大童法慧 | 満月の夜の坐禅会 9月2日講話
何かを得ようとするのではなく 何かを捨ててみよう
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9月 12日 満月の夜の坐禅会 9月2日講話

それでは、言の葉をご覧ください。その、1番を、まず、声に出しましょう。
私が先導いたしますので、それに続いて読んでください。

1、    体の中に

光を持とう

どんなことが起こっても

どんな苦しみのなかにあっても

光を消さないでゆこう  坂村真民

手放す 受け取る 調える

 

ありがとうございます。
意外に思われるかもしれませんが、お寺にはいろんな営業の電話が来ます。比較的多いのは、NTTの回線を安くするとか、檀家さんに配る記念品を作りませんかとか、ここのところは、永代供養のお墓を宣伝しませんか、とあるんですね。

 

それは、誰かの紹介ではなく、おそらくはなんだかの名簿をみながらの飛び込み営業です。こちらとしては、NTTの回線が500円ほど安くなるために、いろいろしなければならない手間が面倒ですし、記念品を作る理由もありませんし、永代供養墓を全面的に売り出して、儲けたいとも考えていないので、全部、お断りしております。

 

先日、同じ日に、永代供養墓を宣伝したいとの営業の電話が二件ありました。私は番号ディスプレイーを確認してから、電話にでるのですが、一つは、東京から。もう一つは、大阪からです。ともに、男性からの電話でした。

 

先にあった東京の会社。
少し話を聞いたところで、途中で遮りまして、電話を切りました。
というのも、なんとなくその人の話し方に嫌な響きを感じとってしまったからです。

 

数時間後にあった大阪の会社。
こちらは、また永代供養の件かと思いながらも、先方の言いたいことをすべて聞きました。もちろん、契約に至るということはありませんでしたが、一区切りするまでは聞く事ができた。

 

同じような内容の話の二人の男性からの電話。
東京からの電話は話を遮って切ってしまったけれど、大阪からの電話は話を最後まで聞き届けた。

 

じゃあ、何が違ったのだろうか、と思ったのです。
もちろん、電話をかけてきた二人のコミュニケーション能力の高低、話し方の上手い下手があるでしょう。また、微妙な声のトーン、高低、テンポ、リズム、音質もあります。

 

それらの条件を踏まえながらも、でも、一番の原因は、私とその人があうかあわないか、もっと単純に言えば、私がその人を好きか嫌いかという判断で、話を遮っておわるのか、最後まで聞くのかになってしまっている。

 

それは、いわば、私のえり好みです。私の身びいきです。
そして、もう一つ踏み込んで言うならば、それは、電話をかけてきた人自身のえり好みであり、身びいきなんです。

 

私たちは、このえり好みや身びいきが原因で、喧嘩をしたり、不倫をしたり、会社をやめたり、、、、悩み苦しんでいる。そして、誰かを殺めたり、物を盗んだりしてしまうことだってある。

 

言の葉2をご覧ください。

こちらにはノンバーバルコミュニケーション、非言語コミュニケーションの代表的なものをまとめておきました。声に出しましょうか。

 

ノンバーバルコミュニケーション

視覚的要素 表情、顔色、口角、目の動き、まばたき、眉間のしわ、視線の方向など

聴覚的要素 声のトーン、高低、テンポ、リズム、音質

臭覚的要素 香り

味覚的要素 味

身体感覚的要素 体の動き、ジェスチャー、しぐさ、呼吸

 

ありがとうございます。私たちは、ただの話し方だけを気にしているのではなく、その人全体を見ているのです。逆に言えば、私たちは他者から、私たちの全体、私たちの生き方、考え方を、たとえば、電話を通して、たとえば、食事の取り方を徹して、たとえば、酒の席の振る舞いを通して、見られている。
このことを、共に覚えておきたい。

 

と同時に、目の前に現れた事柄を嫌わない在り方に眼差しを定めておきたいのです。

 

言の葉3をご覧ください。声にだしましょう。

渾身、口に似て虚空に掛り

東西南北の風を問はず

一等に、他の為に、般若を談ず

滴丁東了、滴丁東  ていちんとうりょう、ていちんとう

 

道元禅師様のお師匠様、天童如浄禅師と言いますけれども、天童如浄禅師の風鈴の偈です。
『渾身、口に似て虚空に掛り、東西南北の風を問はず、一等に、他の為に、般若を談ず、滴丁東了、滴丁東』

 

意訳すれば、、、
全身を口のようにして虚空にかかっている風鈴は、
東西南北から吹いてくる風を選ぶことをせず、
ひたすらに真理の音だけを鳴らしている、
ちりん、ちりん・・・と。

 

この風鈴はどんな悟りの音を出しているのでしょうか。
それは私たちの人生というのは多くの関わりの中で自分があり、その中で学び、生きていかなければならないということです。そしてその多くの関わりそのものが、皆さん自身であるということです。

 

風鈴はどんな風も嫌いません、吹いてきた風は決して避けることが出来なかったと知らなければならないし、またその風を吹かせたのは実は、自分自身だと心得ておく。
そうすれば、チリンチリンといつも爽やかで心地よい響きに囲まれることでしょう。

 

その上で、もう一つ押さえておきたい事があります。
言の葉4をご覧ください。吉田松陰先生の『留魂録』の第8節です。声に出しましょう。

 

今日死を決するの安心は四時の順環に於いて得る所あり。
蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種(たねまき)し、夏苗(なえうえ)し、秋刈り、冬蔵(ぞう)す。秋冬に至れば人皆其の歳(さい)功(こう)の成るを悦び、酒を造り、醴(れい)を為(つく)り、村野歓謦あり。未だ曾て西成(せいせい)に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。
吾れ行年(こうねん)三十、一事成ることなくして死して禾稼(かか)の未だ秀でず實(みの)らざるに似たれば惜しむべきに似たり。
然れども義(ぎ)卿(けい)の身を以って云えば、是れ亦秀(しゅう)實(じつ)の時なり、何ぞ必ずしも哀しまん。何となれば人(じん)壽(じゅ)は定まりなし。禾稼(かか)の必ず四時(しいじ)を経(ふ)る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自(おのづか)ら四時(しいじ)あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短しとするは蟪(けい)古(こ)をして霊(れい)椿(ちん)たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲するなり。
斉(ひと)しく命(めい)に達せずとす。義(ぎ)卿(けい)三十、四時巳(すで)に備はる、亦(また)秀で亦(また)実る、その秕(しいな)たるとその粟(ぞく)たると吾が知る所に非ず。もし同志の士その微(び)衷(ちゅう)を憐み継紹(けいしょう)の人あらば、乃(すなわ)ち後来(ごらい)の種子(しゅし)未(いま)だ絶えず、自ら禾稼の有(ゆう)年(ねん)に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思(こうし)せよ。

 

ありがとうございます。意訳します。目で追ってください。

 

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである。
つまり、農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを聞いた事がない。
私は三十歳で生を終わろうとしている。未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれない。
だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。
人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季がある。
十歳をもって短いというのは、蝉を悠久の歳月を生きる椿にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、悠久の歳月を生きる椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なる籾殻なのか、成熟した粟の実なのかは私の知るところではない。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるであろう。同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい。

 

およそ、こんなところでしょうか。
安政6年、安政の大獄により、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命令しました。松陰先生は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されました。享年30歳。獄中にて遺書として門弟達に向けて書き残したものが、『留魂録』です。

 

私たちは健康長寿が頭の中に常にあります。
なんとなく、70,80、あわよくば、百まで。百二十まで。健康で元気に暮らしたい。
でも、本当は、そうじゃない。
医療が発達した現代でも、物に溢れたこの日本でも、やはり、死を避けて通ることはできないんですね。

 

今日、コミュニケーション能力とか、ノンバーバルコミュニケーションなどを持ってきましたが、、、本当は、そんな小手先の技法ではなくて、私たちが問われているのは、生きる姿勢ではないかと思うのです。

 

どう生きたいのか、何を眼におさめているのか。

 

言の葉5をご覧ください。声に出しましょう

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし大和魂

 

ありがとうございます。
これは、『留魂録』の冒頭にある歌です。
大和魂なんて言葉を使えば、自虐史観に毒された人たちにネトウヨなどと評されてしまいかねませんが、やはり、大切にしたいと思うのです。

 

大和魂を、坐禅で現わすならば、
己一人の幸せや幸運を願って坐るのが坐禅ではない、と最後に付け加えておきます。

 

残暑厳しく、また、台風も気にかかります。それぞれご自愛なさってください。

 

【普回向】


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