投稿日時 10:12
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
平成30年 年頭の覚書 何一つ とどまるものなき 世の中に ただ苦しみを留め 苦しむ すこしずつ 盃に入る 酒なれど 家田畑も ついに傾く
投稿日時 14:23
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
父親の13回忌を迎えた74歳の老女。 二人の子供は、大阪と仙台でそれぞれに家庭を持つ。 数年前に夫を見送り、独りで暮らす。 正月に法事を申し込んだつもりが、忘れていたという。 9月に改めたところ、その時間になっても来ない。 何度も詫びて、「ほんとうに恥…
投稿日時 21:46
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
2017年スピリチュアルケア学会。 基調講演は、「苦とどう向き合うか ~仏教の業思想を手がかりに~」京都文教大学学長 平岡 聡先生でした。 続くシンポジュウム「社会倫理の中のスピリチュアルケア ー 苦と慈悲の視点から」において、とても驚い…
投稿日時 08:07
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
私は、お通夜やご法事で絵本を用いてお話をさせていただくことがあります。 とても素敵な本もあるのですが、自分でも書きたいという想いが募り、ここ数年来、絵本テキストに取り組んでいます。 小学生の女の子が、祖母との死別、通夜、葬儀、荼毘を経験するストーリー。 出版社に持ち…
投稿日時 07:30
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
『「そのままの私」からはじめる坐禅』の校正で、自分の文章の癖や思い込みをまざまざと突き付けられました。 その大きな誤りの一つ。 ある日の坐禅中、如浄禅師は居眠りする僧を見て、「坐禅は身心脱落である」と言いました。その言葉を聞いた時、道元禅…
投稿日時 00:06
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
わずか2000字程度の原稿を七転八倒しながら、また、己を呪いながら過ごす時間。 何にも浮かばず時間が過ぎる。 かといって、寝ることもできもない。 まぁ、幸いに脱稿したけれども、その零れ落ちた部分。 書けなかったところの備忘。 情愛が深く絡む他者は、特に…
投稿日時 10:02
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
産経新聞 平成21年7月16日 朝の詩 より 草抜き 兵庫県養父市 米田啓祐 70歳 庭の草を抜いていると 頭の中に 次々と わき出てくる ことがある よく見ると 自分中心のことばかり いっしょに 抜いてしまおう と思うが 私という…
投稿日時 09:52
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
『夜と霧』V・E・フランクルにある「テヘランの死神」の件です。 この話は、私たちが下す判断というものは案外と頼りにならないものであるという視点を与えてくれます。 決して、安易な運命論に堕してはなりません。 裕福で力のあるペルシア人が、召使いをしたがえて屋敷の庭をそぞろ歩いていた。…
投稿日時 21:57
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僧侶的 いま・ここ
by 大童法慧
人間はスピリチュアルペインを持ち得る存在であるといえる。生死の痛みや疼きは、生き辛さやどうにもならない困難と出会ったり、病や死を突き付けられたり、罪の意識や自責の念に苛まれたり、価値観や死生観が揺らいだりと個々人で異なるものである。 De…
投稿日時 07:46
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僧侶的 いま・ここ
by houe_admin
「他者の苦難に共感する」とはどういうことかという問いに対し、私は『妙法蓮華経』「如来寿量品」良医病子の喩にある言葉、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」に答えがあると思います。
これは、あなたのその悲しみが、あなたをして必ず真実なるものに導くという意味です。ただしそのためには、その悲しみを抱き続けなければならないとします。これは一見、突き放したような物の言い方のように感じるやもしれませんが、自己と他者の課題を分けながら、横の関係の視点を持ち続ける大切さを現している言葉だと理解するからです。
かの大震災以来、優しいイメージを持つ「絆」という言葉を旗印に、他者に寄り添う、他者の苦難に共感するということが容易く発信されていることにいささかの違和感があります。方向性としてはいい、言葉としては受けいれやすい、でも、苦難の原点は思い通りにならないことにあります。
昨年の10月に、私はとてもつらい御葬儀をいたしました。故人様は、36歳の奥様でした。ご主人と受験を控えた中学校3年生と中学校2年生の年子の兄弟を遺しての旅立ちでした。伺えば、奥様は昨年の正月頃から胃が痛いと訴えていたそうです。けれども、病院には行かずに、市販の胃薬を飲んでいた。4月中旬、家族で東京ドームに行った日、「お腹がすいたから、お弁当を食べよう」と弁当を広げた時、奥様が呟いたそうです。「お腹がすいているのだけれども、なんだか食べる事ができない」
その時はじめて、これはおかしいと家族の誰もが思った。翌日病院で検査の結果は、癌が進行し、もってあと半年との宣告であったそうです。出棺の際の御主人のお言葉に、私も思わず涙いたしました。御主人はお位牌を力いっぱいに握りしめながら、絞り出すような声でこう仰いました。
「なぜ妻がこんな目にあわなければならないのですか。一生懸命生きてきて、優しい妻だった。それが、なぜこんな目に遭わなければならないのか解らない。誰か教えてください」
この問いへ、他者が答えるのは難しいことです。自分自身を納得させることはできても、今、この御主人に納得していただけるような答えは、だれも持たないでしょう。この苦難に共感するとは、簡単に言えるものではありません。
しかし、精進落としの席で「いまは悔しいけれど、時間が忘れさせてくれるよ」の言葉を耳にした時、今、私が僧侶として伝えなければならないことはこれだと確信しました。
時薬、日薬という言葉があるように時間が悲しみを癒すとも言われますが、その一方で、時間がたってから一気に悲しみに沈んでしまう方がいるなかで、悲しみを乗り越えるとか、悲しみから立ち直るという言葉は、本当はそぐわないと思います。
すなわち、寄り添うとはただその場にいることではなく、他者の悲しみや苦しみという言葉を借りた自らの煩悩に向き合う努力を意味し、共感とはただ頷くことではなく、他者と自らの埋まらない違いに戸惑いながらも、共に明るい方向へと進む意思だということ。
ですから、「常懐悲感 心遂醒悟~常に悲感を懐いて、心、遂に醒悟す~」悲しみは抱き続ける智慧と勇気を持つことが大切であり、自分自身の学習と訓練、智慧と勇気を深め、「だけど、生きる」「だけれども、生きる」の視点を共有すること、それが他者の苦難を共感することにつながるのではないかと考えます。