10月 05日 真如苑 宗教間対話レポート
宗教間対話レポート
課題図書の『摂受心院-ほとけの心を生きる』『真乗―心に仏を刻む』を読み終えて、まず思ったことがある。それは、数百年の時を超えてまで真乗との出会いを待ったという平常眼の不動明王様のご尊顔を拝したいものだ、と。
「どうしても依頼の不動を刻むことができない。こんなことは初めてであるが、どうもこのお不動さまが私に刻ませてくれない。このお不動さまが、伊藤先生のところに行きたいと言っている」このように語れる仏師、中丸奥堂氏のものの見方の豊かさ、また、そのご縁を素直に受け取ることの出来た真乗・友司ご夫妻。この出来事はご夫妻の信仰の源泉となり、また、後に大教団となる真如苑の出発点になった。
両著作に描かれているご夫妻の歩みは、決して平坦なものではなかった。宗教者として生きることを選んだ、また選ばれた者にこそ与えられた法難。両童子の逝去。もちろん、大きな事柄を為そうとする者の前には、それを恨む者や面白く思わない者たちも沢山現れたであろう。
しかしながら、両著作に掲載されていたご夫妻の写真は、決して暗いものではない。悩みに打ち震えている姿ではなく、「それでも、生きる」と視線をあげた面構えである。己の使命を果たそうとする不退転の覚悟が感じ取れる。
そんなご夫妻の佇まいに、『唯摩経』の「不可思議解脱を説く」という第五章の二十節を思い出した。そこでは、唯摩が大迦葉に次のように語っている。「大徳よ、あらゆる魔が十方の無数の世界において魔事に従っているが、彼らはすべてまた、不可思議解脱にある菩薩なのです。方便に巧みなので、衆生を成熟させるために魔事を行っているのです。」
つまり、私たちの目の前に現れた苦難は、すべて仏の慈悲であったのだ。私たちが経験しなければならないことを導いてくれていたのだ。そうして、私たちの仏知見の開示悟入を養ってくれていたのである。おそらく、ご夫妻はそんな菩薩のハタラキを感じ取っていたのであろう。
真如苑に赴いて、驚いたことがある。それは、平日の午前にもかかわらず多くの方がお参りされていた姿である。その手をあわすお姿は、仏像を美術品として展示している寺院、御朱印集めという名のスタンプラリー、体験や思い出作りのための参拝などとは趣を異にしてあった。おそらくその違いは、信仰の有無にあるのであろう。
先日、郡山に在る大きな寺院の若い住職が会合の場で「うちの檀家は立正佼成会に入っている人が多い。でも立正佼成会は「葬式法事は菩提寺で、信仰は立正佼成会で」と指導をしているから、別に困りはしない」と得意気に語っていた。それは、まるで「軒先を貸して母屋を取られた」姿だ。残念ながら、彼はそのことにまだ気づいていない。高松の叔母が近くに在る菩提寺に道を尋ねるのではなく、立川に出掛けた心に少し触れたような気がする。
今回は話す時間がなかったが、機を得て、「篤信の檀越」について、先生のお考えを伺いたいと考えている。
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