月 30日 満月の夜の坐禅会12月講話 その2
人間の難しさを生きるにあたって、今日、指針となる言葉を二つ皆さんに手渡しておきたいのです。
言の葉6と7をご覧ください。
言の葉6
行蔵は我に存す 毀誉は他人の主張 勝海舟
言の葉7
さるべき業縁の催せば如何なる振舞いもすべし 親鸞聖人『歎異抄』
言の葉6は勝海舟の言葉です。
福沢諭吉の著書「瘠我慢」で勝海舟に対する批判に対して送った手紙にある言葉です。
福沢諭吉は勝海舟をこんなふうに批判した。「立派な行いをやりながらいけしゃしゃと爵位を授かる神経が分からぬ、お前の大義は褒美を受け取ることだったのか・・・瘠我慢が足りぬ」
それに対して、勝海舟は、我が行いは自らの信念によるものである。けなしたりほめたりするのは人の勝手だ、と言い切りました。
私たちの暮らしの中にも、福沢諭吉のような人がいます。諭吉さんが印刷されたものはとても大切ですけれども、、、実際の彼のように自分のことはお留守にして、他人のことばかり文句を言う人は困ったものです。でも、それはそれでいい。私たちは、行蔵は我に存すという覚悟で生きたい。
言の葉7は親鸞聖人の言葉です。
『歎異抄』に「さるべき業縁の催せば如何なる振舞いもすべし」あります。これは、親鸞聖人の告白です。
いえね、今、私は親鸞として、僧侶として、南無阿弥陀仏ひとつで生きているけれども、ご縁によっては、どんなことをしてしまうのかはわからないのだ、と仰るのです。
たとえば、目の前で愛する妻が誰かに切り付けられたとしたら、私はその者を恨むかもしれない、いや、その者に殴りかかるかもしれない。目の前で愛する子どもがさらわれそうになったならば、何をしてでもそのさらおうとする者を手にかけてしまうかもしれない。
だから、どんな時にでも、南無阿弥陀仏と手をあわすことができるかというと、それは容易く答えられないよと告白されているのです。
私たちも同じです。
ご縁によっては、私たちも幸せを深く味わうこともあれば、苦難のなかに身を置くことになるやもしれないのです。そして、そこには「如何なる振舞いもすべし」という自分が現れてしまうのかもしれないということは押さえておきたい。(以下略)
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