3月 31日 親
投稿日時 14:18
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
40歳も半ばを過ぎると、友人からの結婚式の招待状はほとんど届かなくなります。 たまに二度目や三度目の案内を受け取ることもありますが、祝い事へのお呼ばれよりも、喪服を着る機会の方が増えてくるものです。 そして現実に、親の介護や親の葬儀というものに直面する世代となります。 「親孝行、…
投稿日時 13:58
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
手にした物の数を競う人生。
人を二つの種類に分ける世の中。
悲しい哉、私たちには、物事に善悪や優劣の評価を自分の感覚のみで行い、それを絶対の価値観として生きている面があります。
そして、他者との比較の中で、自分を確認し、強く見せたり、賢く見せたり、威張ったり、怒鳴ったり・・・
あいつは金持ちだけど、俺の方が頭はいい。
あの人はもてるけれど、私の方が心はきれい。
そんな言い訳を作り出し、自らを慰める。
でも、比べる事により満足や喜びを得ようというのだけれども、満ち足りる事は、おそらく、ないでしょう。
自慢されると、鼻につく。
高慢な態度には、反発する。
わかっちゃいるけど、やめられない。
比べる心は、煩悩のひとつ。
1.高慢 自分の方が上だ
2.過慢 同上とほぼ同義
3.慢過慢 相手が上であっても同等だと思う
4.我慢 自分の考えは変わらないという思いあがり
5.増上慢 悟った、極意を得たという思い上がり
6.卑下慢 劣等感に落ち込む
7.邪慢 自分には徳があると思いこむ
野放図な煩悩は、やがて、悲劇を産む。
責任の裏付けのない権利。
こらえ性のない、傍若無人の態度を、力だと信じる短絡的な輩。
法に触れなければ何をしても良いという考え。
いくら、口を尖らせ、眉を吊り上げ、恫喝したとしても・・・それは、戯言にすぎない。
比べる心を手放そう。
2月 22日 確信
投稿日時 06:43
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
あなたと出会い30数年
同い年の58歳
2月 私の癌が見つかり あなたは仕事を辞めた
感謝の思いで一杯だけど 「迷惑をかけたな」という思いも拭われない
三度の抗癌剤の治療も甲斐なく これから免疫療法
はじめはそんなに仲のいい夫婦じゃなかったと思う
喧嘩もした 別居もした
あなたには 私以外の女もいたはず
子ども3人はそれぞれ自立したから、、、、安心
可愛い可愛い孫も抱けた
今 あなたは献身的に私を支えてくれている
毎朝 仏壇の前でお経を1時間も唱え 私の回復を祈る
食事を作り 病院まで車を走らせ 私を待つ
時折 部屋に籠るのは あなたの癖
6月「坐禅をしてみないか」とあなたは私に問いかけた
「しんどいから、嫌よ」と私は笑いながら言った
数日後今度は 「坐禅をしてみようよ」と誘ってきた
「うーん、それも悪くはないわね」と答えてあげた
ふと襲われる 死のささやき声に胸の奥が騒ぎ立つ
暴れたい気持ちを抑え 気づかれぬように独り止まらない涙をふく
突然の事故で亡くなった方の報道を見て思うことがある
もしかしたら 家の洗濯物は干したまま?
保育園の迎えは誰が行くの? 晩御飯の準備はどうするの?
いつもの暮らし 決まっていた行事 楽しみにしていた旅行
悲しみを比べてはいけないけれど・・・
この病のおかげで人生のまとめができると思った
几帳面な私には必要な時間 案外素敵なプレゼント
眼を閉じると 懐かしい顔
暖かな日々 緩やかな時間
友達 恋人 先生 お父さん お母さん
7月 あなたの選んだお寺で坐禅をした
「無理に足は組まなくてもいいですよ」と小太りの老師は教えてくれた
身体を真っ直ぐにして、ひと息ひと息を丁寧にと
およそ40分
病気のこと 子どもたちの顔 孫のしぐさ そんなことが心の中を駆け巡った
でもふと「あなたがいない!」と思った
慌てた私は 隣に坐るあなたの顔を見た
あなたがいた
私の隣で 穏やかに凛として とても綺麗なあなたの顔
この禅堂のなかで あなたと私が坐っている
この世界のなかで あなたと私がひとつになってここにいる
照りつける夏の太陽
秋の心地よい涼しい風
雪の季節は穏やかに過ごしたい
そして いつもの見慣れた台所
あなたと子どもたち3人とそのお嫁さんと大切な孫のあいるちゃん
留めておきたい このままいたい
目に映るものが優しい もったいないこの時間 何もかもが愛おしい
今 素直に思えるの
生れてよかった 生きてきてよかった
本当に生れてよかった 本当に生きてきよてかった
2月 04日 心得
投稿日時 22:46
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
先日、急用のため、新横浜から広島に向かう新幹線に飛び乗りました。
新大阪に到着した時のこと。
不意に前の座席から、金髪で鼻にピアスをした若者から、「あの~、すみません」と声をかけられました。
「何ですか」と応じると、彼はこう言ったのです。
「座席を少し倒してもいいですか」
正直な話、まさかそんな言葉を聞くとは思いませんでした。
そして、自らを省みて、飛行機でも新幹線でも座席を倒す時、その言葉をかけることを忘れておりました。
だから、彼に対して「ありがとう。どうぞ。」と答えました。
彼との出会いは、それだけです。
でも私は、「ああ、こういう所だな」「こういう命の使い方を心得ておかなければならないな」と教えられました。
そういえば、新幹線が停車するたびに、乗り換えのご案内とこんなアナウンスが流れています。
「お降りの際は、お座りになられました座席のシートをもとに戻すのに御協力ください」
停車する駅ごとに、このアナウンスが入る事を考えれば、おそらく徹底されていないのでしょう。
座席をもとに戻すどころか、前のアミには、ゴミを入れてそのままだし、読んだ新聞や雑誌は席においたまま。
わりとよく目にする光景です。
口をとがらせ、権利ばかりを要求する姿。
居酒屋では食い散らかし、ホテルのベットには濡れたバスタオル。
スーパーに行けば、買うつもりのお刺身をやめて、肉の売り場に置き残す。
心得ておきたい言葉の一つです。
「すみません、座席を後ろに倒してもいいでしょうか」
投稿日時 08:14
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
悲しみは、どうやら、突然やってくる。
そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。
「お参りさせてください」と言って、本堂で手を合わす女性。
半時あまり過ぎた頃、「ありがとうございます」と声をかけてこられた。
お茶を進めたら、笑顔で頷いた。
「先日、病院で検査して、癌だと告げられました。
治療を進められたけれども・・・おかげさまで、決めることができました。
ここで、母のことや自分の人生を振り返って、甥には迷惑かけられない、と決めました。
私、もう70年も生きてきた、もう十分だって思えた。だから、治療はしない。」
悲しみは、どうやら、突然やってくる。
そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。
でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。
行きつけのショトバーで「同い年だね」と、私に語しかけてきた男がいた。
バツイチ無職、女のところに転がり込んで威張り散らす彼。
9歳の子供の親権は、当然、別れた妻が持っているという。
聞けば、せっかく勤めた会社も、「給料が安い」「馬鹿にされた」と理由をつけ辞めてしまう。
酒を飲めば暴れる、甲斐性なし。
それでも、どういうわけか、女にはもてて食うに困らない。
女は別れたくても、別れられない。
だから、本人は追い詰められない。
でも、今日は違った。
ショットバーではなく、お寺を訪ねてきた彼が、絞り出すように言った。
「息子が・・・」
悲しみは、どうやら、突然やってくる。
そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。
でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。
そういえば・・・
絶望を胸にした時、痛切に思った事がある。
「なぜ、こんなに悲しいのに、こんなに苦しいのに、こんなに辛いのに・・・また、朝がくるのか」
「自分がこんなに悲しくても、朝が来る」
訪れた朝が、憎く恨んだ。
訪れた朝に、怯え震えた。
悲しみは、どうやら、突然やってくる。
そして、突然、やってきた悲しみは、とても悲しい。
でも、私たちは、その悲しみを避けて通れない。
いつも、あなたを思い出す。
いつも、懐かしく思う。
あらざらむ この世の外の 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふこともがな 和泉式部
投稿日時 17:26
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
八風吹けども・・・
追い風にのり、順風満帆な日もある
非難批判の風がふきつけ、足元がすくわれる時もある
突然呼ばれた会議室、告げられた言葉
誤解、裏切り、かばわぬ上司
覗いたメール、ふたりだけの言葉
不倫、言い訳、甲斐性なし
再検査、告げられた病
不安、受容までの道のり、憐みの涙
八風吹けども・・・動ぜず
動ぜぬものは、何だろう?
ジムで鍛え、サプリを飲み続けた頑強な身体も老いていく
全ては心次第だと悟った心も、強風に引きづられ振り回される
この身と心は、そんなにあてにならない
そう、動ぜぬものとは・・・真実なるものがあると信じ、気づく歩み
会議室での数分間は、お釈迦様からの風
覗いたメールで別れたのは、道元さまからの風
告げられた病で人生をまとめられたのは、瑩山さまからの風
妬み嫉みで貶めようという世界が現れたとしても
自分がどんなに嫌いになったとしても
「もうだめだ」と呟く事態に陥ったとしても
そう、南無帰依佛と誓ったからには‥‥菩提の行願
投稿日時 03:33
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
かつて、私はとても裕福な家に育ちました。
今思えば、とても幸せなことでした。
年頃に、両親が選んだお相手も、申し分のない方でした。
しかし私には、好きな人がおりました。
そう、私の家で働いていていた彼です。
彼との間に、子どもを身籠ってしまいました。
若気の至りというのでしょう。
許されぬ恋に燃え、駆け落ちをした私たちは、遠い町で暮らしを始めました。
出産が間近になった頃、ふと思い出しました。
子どもは実家で産まなければならないという、私の国の習慣を。
「実家で子どもを産みたい」と告げる私に、夫は怖れました。
でも私は、実家へと戻る旅を始めました。
夫もしぶしぶ後を追ってきましたが、旅の途中で陣痛があり、そこで子どもを産みました。
そして、私たちは実家に帰らずに、自分たちの家に引き返す事を決めました。
数年後、また私は子どもを授かりました。
そして、家族で実家に向かうことにしました。
旅の途中、激しい嵐の日、また陣痛がはじまったのです。
私が横たわっている間に夫は、雨をしのぐ覆いにする枝を集めるために森へ行きました。
けれども、夫はそこで、毒蛇にかまれ死にました。
子どもは無事生まれました。
途方にくれた私は、赤ちゃんを抱き、もうひとりの子の手を引いて、実家を目指すことにしました。
強い雨の続くある日、洪水で水かさの増した河を渡らなければなりませんでした。
でも、私には一度にふたりの子どもを運ぶことはできませんでした。
私は上の子を河岸に残すと、まず、赤ちゃんを抱いて対岸に渡りました。
川を渡り切り、大切な赤ちゃんを地面に置いた時、大きな鷹が赤ちゃんに襲いかかってきたのです。
私は、大声を出して追い払いました。
その様子を見た対岸で待っていた上の子は、私が呼んでいると思ったのでしょう。
なんと、河に飛び込んだのです。
驚いた私も、その子を救おうと飛び込みました。
しかし、上の子は急流に流されて溺れてしまったのです。
そして、私が岸に上がった時、鷹が赤ちゃんを連れ去る姿を見ました。
私は、ただ歩きました。
夫を、かわいい子供を、赤ちゃんを思って、歩きました。
父を、母を思って歩きました。
故郷の町はずれで、ある男に、私の実家について尋ねました。
彼は言いました。
「その家については、聞かないでくれ。」
問い詰めた私に、男が答えました。
昨晩のひどい嵐が私の実家を壊し、その家の者たちが全て亡くなったと言うのです。
「全てを失くした」と思った時、私は気を失いました。
それ以後のことは、全く覚えておりません。
泣きながら地面をのたうち回り、人を見れば悪態をつき、絡み、暴れ・・・
ある日、町の人々が、暴れる私を押さえつけるようにお釈迦さまのところへ連れて行きました。
お釈迦さまは、私の目をしっかりと見つめ、こうおっしゃいました。
「涙・・・大海の水ほどの悲しみの涙」
首をかしげる私に、お釈迦様は示されました。
「この世は、無常であります。みんな移り変わっていく。
私たちが生きるということは、大海の水ほどの悲しみの涙を流すことでもあります。
あなたの悲しみは、あなただけのものではない。
人として生まれてきた以上、避けてとおることはできないものなのです。
だからこそ私たちは、決して無くならないもの、誰からも奪われないもの・・・
真実なるものを求めなければならない」
私は頭を剃り、お釈迦さまの弟子となりました。
今思えば・・・そう、その時には思えなかったけれど・・・
今、思えば・・・窮することは、決して悪いことでなかった。
「よくある話」だと、笑われるかもしれませんが、本当にあったのです。
私たちは、苦しく辛い状況を、早く解決したいと願うものですが・・・
苦しい気持ちこそが懺悔であり、解決であると思い定めることも必要ではないかと思います。
それは、決して独りよがりの判断ではなく、また、安易な道でもありません。
というのも、その状況が真実なるものに導いてくれることもあるからです。
だから、あなたの胸の痛みを大切にしてください。
そして、これ以上、御自身を責めないでください。
9月 19日 彼岸到
投稿日時 03:33
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
彼岸には、
布施 <分け合う事>
持戒 <慎む事>
忍辱 <忍ぶ事>
精進 <努力する事>
禅定 <心を静める事>
智慧 <学ぶ事>
を実践していくことによって、迷いのこの岸から悟りの彼の岸に渡るという意味があります。
けれども禅では、もっと深く彼岸を受けとめます。
それは、迷いと思っているこの岸こそが、悟りの彼の岸でもあるのだよ、という事であります。
つまり、遠くの彼の岸を見て、足元を忘れちゃいけないよ、というのです。
この岸、つまり、「今・ここ」を大切にする歩みを深めることで、この岸も彼の岸もないというへだてのない世界、つまり、ひとつながりの世界に気付く、それが禅であります。
たとえば、私たちには夢や目標があります。その夢や目標に向かって計画を立てて実行していく。夢が叶えば、当然嬉しい。
けれども、挫折や失敗することもあります。そんな時、私たちは言い訳をしたり、人のせいにしたりする癖が出てしまいがちです。
でも実は、夢に向かって歩いているその歩みこそが、夢の達成であり、夢が叶ったその瞬間と同じくらい大切なはずなのです。そう言える視点、ものの見方が禅なのであります。
遠くの結果を見つめるのではなく、今・ここの足元を大切にする歩み。
そこに必ず、穏やかな心持ちと生きる勇気が現れてきます。
彼の岸と此の岸は離れていない。ひとつながりであります。
ここをしっかりと受け止めて、互いに歩みを深めてまいりましょう。
投稿日時 21:00
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
「先生さようなら、みなさんさようなら」
病気と転校、そして、事故がないかぎり、また教室で会えた。
また明日 バイバイ それじゃ、またね さようなら
「さようなら」は、「左様ならば・・・」が語源らしい。
振り返れば、ずいぶんと、「さようなら」をしてきたものだ。
あんなに仲のよかった友とは、何年も会っていない。
お互いに、田舎を離れりゃ、仕方がない。
所帯を構えて、ガキが二人いりゃあ、東京にもこれんわな。
結婚しようと誓った女は、今では、消息すらわからない。
思い出そうにも、顔がぼやけてかすんでしまう。
切に願わくは、非道い男に会っていない事を。
自分が嫌で、厭でたまらなかった。
だから、頭を剃るのに、迷いはなかった。
しかし、本当は、さよならすべきは自分自身だった。
また明日 バイバイ それじゃ、またね さようなら
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
この井伏鱒二の名訳を知ったのは、川島雄三の墓碑銘のおかげだった。
また明日 バイバイ それじゃ、またね さようなら
学生の頃、遠州流を習っていた。
先日、先生の訃報を聞いた。
「一期一会は、なにも、お茶だけの事じゃないのよね。
綺麗にさようならをするのが、一期一会。ねぇ、あなたはどう思う?」
先生、あれから、およそ20年が経ちましたね。
禅の世界に生きて、私はこんな事を知りました。
別れても別れない、さようならがある事を。
離れても離れられない、温かな世界である事を。
謹んでご冥福をお祈りいたします 法慧合掌
投稿日時 12:40
カテゴリ:
僧侶的 いま・ここ,
法話
by houe_admin
禅とは、一体、どういうものでしょうか?
私は、禅とは、一言で申せば、根っこではないかと思います。
根っこが、自分にある事を信じ、根っこのありかに気づき、そして、その根っこと、しっかりつながった歩みをするのが禅だと思うのです。
あいだみつをさんの詩集『にんげんだもの』に、こんな言葉があります。
花を支える枝
枝を支える幹
幹を支える根
根は見えねんだな
私たちは、咲いた花の大きさや色や形のみを評価します。
しかし、目に見えないけれど、その花を根幹で支えている大切なもの、それが根っこです。
私が私である根拠。私を私としてなさしめているものは、何か?
根本の根本にあるもの。
そんな私たちの根っこ、それは、強く、大きく、そして、絶対のものでなければならないはずです。
なぜなら、せっかく、人として生まれてきて、人生を安っぽいものに騙されたり、侵されたりしてはもったいない。
何があっても動じないもの、そして、何物にも奪われないもの、決して、無くならないもの。
それこそが、私たちの根っこであるはずです。
では、その大切な根っこは、どこにあるのでしょうか?
曹洞宗の禅僧に、内山興正老師という方がおられます。
明治45年に生まれ、平成10年に遷化、つまり、亡くなられました。
坐禅一筋に生きられ、また、多くの御著書があります。
その内山老師が、こんな詩を遺されております。
貧しくても貧しからず
病んでも病まず
老いても老いず
死んでも死なず
すべて二つに分かれる以前の実物
ここには 無限の奥がある
いかがでしょう?二つに分かれる以前の実物。
この二つとは、生と死、良い悪い、勝った負けた、損した得した、好きだ嫌いだという相対の世界、つまり、比べる、比較する、対立の世界です。
普段、私たちは、自分の頭の中で作り出した、この対立の世界に悩み苦しんでいるのではないでしょうか?
そして、私たちは、自分の頭で考えた対立の世界こそが全てであると、思っているのではないでしょうか?
二つに分かれる以前、つまり、一つ。
その一つの世界にこそ、私たちの根っこがある。
そして、その根っこには、無限の奥がある。
今日、これから坐禅をしていただきますが、まず、大切な事は、姿勢を正す事です。
後ろ頭で天を衝くような気持で、腰骨を立てる。
姿勢が整えば、呼吸が整い、おのずと、心も整ってくる。
坐禅をすると、煩悩や妄想が取り払われて、無になるとか、また、無にならなければと誤解している方がいるかもしれません。
しかし、実際に坐れば、かえって、いろいろな考えや思いが浮かんでくる事に驚くでしょう。
また、足腰のしびれや痛みになやまされるかもしれません。
私が坐禅を始めた頃、今と同じように太っていて、また、体がとてもかたかったものですから、片足のみを組む半跏趺坐さえも、ままになりませんでした。
一炷40分の間に、何度も足を組み換えて、その痛さに泣き出しそうになっておりました。
頭の中を駆け巡る様々な思いや、足腰の痛み。
時には、突然、畳の目ひとつひとつに、お観音様のお姿が浮かび上がるかもしれない。
時には、線香の焼け落ちる灰の音が、「ドスン」と、腹に響くような大きな音に聞こえるかもしれません。
しかし、ここで、最も大事な事は、その浮かんできた事を追いかけない。
何が起きても、相手にせず、邪魔にせず。
また、何も起きなくても、相手にせず、邪魔にせず。
そうすれば、坐禅をする中で、自分の頭で作り出した対立の世界が、決して、全てではないのだ、と必ず気づくはずです。
その気づきが、私たちの根っこへの扉となるでしょう。
坐禅をはじめるにあたって、道元禅師のご著書に、とても勇気づけられる言葉があります。
「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」
佛祖とは、お釈迦様、そして、その教えを命がけとなって信じ守り伝えてきた禅僧の事であります。
おうしゃくと読みましたが、おうせき、つまり、昔の事です。
当来は、来るべき未来のことです。
一本の道。
今、私は、お釈迦さまと同じ一本の道を歩んでいるのだ。
かつては、お釈迦さまもこの私と同じように、自分の根っこを見失った日送りをしていた。
それ故に、苦しみに引きずられたり、悲しみに迷わされたりもしていた。
ああもう駄目だと泣いた事も、どうすればよいかと悩んだこともあったでしょう。
しかし、お釈迦様は自分に根っこがある事を信じ、根っこに気づき、そして、根っことしっかりつながった歩みを進められた。
そう、私も、まず、根っこが自分にあると信じる事からはじめてみよう。
そこに自ずと、お釈迦様と同じものの見方ができてくる。
その歩みのなかで、安心、即ち、こころのやすらぎを得、そして、必ず、生きる勇気を持ち続ける事ができるのだ。
「佛祖の往昔は我等なり、我等が当来は佛祖ならん」
お釈迦様と同じ歩みをする、この根っこにしっかりつながった歩みをする。
道元禅師は、この道を信じて歩けと、私たちを励ましてくれております。
それでは、共に、悠々と堂々と坐りましょう。