大童法慧 | 真実担道の人  
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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12月 31日 真実担道の人  

生きて今あるは 

 

路遥にして馬の力を知り、事久しうして人の心を知るなれば、仏道は順逆の中に長遠の志を堅く持つを、真実担道の人と云なり   『大智禅師仮名法語』

 

穴があったら入りたいような失態を犯せば、取り返しのつかない失敗もある。嵐のような叱責、言われたくなかった言葉、やり過ごす時間。

如何ともしがたい事実を突き付けられた時、あなたはどうするだろうか。妬み嫉みで貶めようという世界が現れたとしても、自分がどんなに嫌いになったとしても、「もうだめだ」と呟く事態に陥ったとしても、南無帰依佛と誓った私たちは、それらを菩提の行願として歩み続けるお互いでありたいのです。

 

 

冬の章  「親

 

私はもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによって持っているのだ 『ブッダ最後の旅』
四十歳も半ばを過ぎると、友人からの結婚式の招待状はほとんど届かなくなります。たまに二度目や三度目の案内を受け取ることもありますが、祝い事へのお呼ばれよりも、喪服を着る機会の方が増えてくるものです。そして現実に、親の介護や葬儀というものに直面する世代となります。

「親孝行、したい時には親はなし」この言葉を聞いて、御両親とお別れされた人ならば、「ああ、なるほどな」と感じることでしょう。また、その悲しみが最近のものであるならば、涙でもってこの言葉を噛みしめていることでしょう。

生意気盛りの頃、「自由に生きたい」と親に言ったことがあります。息の詰まるような閉塞感を感じ、「早く、この家を出ていきたい」と願ったこともあります。

いつもの朝、見慣れた食卓、自分の部屋、親の顔。でも、そこは、実はなにもかも満たされていた場所でした。  私の手元に、原田湛玄老師と高橋祖潤尼様と両親、そして、私の五人が並んでいる写真があります。得度式の後、撮影したものです。

平成九年二月八日、湛玄老師に私は頭を剃っていただきました。徳山から駆けつけた両親は、我が子が出家するという出来事をどのように受け止めたのでしょうか。

得度式が終わり、小浜駅で見送る私に母が言いました。
「あんたの択んだ道じゃけん、自分が本当に納得するまでやりんさい。家のことは、心配せんでええから」

数日後、赫照軒にお参りに行った際、高橋祖潤尼様が噛んで含めるように示されました。
「法慧さん、親ほどありがたいものはないよ。親ほどあなたのことを想ってくれる人はいない。あなたが迷っていた間、御両親はあなた以上に悩んでいたはずだ。けれども、じっと待っていてくれた。それを決して忘れてはいけない。

出家は家を出るといいますが、親との縁が切れたのではありません。毎朝、毎晩、親のために手を合わせる心を忘れてはなりません。そのことによって、また、親との新たなご縁が生まれるのです。

親孝行とは、親に心配をかけないことです。まっとうに生きてほしいと願うのが親だよ。人柄な人に育ててくれたご両親を拝みなさい。」

白い頭、遠くなった耳、老いていく身体。改めて思うのです。自らの命を削って、我が子を育てたのだ、と。

懐かしく暖かな日々、穏やかで緩やかな時間、宝物のような故郷。
 

春の章 「初詣」

 

親の死とは、あなたの過去を失うこと。 配偶者の死とは、 あなたの現在を失うこと。 子どもの死とは、あなたの未来を失うこと。 友人の死とは、あなたの人生の一部を失うこと。             『愛する人を亡くした時』 グロールマン
お正月、やっとの思いで、主人と初詣にでかけました。この3年間、お正月が来ても、とてもそんな気持なれかった。主人も同じだったと思います。でも、思い切って誘いました。
娘が生きていた6年間、毎年、一緒にでかけた神社です。はっきりと思い出しました。娘の事を。ああ、ここでお御籤を買ったな、ここでお昼を食べたな、ここで写真を撮ったな、と。

毎年、家族で一枚の絵馬を求め、願い事を書いていました。元気で暮らせますようにとか、パパが煙草をやめられますようにとか、マンションを買う夢もありました。 「絵馬を書かない?」と、主人に言いました。彼は黙って頷いて、先に書きはじめました。渡された絵馬には「貴代美が幸せになりますように パパ」と、書いてありました。貴代美とは、娘の名前です。

それを見た時、涙があふれました。
でも、その時、強く思ったのです。「この人と一緒なら、きっとやり直せる」って。

亡き吾子の 幸せ願う 初詣
それでも、生きる。それでも、生きる。そうすれば、そこに、新たな風が吹く。きっと、穏やかな優しい風が吹いてくる。

 

夏の章  「我が身

 

百計千方、只だ身の為にす 知らず、身は是れ塚中の塵なることを 言うこと莫れ、白髪に言語無しと 此れは是れ、黄泉伝語の人   香厳智閑禅師
日々の多くの考え事は、我が身可愛さのためじゃないだろうか。少し落ち着いて、自らの年老いた姿を想像してごらん。「本当に大切なものは何なのか」を、先に逝った方々が教えてくれるはずだよ。

手にした物の数を競う人生。人を二つの種類に分ける世の中。悲しい哉、私たちには、物事に善悪や優劣の評価を自分の感覚のみで行い、それを絶対の価値観として生きてしまっているのではないだろうか。そして、他者との比較の中で、自分を確認し、強く見せたり、賢く見せたり、威張ったり、怒鳴ったり、結果、消費による自己実現。

あいつは金持ちだけど、俺の方が頭はいい。あの人はもてるけれど、私の方が心はきれい。そんな言い訳を作り出し、自らを慰める。でも、比べる世界に満足や喜びはないのです。

もしも、あの時、あの言葉を言っていれば、もう少し、ましな男になれただろうか。もしも、あの時、深く考えていれば、もう少し、まともな人生を送れただろうか。

こんな調子で、この先、自分で自分のことがわからなくなったり、身の回りの世話をしていただくことになったりした時、私は優しく、楽しく、明るい自分でいられるだろうか。

修行道場では、夜の坐禅の終わりに、木版が鳴ります。古参の僧が木版を打ちながら、「生死は事大にして、無常は迅速なり。各々宜しく醒覚すべし。慎んで放逸すること莫れ」と、禅堂に坐る者たちに低い声で朗々と告げます。静寂の中、木版を叩く音が身体に染み込み、その声が身体に響き渡ります。

時間は、おのが耳で聞き取れぬほどの凄まじい轟音をたてながら、万人の中を等しく通過します。でも、時間が私たちの上を走り去っているのではないのです。そう、私たち自身が過ぎ去っているのです。私たち自身も移り変わっていきます。だからこそ、現実のこの暮らしは何よりも強くあり、何よりも逞しくありたい。

我が身可愛さから、少し離れる夏を過ごしたいものです。

 

秋の章  「君に」

 

衆生無辺誓願度。人生を長短ではなく、濃淡で汲み取る覚悟をいたします。
煩悩無尽誓願断。人生を私からではなく、公や義からはじめる視点を育てます 。
法門無量誓願学。人生を世間の知恵だけではなく、佛智慧を育てる視点を持ち続けます。
仏道無上誓願成。人生を今生だけのものではなく、「ひとつながりのいのち」として受け止めます。

 

君も知っているだろう。あの日から、「君が何故こんなことになったのだろう」とひたすら悩み続ける家族の姿を。

気丈に振舞っていたお父さん。目を真っ赤に泣きはらしたお姉さん。必死に歯を食いしばっていたお兄さん。そして、棺の蓋を閉めることを拒むお母さん。

火葬の炉の蓋がゆっくりと閉まった時。耐えていたお父さんは、君の名前を大きく叫び、その場に倒れこんだ。お姉さんは、絶叫と嗚咽を繰り返しながら、肩を落とした。お兄さんは、声を詰まらせ、落ちてくる涙を拭こうともしなかった。お母さんは、その閉まる蓋の中に、飛び込もうとした。

家族のそんな姿を、君は想像できていただろうか。深く深く家族から愛されていることに気付いていなかったのかい。

君には自死を選ばねばならなかった理由があったのだろう。いや、そうするより、他に、手立てがなかったのかもしれない。しかし、もしそうだとしても、君は、まだ二十歳だ。 「先立つ不幸をお許しください」という台詞は、愛する者のために、守る者のために、命を賭す者の言葉だ。決して、自分のために命を断つ者の言葉ではないはずだ。

咽びながら君のお骨を抱えるお父さん。泣きながら君の位牌を抱くお母さん。力を込めて君の写真を持つお兄さん。涙をとめることのできないお姉さん。しばらくの間、君の大切な家族から笑顔が消えることになるだろう。

でも、大丈夫。みんな、多かれ少なかれ、生きていく悲しみを抱えている。大丈夫、君の家族なら、大丈夫だよ。

君は、本当に、愛されていたんだ。そして、君は今でも愛されているよ。だから、今度は君が家族を愛する番だ。大きな荷物は、ここに置いて。さぁ、もう一度、父の子となり、母の子となり、姉の弟となり、兄の弟となり、そして、君が君になる。

 

新年の章 「感謝」

新年の佛法如何と問わば 口を開いて他に説似するを須いず 露れ出ず東君の真面目 春風吹いて綻ぶ臘梅花 『大智禅師偈頌』

 

年の初めに、手をあわせ、幸せを祈る。その手に、怨みつらみはないだろうか。その祈りに、「今・ここ」への感謝の念はあるだろうか。
感謝の念、それは、すべてを肯定することからはじまると思うのです。受け入れがたく、目を背けたくなるような「今・ここ」であったとしても、「今・ここ」からはじめていく。「今・ここ」から逃げない。南無帰依佛と誓ったからにはその勇気を忘れずに、共に真実を担う人でありたいと願います。
 

平成27年 『大法輪』巻頭言


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