3月 08日 自分で捨てられないものを
拙著 『そのままのあなたからはじめる『修証義』入門』より抜粋
今年の夏、お会いした70歳のご住職のお話です。そのお寺は二十数年前に本堂を建て替えました。しかし、簡単ではありませんでした。六百軒あったお檀家さんが、「寄付をしたくない」からと3百軒以上が離檀したというのです。そして、何よりも驚いたのは、その離檀を勧めていたというのが同じ宗派の隣のお寺だとのこと。離檀したお檀家さんは、隣のお寺の新しいお檀家さんになりました。
当然そうなれば、寺同士の付き合いは悪くなります。ご住職は隣のお寺や離れていったお檀家さんを憎んだと、正直に仰いました。御本尊様も救ってはくれない、誰も力を貸してはくれない、そんな状況を恨んでばかりいた、と。しかし、齢70を前にして、あることに気付けたと仰るのです。
ご住職は私にお酒を勧めながら話を続けてくれました。「十数年以上、腹が立って仕方なかった。思い出せば、怒りに打ち震えた。けれども、そんな気持ちだけで毎日を送るのも、また悲しいものだと思った。そこで数年前、坐禅を今一度本気になってしてみようと、毎朝、坐ることにした。それでも、悔しさや仕返してやりたいような想いが湧いてくることが絶えることはなかった」
そして、目に涙を湛えながら話されました。「けれどもある時、隣のお寺のおかげで、自分では捨てられなかったものが捨てることができたという視点に気づけた。つまり、自分からお檀家さんを手放すことはできないけれども、離れていったお檀家さんを隣のお寺が持って行ってくれたおかげで、本当に協力的なお檀家さんが残り、本堂の再建ができ、そして、こうして今もお寺を大切にしてくれていることに心底感謝し、涙ができてきた」
しわがれ声でひとしきり話されたご住職は、「とても有り難いことに私は、このことを学ぶために僧侶となり、このことを学ぶために生きてきたと思う」と仰いました。
私たちには自分からは捨てたくないもの、自分からは捨てられないものがたくさんあります。けれども、それらのものでも急に奪われたり、急に失ったりすることは多々あるのです。そんな時に、平静でいられるでしょうか。
恨み辛みにまみれ、やり場のない怒りを持て余したご住職は、自分の生き方を保つために、坐禅という行に取り組みました。そして、苦境のなかに智慧を求めることを忘れませんでした。
夏の夜、親しくお話しくださったご住職のお姿に、「人間はどんな状況にあっても、どこまでも深めていくことができるのだ」という教えをいただきました。
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