10月 31日 静寂
生死 内山興正老師
手桶に水を汲むことによって
水が生じたのではない
天地一杯の水が
手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を
大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が 天地一杯のなかに ばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めのなかに 汲みとられたのである
人は死ぬことによって
生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が
私という思い固めから 天地一杯のなかに ばら撒かれるのだ
『生死を生きる−私の生死法句詩抄』
大切なあの人を偲ぶ静寂の時
思いを凝らして あの人との出会いを喜び 別れに学ぶ
そして、あの人のたたえる寂けさによって
真実なるものに気付き、いのちのはたらきに目覚める事ができる
MEMO
1、 「曼荼羅」
しみじみと
すべてが浸み透ってきて
荘厳な自己尽界の
曼荼羅となる――― いいものだ 年を老るとは
2、命 生命 いのち 使い方の共通認識を
大閑道人
Posted at 17:50h, 31 10月SECRET: 0
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仮に、身内だとしても、他人が死ぬのと自分が死ぬのでは違う。
内山老師のこの心境は、自分が死ぬ、という点では依存はないが、
他人の死に対しては、そうは問屋が卸すまい。
また、同じ「死」であっても、
老か、病か、それとも、事故か、あるいは、殺か、それでも違うだろう。
望むべくは、
老と病で死にたい、と願うわがままな私がいる。
ひろみつ
Posted at 20:28h, 31 10月SECRET: 0
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命、生命、いのちを分けて考えたことなどありませんでした。
大地に水を撒いたからといって水がなくなるわけではない・・・・・大事な人が死んでも、心の中に生まれ変わるということで、その人は生きているのだ・・・・味わい深いですね。僕も誰かにとって、そんな存在になれるかな・・・・
その人が僕の死後も僕を思い出すことで励まされるような。そんな存在になれるかな・・・
白蓮華
Posted at 23:33h, 31 10月SECRET: 0
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大切な人の死によって
その人が歩いてきた道が
浮かんでくることがあります。
10年以上経っても。
その人の想いや その人の心が
鮮明になることも…。
慧
Posted at 17:26h, 01 11月SECRET: 0
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道元禅師は8歳で母を失い、その線香の煙を見て無常を観じました。この世の、この身の常ならざる在り方に気付く事は、生死を明らめる出発点となるでしょう。
気付きの過程において、自他不二なる事を学べば、死を分ける事からも、死に様を思い悩む事からも自由になれると思います。
慧
Posted at 17:39h, 01 11月SECRET: 0
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先日、招かれて1時間の法話をいたしました。聴衆と言葉の共通認識を持つ作業をする事の大切さを学びました。
内山老師は生命ですが、私はいのちと説いてます。
慧
Posted at 17:43h, 01 11月SECRET: 0
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今秋、記憶を養うのが供養の養だと、大閑道人さんに教えていただきました。
忘れない事、そして、そこから学ぶ姿勢こそが養うという事だと、理解しております。
風月
Posted at 13:20h, 09 11月SECRET: 0
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この詩は内山老師が一枚のしおりにしてくださったので、時折に法事でも読ませて頂いています。
ここに生命の安心があると思います。若いときには京都の安泰寺によく伺いました。あのような場が今京都にないことは残念です。
勿論、内山老師もいらっしゃいませんけれど。でも老師のお書きになった詩は今も生きていますね。
慧
Posted at 07:33h, 10 11月SECRET: 0
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この詩を読み解くように努めながら、通夜や法事の場で、お話させていただいております。
佛祖の児孫として、一時的な癒しではなく、安心を伝える事が大切だと考えております。