大童法慧 | 満月の夜の坐禅会3月2日講話 冒頭部
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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3月 10日 満月の夜の坐禅会3月2日講話 冒頭部

それでは、言の葉をご覧ください。
1番を、まず、声に出しましょう。私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

 

1、    体の中に
光を持とう
どんなことが起こっても
どんな苦しみのなかにあっても
光を消さないでゆこう    坂村真民

手放す 離れる 調える

 

さて、先週末、一般社団法人日本メメントモリ協会が主催したシンポジュームに参加してきました。上野稲荷町の真言宗 成就院様で行われました。
パネリストは、大井玄先生と佐々木淳医師でした。大井先生は、昨年、この坐禅会に参加された方でもあります。

 

そのなかで、とても印象に残った言葉を皆さんに手渡したいと思います。
言の葉2をご覧ください。声に出しましょう。
2、    病気や障害が治らなくても、人は不幸にはならない

 

これは佐々木先生の言葉です。
大井先生、佐々木先生とも、終末期医療に携わり、何千人もの方を看取られてきた先生です。この言葉は、そのなかで手にした真理だと思うのです。

 

しかし、これを聞いて、「なるほどそうだ」と頷ける人は、そんなに多くはないでしょう。なぜならば、自分自身が、あるいは、大切な方が、そんな体験をされ、嘆き、悲しみ、苦しみ、呻き、泣いた時間を過ごし、そして「嗚呼、もうだめだ」とか、「死んでしまいたい」とか、そんな思いをつくづく味わって、はじめて響くのではないかと思うからです。

 

不満はそこそこあるけれども、でも、俺の人生、まぁまぁだなとか、明るく、健康で、生きる時間に余裕のある人には、この言葉の深いところまで受け取ることはできないだろうと思うのです。ですが、皆さんにこの言葉を手渡したいと思ったのは、今はまだわからなくても、ご縁がある時に、触れておくのならば、やがて、必要な時に、また立ち現れてくるものだからです。

 

病気や障害が治らなくても、人は不幸にはならない
では、これをもう少し深めると、病気や障害に限定しないで、言い換えるならば、どうでしょうか。

 

言の葉3をご覧ください。声にだしましょう。

思い通りにならないことを思い通りにしようとすることだけが人生ではない。思い通りにならなければ承知しないという吾我から離れていく歩みがある。

 

ありがとうございます。
今日の結論は、これです。いや、仏教の目的はここだと思うのです。

 

考えてみれば、どうでしょう。
私たちは、思い通りになることだけを追い求めています。会社でも、家庭でも、人間関係、夫婦、親子の間においても、まず、自分の思い通りになることが正解です。そして、結果、思い通りにならないものを多く抱えてしまう。

 

実際、その思い通りにならないものを、思い通りにしようとして、憎悪がうまれるのですね。憎悪のベクトルは、自分ではなくて、いつも他者です。

 

男女関係が上手くいかないのは、相手のせい。
親子の関係が上手くいかないのは、頭の固い親のせい。
会社で評価されないのは、あの上司のせい。
俺がこんなところにいるのは、この社会のせい。
そして、それが高じてしまうと、思い通りにならない相手を傷つけたり殺めたり、思い通りにならないお金や物を騙し取ったり盗んだり、どこまでも、思い通りにしようとしてしまう。  (以下略)

 


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